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転生内親王は上医を目指す  作者: 佐藤庵
第4章 1890(明治23)年小暑~1890(明治23)年処暑
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マラリア

 手を石鹸で洗って、殿下の部屋に戻ると、指頭血採血の準備が、すっかり整えられていた。三浦先生がセッティングをしてくれたらしい。

「章子、わたしも手を洗ったぞ。さて、早くやっておくれ」

 布団の上で身を起こしている皇太子殿下が、微笑している。

「ちょっと待ってください。まず、自分で練習します。あ、そうだ!三浦先生、消毒薬ってありますか?」

 できることなら、手指の消毒はしておきたいと思ったのだけれど、

「え、消毒薬、ですか……はい、石炭酸なら、少しありますが……」

三浦先生の答えは、私の期待から大きく外れたものだった。

「だったら、いいです……。石鹸で手を洗ったし、フェノールって、手が荒れるから……」

 私はため息をついた。この時代、手洗いに使う消毒液は、石炭酸、すなわち、フェノールだ。手に付着したら、皮膚炎になってしまう。手術の時には、滅菌手袋を使うのが、急速に普及していると聞いたけれど……。

(消毒用のアルコール、作るようにお願いしておけばよかったかな……)

 前世(へいせい)で使われている“消毒用アルコール”というのは、エタノールに水などを加えたものだ。実は、100%純粋なエタノールは、その殺菌効果を十分に発揮しないのだ……と、前世(へいせい)で、授業の雑談で聞いた。

(でも、混合比率までは覚えてなかったのよね……まさか、花御殿で、自分で実験するわけにもいかなかったし……)

「じゃあ、注射針をください」

 気を取り直し、私は三浦先生から注射針を受け取った。とにかく、前世で研修医として働いていた時の感覚を、少しでも戻さなければいけない。

「ええと、まず、針をこのように構えて……あ」

 三浦先生が説明しようとする前に、私は右手の注射針を、ためらいなく、左手の人差し指の腹に刺してしまった。痛点にぶつかったらしく、結構な痛みが走った。針を外すと、血液の滴が自然に湧き上がってくる。

「ごめんなさい……こんな感じで、いいのかしら?」

 まだ少し痛みが残るけれど、三浦先生に笑顔を向けた。

「ああ、は、はい、それで結構ですが……もう少し、浅く刺してようございます」

 三浦先生は、完全に動揺していた。

「わかりました。……あの、この針、このままでは危ないので、そうですね……小さなお皿を持ってきてもらえますか?そこに針を捨てます」

 一度使った針は廃棄するのが、前世(へいせい)の医療では常識だ。

 三浦先生が、慌てて立ち上がった。ベルツ先生についてきた女性も立ち上がって、三浦先生について、廊下に出ていく。ベルツ先生は、じっと私を見ていた。

 私は、右手で注射針を持ったまま、左手の親指で、左手の人差し指の腹を思いっきり押さえた。思ったより傷が深かったようで、血がにじむ速度が、少し速い。けれど、1,2mmの幅しかない傷なので、圧迫を続ければそのうち止まるだろう。

「増宮さま、血が……!」

 私の様子を見ていた伊藤さんの顔が、青ざめた。

「伊藤さま、血が出るように刺したのですから、血が出るのは当たり前です……」

 私は呆れながら答えた。

「しかし……」

 伊藤さんは、血の気の失せた顔で、明らかに戸惑っていた。

「大丈夫です。数分圧迫していれば、止血されます」

「俊輔、少し落ち着け」

 山縣さんが、伊藤さんの肩を後ろから叩く。少し、眉根を寄せている気もするけれど、伊藤さんほどの動揺はないようだ。

「しかしだなあ、狂介……」

 伊藤さんが山縣さんの方に振り向いて、抗議しようとしたところに、三浦先生と、ベルツ先生の連れの女性が、小皿を持って戻ってきた。

「あ、ありがとうございます。では、お皿をこちらに置いていただけますか?」

 私は自分の膝のそばを指し示した。三浦先生が慎重に、小皿を畳の上に置く。お皿の中に、使った注射針を置くときに、うっかり、左の人差し指の圧迫が取れてしまったけれど、数十秒観察しても、もう新しく血がにじむことはなかった。

「私、もう一度手を洗ってきます。三浦先生、新しい針を出しておいてください」

「かしこまりました……」

 私はまた立ち上がると、伊藤さんのそばまで歩いて行った。

「ほら、伊藤さま……もう、血は出ていないでしょう?」

 今にも泣きだしそうな伊藤さんの目の前に、私は左の人差し指を突き出した。

「ああ……おいたわしい……」

 伊藤さんは私の左手を掴んで、撫でさすり始めた。

「何を言っているのです。必要なことだから、やっただけです。……伊藤さま、手を放してくださらないと、私は手を洗いに行けないし、それに……皆様が、伊藤さまを睨んでいらっしゃいますけれど?」

 高官たちの視線に気が付いた伊藤さんは、慌てて私の手を離した。

 手をもう一度石鹸で洗って部屋に戻ると、三浦先生が、「増宮さま、準備ができました」と一礼した。

「ありがとうございます。……では、兄上、手を借りますね」

「うん、頼んだぞ」

 殿下が軽く頷いた。

「失礼します」

 私は、殿下の左手側に正座すると、殿下の手を取った。注射針を右手で持ち、左手で、殿下の左の人差し指を軽く固定する。

「では、刺します」

 声をかけて、すぐに私は、注射針を殿下の人差し指の腹に刺した。先ほど、自分に刺した時よりは、少し浅めに穿刺する。それでも、穿刺した個所から、血の滴があふれた。

「三浦先生、スライドガラスを」

「は、はい」

 三浦先生が、横からスライドガラスを差し出した。殿下の指を少しだけ傾けて、血液をガラスの端の方に乗せた。

(終わった……)

 三浦先生から手渡された消毒済みの脱脂綿で、殿下の指の穿刺した箇所を強く押さえると、私は、大きく息を吐いた。

 前世(へいせい)では、ごく簡単な医療手技とはいえ、今生でやったのは初めてだったから、とても緊張した。相手が皇太子殿下だというのも、緊張を更に煽った。

 でも、何とかやれた。

「ごめんなさい、兄上……」

 注射針を小皿に置くと、私は殿下に頭を下げた。

「章子、なぜ謝る?」

「その……痛かったか、と思って……」

「大丈夫だ。わたしはこれでも軍人だと、先ほども言っただろう」

 殿下は微笑した。「それに章子は、必要で、正しいことをやっただけではないか。なぜ謝る必要があるのだ?」

「兄上……」

「まあ、強いて言えば……、章子が指を押さえている力が強すぎて、それが少し痛い」

「で、でも……しっかり圧迫しないと、止血できないですから!」

「あははは……それも、お父様(おもうさま)の本で読んだのか。それならばしょうがない、少し我慢するか」

 私と殿下が話している間に、三浦先生は、いつの間にか設置されていた顕微鏡に向かっていた。殿下の血液を観察しているのだろう。ベルツ先生も、三浦先生と交代で顕微鏡を覗き込み、ドイツ語で何か話し合っている。

 やがて、

「皆様方、結論が出ました」

三浦先生が、一同に告げた。

「やはり間歇熱……マラリアでございました」

「え……そうなのですか?」

(あれ?血球の染色をしてないけど、それでマラリア原虫って、観察できたっけ?)

 私は首をかしげた。確か、マラリアに感染した血球の観察には、血球の染色が必須だったはずだけれど……。

「あのー……三浦先生、私も標本、見てもいいですか?」

「は、はい、それは問題ありませんが……」

「ありがとうございます」

 私は、殿下の傷が止血されているのを確認すると、顕微鏡の側に行った。ベルツ先生が、ドイツ語で何かつぶやきながら、じっと私を見ているのが気になったけれど、構わず、顕微鏡のレンズを覗き込んで、ピントを合わせた。やはり、前世(へいせい)で行うような、血球染色はされていない。赤血球らしき円盤状の物が、視界に大量に見えた。その中に、ところどころ、周りの赤血球より大きい血球がある。

「ええと……赤血球が見えて……この大きい血球は、白血球とも、少し違うような気もするのですが……」

「おお、赤血球のことを、よくご存じですね、増宮さま。はい、この標本の多数は赤血球です。ただし、その中に、少し大きくなった赤血球がございます。それが、マラリアで見られる、膨大した赤血球です」

 三浦先生が私の側に来て、説明してくれる。

「膨大した、赤血球……」

 私は、前世の知識を必死に思い出した。マラリア原虫に感染した赤血球には、“環状体”というものが見られる。赤血球が膨らむという所見は……、

「ええと……熱帯熱マラリアじゃなくて……ああ、三日熱マラリアの所見ね、確か……」

 呟きながら、顕微鏡のレンズから目を離した。

「三浦先生、わたしも顕微鏡をのぞいてよいか?」

 布団の上に座っていたはずの殿下が、いつの間にか私の隣にいた。

「はい、どうぞ、殿下……焦点が合わずに、見えづらいようでしたら、こちらのねじを、ゆっくり回してください。余り回しすぎると、顕微鏡が壊れますゆえ、慎重にお願いします」

 三浦先生の説明を受けて、殿下が顕微鏡を覗き込んだ。すぐにレンズのピントが合ったらしく、「ほう、これが赤血球というものか。そして、先生たちが言う、大きな赤血球は……はあ、これだな」と、しきりに頷いていた。

(確かに、三日熱マラリアなら……殿下の今回の熱の出方と、合致するか)

 マラリアは、数十時間ごとに発熱を起こすのが特徴だ。三日熱マラリアなら、48時間ごと。四日熱マラリアなら、72時間ごとである。熱帯熱マラリアは、その間隔が一定せず、一番重症化しやすい。

「ということは、治療は……ええと……」

「キニーネの内服になりますね。マラリアの特効薬です」

 三浦先生が断言する。

(あ、キニーネって……この時代でもあるんだ)

 私はほっとした。キニーネは、前世(へいせい)でも、重症のマラリアの治療に使う場合があるはずだ。

「つまり、治るということですかな?」

 伊藤さんの質問に、三浦先生は、「もちろんです」と力強く頷いた。

「はあ……」

「よ、よかった……」

 伊藤さんと山縣さんと黒田さんが、安堵の表情を浮かべた。

 一人、硬い表情のままの大山さんが、私の側にすっと寄り、

「増宮さま、お部屋に御戻りを」

と囁いた。

「どうして?まだ、三浦先生とベルツ先生に、お礼を言っていないわ」

「謝礼は、我々から伝えます。……これは、増宮さまのためでもあります。御戻りを」

「私のため?」

 首を傾げた私は、高官たちの後ろに、見知らぬ男性が立っているのに気が付いた。伊藤さんと同じようにフロックコートを着ている。年の頃は、三浦先生と同じぐらいだろうか? 前世(へいせい)でも十分に“イケメン”で通用する、端正な顔立ちの青年だ。

「あの……どちら様でしょうか?」

 私は、少し、ドキドキしながら尋ねた。高官たちは、私の言動で、自分たちの後ろに人がいることに初めて気づいたらしく、一斉に廊下を振りむいた。

「た、威仁(たけひと)親王殿下……そう言えば、伊香保に避暑中と伺いましたが……」

有栖川(ありすがわ)の若宮殿下ではないか」

 伊藤さんが呟いたのと、顕微鏡から目を離した殿下が微笑したのは、同時だった。

(お、王子様、来た……)

 呆気に取られたような表情の“イケメン”に、私は見惚れてしまった。

血球染色の方法として一般的なギムザ染色。

諸資料によって開発時期に差はあるのですが、このお話では「日本には伝えられていない」という説を取りました。

そして、明治時代を代表するイケメンの一人、キタ━━━━(゜∀゜)━━━━!!

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