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転生内親王は上医を目指す  作者: 佐藤庵
第4章 1890(明治23)年小暑~1890(明治23)年処暑
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病気としきたり

 ベルツ先生は、すぐに御用邸にやってきてくれた。彫りの深い顔立ちで、立派なあごひげを生やした、年配の白人男性だ。なぜか、和装の日本人女性と一緒だった。

(温泉街の芸者かな?)

と思ったけれど、芸者にしては、着物が地味な気もする。髪型も、上流階級の夫人がするような束髪(そくはつ)だった。

 三浦先生は、ベルツ先生の側に行くと、しきりに頭を下げていた。二人で喋っているのは、ドイツ語だろうか?

 会話が途切れたところで、「ベルツ先生とは、知り合いなの?」と三浦先生に聞くと、「学生時代の恩師でして……」と答えられてしまった。

「それは……ごめんなさい、三浦先生、気まずかったでしょうか……」

 私は頭を下げた。

「いいえ、増宮さま……むしろ、誰かに相談したかったところなのです。大変、助かりました」

 三浦先生はこう言って、逆に、私に頭を下げた。

「そうですか」

(そうだよね、相談って、大事なんだよね……)

 私は前世でのことを思い出していた。

 患者さんへの対応の仕方で、自分で調べて分からないことがあれば、上級医(オーベン)に相談して、方法を検討した。しかし、その上級医も、分からないことがあれば、自分の更に上級の医者や、同僚の医者に相談をして、対応を検討していたのだ。少なくとも、私が研修医として働いていた病院は、それが当たり前だった。……他の病院がどうしているのかは知らないけれど。

「増宮さま、一つお願いがあるのですが、温度表を、ベルツ先生にも見せていただけますか?私も書きましたが、増宮さまのものの方が、色鉛筆も使って、綺麗に書けておりますので……」

「先生、温度表って……ああ、あの、経過記録のグラフですね。はい、これです」

 私は、兄の経過記録のグラフを、三浦先生に渡した。三浦先生は、更にそれを、ベルツ先生に見せた。

 三浦先生からドイツ語で説明を受けたベルツ先生が、私を見て、目を丸くした。何かつぶやいているのだけど、言葉がさっぱり分からない。前世の大学時代に、第2外国語として、ちょっとだけドイツ語を習ったけれど、簡単な単語以外は忘れてしまった。

「では、皇太子殿下の所に参りましょうか」

 三浦先生が先導して、ベルツ先生と和装の女性が、殿下の居間に向かう。私も後ろについていった。私の後ろから、伊藤さん、山縣さん、黒田さん、大山さんも、ぞろぞろと歩いてくる。

「殿下、失礼いたします」

 三浦さんが、殿下の部屋の襖を開けた。

「ああ、三浦先生」

 思ったより明るい殿下の声が聞こえた。

「いかがした、皆で……見慣れぬ者もおるようだが」

 白い羽二重の寝間着を着た殿下は、布団の上に身を起こしていた。意外と、元気そうだ。

「あ、兄上?お熱は?」

 拍子抜けした私は、殿下の側に寄った。

「章子か。先ほどは、とても熱かったのだが、汗をかいたら、何かすっきりとした感じがして……熱が下がったような気がする」

「そうですか?……とにかく、お熱を測ってください」

 私は、殿下に体温計を差し出した。前世(へいせい)では「昔ながらの」という形容詞が付く、水銀の体温計だ。殿下はそれを素直に左わきに挟んだ。

「あの、兄上、伊香保に、帝国大学のベルツ先生がいらしていたので、兄上の往診を頼みました。三浦先生の、お師匠に当たる方だそうです」

「三浦先生のお師匠……そうだ、確か三浦先生は、帝国大学の出だと聞いたな」

 さすが、記憶力の非常に良い殿下である。

「うむ、章子がせっかく呼んでくれたのだ、よろしく頼もう」

「わかりました」

 三浦先生が、寝間の入口に正座しているベルツ先生に、ドイツ語で二言三言囁く。そして、二人で殿下のそばまでやってきた。

 ベルツ先生は、スーツの胸ポケットから、懐中時計を取り出すと、ドイツ語で兄に話しかけた。

「脈拍を、取らせていただきます、と」

 三浦先生が通訳してくれる。「そうか」と、殿下は頷いて、ベルツ先生に右腕を差し出した。ベルツ先生は、殿下の手首を左手で支え、右手の三本の指を殿下の手首に乗せた。ベルツ先生は、器用に左手で懐中時計を持ち、時計の文字盤とにらめっこしている。1分経ったところで、三浦先生の方を見て、何やらつぶやいた。

「脈拍数は112回、と……」

 三浦先生が、ノートに記録を取る。殿下の手首から手を離したベルツ先生は、懐中時計を見ながら、更に兄をじっと観察している。呼吸数を測定しているのだろう。少し間をおいて、「呼吸数が18回、ですね……そして、体温が36.8度」と、ベルツ先生のつぶやきを、三浦先生が拾った。

「お体を診察させていただきたい、とのことです」

「構わない。任せる」

 三浦先生の翻訳に、殿下が頷いた。それを見て、ベルツ先生は、殿下の身体所見を取り始めた。

 私は、ベルツ先生が診察をしている様子を、じっと見ていた。

 頭の先からつま先まで、ベルツ先生は、本当に丁寧に、身体所見を取っていく。

 前世へいせいの診察実習で、診察の手技は一通り習ったのだけれど、ベルツ先生の診察は、その時の講師の先生より、明らかに細かかった。胸部の打診とか、声音振盪(せいおんしんとう)とか、正直、自分では、あんなに丁寧にやったことがない。

 やがて、診察を一通り終えたベルツ先生は、三浦先生に話しかけた。三浦先生が熱心にノートを取っているところを見ると、診察所見を述べているのだろう。そして、三浦先生もベルツ先生にドイツ語で話しかけ、二人で話し合っていた。

「結論が出ました」

 三浦先生が、一同に日本語で告げたのは、ベルツ先生と話し合いを始めてから、5分ぐらいたったころだった。

「皇太子殿下の御病気ですが……間歇熱(かんけつねつ)の可能性が高いと、の結論に至りました」

「……間歇熱?」

(間歇熱、って、熱の出方の呼び方じゃないのかな?)

 私は首をかしげた。

「昔の病気の名前ですと、“(おこり)”と申します。ドイツ語ですと、“マラリア”ですね」

「マラリア?!」

 私は思わず叫んでしまった。

「そんな……マラリアって、日本で発生する病気なのですか!?」

「ええ、増宮さま、滋賀県や福井県では、よく発生する病気です。静岡県でも、発生する地域があるとか」

(マジですか……)

 私は頭を抱えた。

 前世(へいせい)では、マラリアは、東南アジアやアフリカで蚊に刺されて感染して、日本に帰国してから発症する、というケースしかないのだ。日本国内で、蚊に刺されてマラリアに感染したという話は、聞いたことはない。

 けれど、この三浦先生の話しぶりからすると、明治時代は、日本国内であっても、蚊に刺されれば、マラリアに感染する可能性がある、ということになる。

(確か、マラリアの潜伏期って2週間ぐらいだったから、……鉄道で、静岡の蚊が東京に運ばれて、殿下を刺したってことなのかな?でも、そうなると……)

「おちおち、蚊に刺されていられないのね……」

 私はため息をついた。

「ということは、マラリア原虫が血液中に存在することを、証明すればよい、ということですね」

 国家試験の時に勉強した知識を思い出しながら、私は言った。

「マラリア……原虫……?」

 三浦先生が、不思議そうな表情をした。

(え?!まさか、まだ、マラリア原虫って、発見されてない?!)

「ご、ごめんなさい、とにかく、血液の塗抹(とまつ)標本を観察すればいいんですよね?!」

「あ、は、はい、その通りです。増宮さま、よくご存じで。一体どこで、そのようなことを聞かれたのですか?」

「え、ええと……そう、陛下!陛下の所にあった、本で読んだのです!」

 三浦先生の疑問を、私は慌てて誤魔化した。

「しかし、この診断法には、問題がありまして……」

 三浦先生は、高官たちを見て、ため息をついた。

「と、いうと?」

 伊藤さんが、高官たちを代表する形で尋ねる。

「皇太子殿下のお体に、傷をつけなければならないということです……」

 私は、三浦先生の言っていることの意味が、よくわからなかった。

 けれど、その場にいる高官たちは、「ああ……」と一様につぶやいて、三浦先生と同じようなため息をついた。

 私は伊藤さんの傍まで歩いていき、「伊藤さん、ごめんなさい、……何が問題なのか、私にはわからないのだけれど」と、正座している彼の耳元で、そっと囁いた。

「増宮さま?」

「そのー……私の前世の感覚では、皇太子殿下の身体に、検査のために傷をつけることが、どうして問題になるのか、全くわからないのです……」

「ああ、なるほど……」

 伊藤さんは得心がいった、という風に頷いた。

「一天万乗の君になられる方のお体に、臣下が傷をつけることは、あってはならない……そういう考え方ですな。過去には、灸をすえたことがあるから、皇位は継がせないとか、針灸の治療を時の天皇陛下が受けられようとしたら、“玉体にやけどの跡をつけるなど、とんでもない”と臣下に反対され、天皇陛下が退位した例もあります」

「……非合理的ですね」

「まあ、単に表向きの理由に使われただけで、実際には別の理由があったと思いますが、……ただ、実際にそう信じている人間が、一定数いるのも事実です」

「面倒ですね……」

 私はため息をついた。「前世では、天皇陛下も、普通の人と同じように、全身麻酔の手術を受けられていました」

「そうなのですか」

 伊藤さんのみならず、山縣さんや黒田さんも、小さく驚きの声を上げた。

「しかし、一足飛びに、この明治(じだい)でそれを行うのは、なかなか障害が大きいかと……」

 山縣さんが小声で進言する。

「三浦先生」

 布団の上で身を起こしている殿下が、三浦先生の方に身体を向けた。

「章子が言った、血液の……塗抹標本、とやらの検査は、どんな方法で行うのだ?」

「は、はい……方法としては、手の指先を水で洗浄したのちに、針で刺し、血を2,3滴出させます。その血液を、スライドガラスに取り、顕微鏡で観察するのですが……」

「なんだ、たったそれしきのことか」

「なんだ、もっと難しい手技を、しなきゃいけないのかと思った」

 殿下と私が言ったのは、同時だった。

「え……?」

「は?」

 並み居る大人たちが驚いたのは、殿下の言葉なのか、私の言葉なのか、わからなかった。

「三浦先生、その程度の痛みならば、わたしは耐えられるぞ。わたしはこれでも、軍人だ。軍人が多少の痛みに耐えられないようで、どうするのだ」

「殿下……!」

 大山さんが感激の面持ちで平伏する。

「じゃあ、穿刺は私がします」

 私は右手を挙げた。

「ま、増宮さま?!」

 三浦先生が目を丸くした。

「先生、問題なのは、たとえ検査や治療のためであっても、臣下が皇族の身体に、傷をつけてはいけない、ということでしょう?」

「はい、確かにそうですが……」

「なら、皇族が皇族に、検査のために傷をつけるのは、問題ないのでは?だって、私がなんと言おうと……私は、陛下の血を受け継いだ皇族なのでしょう、山縣さま?」

 高官たちも、三浦先生も、一斉に息を飲んだ。

「これは……やられましたな」

 先ほどのやり取りを思い出したのか、山縣さんが苦笑した。

「大丈夫です。指頭血(しとうけつ)採血程度なら、余裕よ」

 私は高官たちだけに聞こえるように、小声で言った。

 前世(へいせい)だと、血糖値のチェックの際、指頭血採血を行う。前世(へいせい)のような、専用の穿刺器具はないだろうけれど、要領としては同じだろう。

「兄上に実際にやる前に、私、自分の指で練習します。三浦先生、具体的に方法を教えてください。それで、兄上にやるときは、私の介助についていただければ助かります」

 私は三浦先生に頭を下げた。

「うん、章子がするか。それで皆が問題ないのなら、わたしは構わない。章子、頼む」

 殿下もこう言った。

 三浦先生は、困り果てた表情で、ベルツ先生にドイツ語で話しかけた。ベルツ先生が一言、二言つぶやいて、三浦先生に頷いた。

「ええと……では、非常に、異例なことなのではありますが……増宮さま、穿刺を、お願いできますか?」

「わかりました。では、私、手を洗ってきますね……兄上も、手を洗ってください。できれば、石鹸を使って」

 私は立ち上がった。

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