マラリア
手を石鹸で洗って、殿下の部屋に戻ると、指頭血採血の準備が、すっかり整えられていた。三浦先生がセッティングをしてくれたらしい。
「章子、わたしも手を洗ったぞ。さて、早くやっておくれ」
布団の上で身を起こしている皇太子殿下が、微笑している。
「ちょっと待ってください。まず、自分で練習します。あ、そうだ!三浦先生、消毒薬ってありますか?」
できることなら、手指の消毒はしておきたいと思ったのだけれど、
「え、消毒薬、ですか……はい、石炭酸なら、少しありますが……」
三浦先生の答えは、私の期待から大きく外れたものだった。
「だったら、いいです……。石鹸で手を洗ったし、フェノールって、手が荒れるから……」
私はため息をついた。この時代、手洗いに使う消毒液は、石炭酸、すなわち、フェノールだ。手に付着したら、皮膚炎になってしまう。手術の時には、滅菌手袋を使うのが、急速に普及していると聞いたけれど……。
(消毒用のアルコール、作るようにお願いしておけばよかったかな……)
前世で使われている“消毒用アルコール”というのは、エタノールに水などを加えたものだ。実は、100%純粋なエタノールは、その殺菌効果を十分に発揮しないのだ……と、前世で、授業の雑談で聞いた。
(でも、混合比率までは覚えてなかったのよね……まさか、花御殿で、自分で実験するわけにもいかなかったし……)
「じゃあ、注射針をください」
気を取り直し、私は三浦先生から注射針を受け取った。とにかく、前世で研修医として働いていた時の感覚を、少しでも戻さなければいけない。
「ええと、まず、針をこのように構えて……あ」
三浦先生が説明しようとする前に、私は右手の注射針を、ためらいなく、左手の人差し指の腹に刺してしまった。痛点にぶつかったらしく、結構な痛みが走った。針を外すと、血液の滴が自然に湧き上がってくる。
「ごめんなさい……こんな感じで、いいのかしら?」
まだ少し痛みが残るけれど、三浦先生に笑顔を向けた。
「ああ、は、はい、それで結構ですが……もう少し、浅く刺してようございます」
三浦先生は、完全に動揺していた。
「わかりました。……あの、この針、このままでは危ないので、そうですね……小さなお皿を持ってきてもらえますか?そこに針を捨てます」
一度使った針は廃棄するのが、前世の医療では常識だ。
三浦先生が、慌てて立ち上がった。ベルツ先生についてきた女性も立ち上がって、三浦先生について、廊下に出ていく。ベルツ先生は、じっと私を見ていた。
私は、右手で注射針を持ったまま、左手の親指で、左手の人差し指の腹を思いっきり押さえた。思ったより傷が深かったようで、血がにじむ速度が、少し速い。けれど、1,2mmの幅しかない傷なので、圧迫を続ければそのうち止まるだろう。
「増宮さま、血が……!」
私の様子を見ていた伊藤さんの顔が、青ざめた。
「伊藤さま、血が出るように刺したのですから、血が出るのは当たり前です……」
私は呆れながら答えた。
「しかし……」
伊藤さんは、血の気の失せた顔で、明らかに戸惑っていた。
「大丈夫です。数分圧迫していれば、止血されます」
「俊輔、少し落ち着け」
山縣さんが、伊藤さんの肩を後ろから叩く。少し、眉根を寄せている気もするけれど、伊藤さんほどの動揺はないようだ。
「しかしだなあ、狂介……」
伊藤さんが山縣さんの方に振り向いて、抗議しようとしたところに、三浦先生と、ベルツ先生の連れの女性が、小皿を持って戻ってきた。
「あ、ありがとうございます。では、お皿をこちらに置いていただけますか?」
私は自分の膝のそばを指し示した。三浦先生が慎重に、小皿を畳の上に置く。お皿の中に、使った注射針を置くときに、うっかり、左の人差し指の圧迫が取れてしまったけれど、数十秒観察しても、もう新しく血がにじむことはなかった。
「私、もう一度手を洗ってきます。三浦先生、新しい針を出しておいてください」
「かしこまりました……」
私はまた立ち上がると、伊藤さんのそばまで歩いて行った。
「ほら、伊藤さま……もう、血は出ていないでしょう?」
今にも泣きだしそうな伊藤さんの目の前に、私は左の人差し指を突き出した。
「ああ……おいたわしい……」
伊藤さんは私の左手を掴んで、撫でさすり始めた。
「何を言っているのです。必要なことだから、やっただけです。……伊藤さま、手を放してくださらないと、私は手を洗いに行けないし、それに……皆様が、伊藤さまを睨んでいらっしゃいますけれど?」
高官たちの視線に気が付いた伊藤さんは、慌てて私の手を離した。
手をもう一度石鹸で洗って部屋に戻ると、三浦先生が、「増宮さま、準備ができました」と一礼した。
「ありがとうございます。……では、兄上、手を借りますね」
「うん、頼んだぞ」
殿下が軽く頷いた。
「失礼します」
私は、殿下の左手側に正座すると、殿下の手を取った。注射針を右手で持ち、左手で、殿下の左の人差し指を軽く固定する。
「では、刺します」
声をかけて、すぐに私は、注射針を殿下の人差し指の腹に刺した。先ほど、自分に刺した時よりは、少し浅めに穿刺する。それでも、穿刺した個所から、血の滴があふれた。
「三浦先生、スライドガラスを」
「は、はい」
三浦先生が、横からスライドガラスを差し出した。殿下の指を少しだけ傾けて、血液をガラスの端の方に乗せた。
(終わった……)
三浦先生から手渡された消毒済みの脱脂綿で、殿下の指の穿刺した箇所を強く押さえると、私は、大きく息を吐いた。
前世では、ごく簡単な医療手技とはいえ、今生でやったのは初めてだったから、とても緊張した。相手が皇太子殿下だというのも、緊張を更に煽った。
でも、何とかやれた。
「ごめんなさい、兄上……」
注射針を小皿に置くと、私は殿下に頭を下げた。
「章子、なぜ謝る?」
「その……痛かったか、と思って……」
「大丈夫だ。わたしはこれでも軍人だと、先ほども言っただろう」
殿下は微笑した。「それに章子は、必要で、正しいことをやっただけではないか。なぜ謝る必要があるのだ?」
「兄上……」
「まあ、強いて言えば……、章子が指を押さえている力が強すぎて、それが少し痛い」
「で、でも……しっかり圧迫しないと、止血できないですから!」
「あははは……それも、お父様の本で読んだのか。それならばしょうがない、少し我慢するか」
私と殿下が話している間に、三浦先生は、いつの間にか設置されていた顕微鏡に向かっていた。殿下の血液を観察しているのだろう。ベルツ先生も、三浦先生と交代で顕微鏡を覗き込み、ドイツ語で何か話し合っている。
やがて、
「皆様方、結論が出ました」
三浦先生が、一同に告げた。
「やはり間歇熱……マラリアでございました」
「え……そうなのですか?」
(あれ?血球の染色をしてないけど、それでマラリア原虫って、観察できたっけ?)
私は首をかしげた。確か、マラリアに感染した血球の観察には、血球の染色が必須だったはずだけれど……。
「あのー……三浦先生、私も標本、見てもいいですか?」
「は、はい、それは問題ありませんが……」
「ありがとうございます」
私は、殿下の傷が止血されているのを確認すると、顕微鏡の側に行った。ベルツ先生が、ドイツ語で何かつぶやきながら、じっと私を見ているのが気になったけれど、構わず、顕微鏡のレンズを覗き込んで、ピントを合わせた。やはり、前世で行うような、血球染色はされていない。赤血球らしき円盤状の物が、視界に大量に見えた。その中に、ところどころ、周りの赤血球より大きい血球がある。
「ええと……赤血球が見えて……この大きい血球は、白血球とも、少し違うような気もするのですが……」
「おお、赤血球のことを、よくご存じですね、増宮さま。はい、この標本の多数は赤血球です。ただし、その中に、少し大きくなった赤血球がございます。それが、マラリアで見られる、膨大した赤血球です」
三浦先生が私の側に来て、説明してくれる。
「膨大した、赤血球……」
私は、前世の知識を必死に思い出した。マラリア原虫に感染した赤血球には、“環状体”というものが見られる。赤血球が膨らむという所見は……、
「ええと……熱帯熱マラリアじゃなくて……ああ、三日熱マラリアの所見ね、確か……」
呟きながら、顕微鏡のレンズから目を離した。
「三浦先生、わたしも顕微鏡をのぞいてよいか?」
布団の上に座っていたはずの殿下が、いつの間にか私の隣にいた。
「はい、どうぞ、殿下……焦点が合わずに、見えづらいようでしたら、こちらのねじを、ゆっくり回してください。余り回しすぎると、顕微鏡が壊れますゆえ、慎重にお願いします」
三浦先生の説明を受けて、殿下が顕微鏡を覗き込んだ。すぐにレンズのピントが合ったらしく、「ほう、これが赤血球というものか。そして、先生たちが言う、大きな赤血球は……はあ、これだな」と、しきりに頷いていた。
(確かに、三日熱マラリアなら……殿下の今回の熱の出方と、合致するか)
マラリアは、数十時間ごとに発熱を起こすのが特徴だ。三日熱マラリアなら、48時間ごと。四日熱マラリアなら、72時間ごとである。熱帯熱マラリアは、その間隔が一定せず、一番重症化しやすい。
「ということは、治療は……ええと……」
「キニーネの内服になりますね。マラリアの特効薬です」
三浦先生が断言する。
(あ、キニーネって……この時代でもあるんだ)
私はほっとした。キニーネは、前世でも、重症のマラリアの治療に使う場合があるはずだ。
「つまり、治るということですかな?」
伊藤さんの質問に、三浦先生は、「もちろんです」と力強く頷いた。
「はあ……」
「よ、よかった……」
伊藤さんと山縣さんと黒田さんが、安堵の表情を浮かべた。
一人、硬い表情のままの大山さんが、私の側にすっと寄り、
「増宮さま、お部屋に御戻りを」
と囁いた。
「どうして?まだ、三浦先生とベルツ先生に、お礼を言っていないわ」
「謝礼は、我々から伝えます。……これは、増宮さまのためでもあります。御戻りを」
「私のため?」
首を傾げた私は、高官たちの後ろに、見知らぬ男性が立っているのに気が付いた。伊藤さんと同じようにフロックコートを着ている。年の頃は、三浦先生と同じぐらいだろうか? 前世でも十分に“イケメン”で通用する、端正な顔立ちの青年だ。
「あの……どちら様でしょうか?」
私は、少し、ドキドキしながら尋ねた。高官たちは、私の言動で、自分たちの後ろに人がいることに初めて気づいたらしく、一斉に廊下を振りむいた。
「た、威仁親王殿下……そう言えば、伊香保に避暑中と伺いましたが……」
「有栖川の若宮殿下ではないか」
伊藤さんが呟いたのと、顕微鏡から目を離した殿下が微笑したのは、同時だった。
(お、王子様、来た……)
呆気に取られたような表情の“イケメン”に、私は見惚れてしまった。
血球染色の方法として一般的なギムザ染色。
諸資料によって開発時期に差はあるのですが、このお話では「日本には伝えられていない」という説を取りました。
そして、明治時代を代表するイケメンの一人、キタ━━━━(゜∀゜)━━━━!!




