叔母さん(1)
1901(明治34)年4月29日月曜日、午前8時。
「それじゃ、行ってきます」
青山御殿の玄関前。千夏さんとともに、自転車に跨ろうとした私は、ふと違和感を覚え、いったん自転車から離れて、玄関前に立っている大山さんに歩み寄った。
「いかがなさいましたか?」
首を傾げた大山さんの耳元に口を近づけると、
「大山さん、体調は大丈夫?」
私はこう囁いた。「少し顔が青白いような気がするから。どこか、具合の悪いところはない?」
「大丈夫ですよ、梨花さま」
大山さんも小さな声で返しながら、私に微笑を向けた。「そうですね、昨日の井上さんの茶会で、少し疲れてしまっただけです」
「ああ、そう言えば、昨日、西郷さん以外の梨花会全員を招いてやったって言ってたね。確かに、茶会はお作法だらけだから……」
私は、先日招かれた井上さんの茶会のことを思い出して苦笑した。井上さんの料理がとても美味しかったのは嬉しかったけれど、作法だらけでとても緊張してしまった。大山さんと児玉さんが、“お仕置き”として、茶会をチョイスしたのも頷ける。やはり、大山さんも堅苦しいのが苦手なのだろうか。そう思っていると、
「いや、そういう訳ではなくて、料理が……その……」
大山さんはそう答えてうつむいた。
「料理?」
(井上さんの料理、皆が脅してたほど突飛じゃなかったし、美味しかったけどなぁ……)
私はそう思ったけれど、それは口に出さず、
「じゃあ、今日は無理しないで、どうしても体調が悪かったら、早めに帰ってね」
大山さんに小声でお願いした。
「あ、そうだ、花御殿から、連絡はまだないのね?」
念のため確認すると、
「ええ、ございません」
大山さんは私に返答する。既に、表情にはいつもの穏やかさが戻っていた。
「本当ね?だって、伊藤さんの計画がズバリ当たるとしたら、その……今日だからさ、予定の日」
私はそう言って、眼を伏せた。「心配なのよ。現場には入れないけれど、もし私がそばにいて力になれるんだったら、そばにいたいって……」
「お気持ちは分かりますが」
我が臣下は、静かに首を横に振った。「梨花さまは、上医になられるためにご修業中の身。今は平常心を保ち、医学の修業に励んでいただかなくては」
「そうだけど……」
食い下がろうとする私を無視して、大山さんは「千夏どの」と私の女官に呼びかけた。
「こちらに来ていただけますか。このままだと、内親王殿下が学校に遅れてしまいます」
「はいです!」
千夏さんは自転車から降りると、こちらに小走りで駆けてきて、
「さぁ、宮さま。行きましょう!」
私の右腕を掴むと、自転車のある方向へと私の身体を引っ張る。流石、宮内省でも噂になった柔道の手練れ、私の身体は抵抗むなしく、千夏さんに引きずられ、大山さんから離れて行ってしまった。
「では、宮さま、安全運転でお願い致します!」
後ろから声を掛ける私の乳母子に、
「分かりました」
ため息をつきながら返事すると、私は自転車を走らせ始めた。
今日は……“史実”で、兄の長男・迪宮裕仁親王殿下、私の時代で言う昭和天皇が生まれた日である。そして、この時の流れでも、兄の妻である節子さまは、臨月を迎えていた。
“史実”でもこの時の流れでも、この時期に兄の教育に関わっていた伊藤さん曰く、
――“史実”と同じく、妃殿下が男児を産んでくださるように、結婚式の日取りも、結婚後のご旅行の日程も、避暑の日程も、全て“史実”と同じにしたのですよ。
……ということだ。そして、それが当たったのかどうかは分からないけれど、節子さまは身ごもった。そして伊藤さんは更に、「ダメ押しです」と言いつつ、節子さまの着帯の儀も、“史実”と同じ日に執り行った。今の皇室典範に従えば、皇位を継げるのは男系男子だけなので、兄に男の子が生まれるというのは、皇位継承上、非常に大事なことなのである。
(それは分かるけど、第一に、生まれる赤ちゃんが健康であることと、分娩が終わった節子さまが健康であることが大事で……って言っても、この時代じゃ通用しないよなぁ……。ああ、節子さまにかかるプレッシャーが半端なさそう……)
女医学校に着いてからも、色々と思い悩んでいると、
『皇太子妃殿下のことがご心配ですか』
午後の内科の授業の後、ベルツ先生が私の席のそばまで来て、ドイツ語で話しかけた。3月から女医学校で内科の授業を週に2コマ担当し始めたベルツ先生だけれど、帝国大学の常勤職を退いた4月からは、週に3コマ、月・水・金曜日に授業をするようになった。
『それはもちろん』
私はドイツ語でベルツ先生に答えた。女医学校で、私の正体に関わりそうな話をベルツ先生とするときは、ドイツ語で会話すると取り決めているのだ。
『ここ1週間ほど、ずっと気持ちが落ち着きません。私の正体を秘匿しなくてはならないから、分娩を手伝うこともできないですし……』
『なるほど。事情を知らない花御殿の方々には、その髪型は秘密ですからね。昔の髪型では、清潔操作に支障が出てしまいます』
『それに、節子さま、精神的に重圧が掛かってるんじゃないかって……』
すると、ベルツ先生はふっと微笑んで、『大丈夫ですよ』と言った。
『殿下と皇太子殿下が、節子さまを守ればよろしいのです。これは、どんな医者にも、することができない仕事です』
(!)
私は息を飲んだ。確かに、ベルツ先生の言う通りだ。もし、節子さまが、有形無形のプレッシャーに襲われるとしたら……彼女をすぐ守れるのは、身近にいる兄と私だ。
『ありがとうございます、先生。私、兄と一緒に、できることをやります』
頷きながらベルツ先生に答えると、
『そうです。それでこそ殿下です』
ベルツ先生も、微笑みながら頷いてくれた。
午後7時30分。
青山御殿に戻った私が、食堂で母と千夏さんと一緒に夕食をとり、食後のお茶に口を付けようとした瞬間、急に玄関の方が騒がしくなった。
(どうしたのかな?)
緑茶の入った湯呑を置いて、様子をうかがっていると、とんでもない気配が私の感覚に引っかかった。
(こ、これは……兄上?!)
慌てて椅子から立ち上がり、食堂の扉を開けると、目の前に息を切らした兄が立っていた。
「梨花……!」
「兄上っ!」
私は兄に抱き付くと、少し背伸びして、耳に口を近づける。
「名前っ!今、千夏さんがいるから!」
千夏さんは、私の前世のことを知らない。きつい口調で囁くと、兄はようやく落ち着きを取り戻し、「あ、ああ、章子……」と頷いた。
「で、どうしたの、兄上?単独行動すると、また児玉さんに怒られるよ?」
「案ずるな、武官長の許可は取っている。いや、そんなことを話している場合ではない。すぐ花御殿に来い。節子が分娩所に入った!」
「!」
私は目を見開いた。分娩所は、今回の節子さまの出産に備えて、急遽花御殿のそばに建てられたものだ。花御殿とは、渡り廊下でつながっている。そこを節子さまが使うのは、子宮の出口がかなり開いてからだから……。
「ちょっと待って、兄上!節子さま、陣痛が始まってたの?!」
「ああ、朝の10時ごろからな。午後になって間隔が詰まってきて……午後から、何度も青山御殿に使いを出していたのだが、一向にお前が来ないから、俺がお前を迎えに来た」
「はぁ?」
(使いが来てた?そんな話、私は聞いてないけど……)
兄の話が、どうもよく分からない。眉をしかめると、
「それは、ご心配をかけて申し訳ありませんでした、皇太子殿下」
私の後ろで、母が椅子から立って一礼した。
「大山さまのご意見もあって、夕食が済むまでは、章子さんにそちらの状況を知らせないことにしておりましたの。ね、千夏さん」
「はいです」
千夏さんが私に近づき、「これは、大山閣下からのお言付けです」と、懐から取り出した紙を渡す。開くと、“腹が減っては戦ができぬと言いますし、御夕食の後に花御殿に参られますように”という我が臣下の筆跡が、白い紙の上に躍っていた。
「もし、花御殿のご様子が、章子さんの耳に入ってしまったら、御夕食どころではなくなってしまうから、と大山さまがおっしゃって……」
母はそう言って、クスッと笑う。確かにその通りなので、私は何も言えなくなってしまった。やはり、大山さんは、私の考えることなどお見通しである。
「流石は大山大将だな」
言付けの紙を盗み見た兄が苦笑した。「しかし、今の様子を見ると、夕食は終わったのだろう?ならば、こちらに来い」
「了解、兄上。髪をポニーテールに直してから行くから、兄上は先に花御殿に戻ってて」
私は一度寝室に引っ込み、鏡台の前に座った。自分で髪型を直そうとしたら、
「千夏が致します!」
と千夏さんに主張され、“これから花御殿に行かれるのだから”と、非常に丁寧に、時間をかけてポニーテールを結われてしまった。しかも、私が学校に行く時の深緑色の着物のままでいたので、
「地味過ぎますから、御召替えが必要です!」
と千夏さんに説教され、慌てて白地に水色の小さな花模様の着物と群青色の女袴を出し、それに着替えるという手順が追加されてしまい、結局、花御殿に着いたのは、午後9時を大きく回ってからだった。
「おお、いらっしゃいましたか、増宮さま」
花御殿で出迎えてくれたのは、東宮武官長の児玉さんだ。
「ごめんなさい。何度も使いをくれたのにこっちに来なくて。大山さんが、私に情報が入るのを止めていたみたいなんです。しかも、身支度に時間が掛かってしまって……本当にごめんなさい」
児玉さんに頭を下げると、「ははぁ、なるほど」と彼はニヤリと笑った。
「ま、まぁ、私がもっと修業を積んで、冷静に対処できたら、大山さんも情報を止めるなんてことをしないで済んだんでしょうけれど」
私がそう言うと、
「いや、これは修業を積んでいても、なかなか冷静には対処できないでしょうな」
と、児玉さんはずっとニヤニヤしている。
「どういうことですか?」
「まぁ、中に入られれば分かるかと。どうぞ、増宮さま」
児玉さんの言葉の意味が、なんだかよく分からない。とりあえず、彼の言葉に従って、花御殿に上がることにした。




