病気としきたり
ベルツ先生は、すぐに御用邸にやってきてくれた。彫りの深い顔立ちで、立派なあごひげを生やした、年配の白人男性だ。なぜか、和装の日本人女性と一緒だった。
(温泉街の芸者かな?)
と思ったけれど、芸者にしては、着物が地味な気もする。髪型も、上流階級の夫人がするような束髪だった。
三浦先生は、ベルツ先生の側に行くと、しきりに頭を下げていた。二人で喋っているのは、ドイツ語だろうか?
会話が途切れたところで、「ベルツ先生とは、知り合いなの?」と三浦先生に聞くと、「学生時代の恩師でして……」と答えられてしまった。
「それは……ごめんなさい、三浦先生、気まずかったでしょうか……」
私は頭を下げた。
「いいえ、増宮さま……むしろ、誰かに相談したかったところなのです。大変、助かりました」
三浦先生はこう言って、逆に、私に頭を下げた。
「そうですか」
(そうだよね、相談って、大事なんだよね……)
私は前世でのことを思い出していた。
患者さんへの対応の仕方で、自分で調べて分からないことがあれば、上級医に相談して、方法を検討した。しかし、その上級医も、分からないことがあれば、自分の更に上級の医者や、同僚の医者に相談をして、対応を検討していたのだ。少なくとも、私が研修医として働いていた病院は、それが当たり前だった。……他の病院がどうしているのかは知らないけれど。
「増宮さま、一つお願いがあるのですが、温度表を、ベルツ先生にも見せていただけますか?私も書きましたが、増宮さまのものの方が、色鉛筆も使って、綺麗に書けておりますので……」
「先生、温度表って……ああ、あの、経過記録のグラフですね。はい、これです」
私は、兄の経過記録のグラフを、三浦先生に渡した。三浦先生は、更にそれを、ベルツ先生に見せた。
三浦先生からドイツ語で説明を受けたベルツ先生が、私を見て、目を丸くした。何かつぶやいているのだけど、言葉がさっぱり分からない。前世の大学時代に、第2外国語として、ちょっとだけドイツ語を習ったけれど、簡単な単語以外は忘れてしまった。
「では、皇太子殿下の所に参りましょうか」
三浦先生が先導して、ベルツ先生と和装の女性が、殿下の居間に向かう。私も後ろについていった。私の後ろから、伊藤さん、山縣さん、黒田さん、大山さんも、ぞろぞろと歩いてくる。
「殿下、失礼いたします」
三浦さんが、殿下の部屋の襖を開けた。
「ああ、三浦先生」
思ったより明るい殿下の声が聞こえた。
「いかがした、皆で……見慣れぬ者もおるようだが」
白い羽二重の寝間着を着た殿下は、布団の上に身を起こしていた。意外と、元気そうだ。
「あ、兄上?お熱は?」
拍子抜けした私は、殿下の側に寄った。
「章子か。先ほどは、とても熱かったのだが、汗をかいたら、何かすっきりとした感じがして……熱が下がったような気がする」
「そうですか?……とにかく、お熱を測ってください」
私は、殿下に体温計を差し出した。前世では「昔ながらの」という形容詞が付く、水銀の体温計だ。殿下はそれを素直に左わきに挟んだ。
「あの、兄上、伊香保に、帝国大学のベルツ先生がいらしていたので、兄上の往診を頼みました。三浦先生の、お師匠に当たる方だそうです」
「三浦先生のお師匠……そうだ、確か三浦先生は、帝国大学の出だと聞いたな」
さすが、記憶力の非常に良い殿下である。
「うむ、章子がせっかく呼んでくれたのだ、よろしく頼もう」
「わかりました」
三浦先生が、寝間の入口に正座しているベルツ先生に、ドイツ語で二言三言囁く。そして、二人で殿下のそばまでやってきた。
ベルツ先生は、スーツの胸ポケットから、懐中時計を取り出すと、ドイツ語で兄に話しかけた。
「脈拍を、取らせていただきます、と」
三浦先生が通訳してくれる。「そうか」と、殿下は頷いて、ベルツ先生に右腕を差し出した。ベルツ先生は、殿下の手首を左手で支え、右手の三本の指を殿下の手首に乗せた。ベルツ先生は、器用に左手で懐中時計を持ち、時計の文字盤とにらめっこしている。1分経ったところで、三浦先生の方を見て、何やらつぶやいた。
「脈拍数は112回、と……」
三浦先生が、ノートに記録を取る。殿下の手首から手を離したベルツ先生は、懐中時計を見ながら、更に兄をじっと観察している。呼吸数を測定しているのだろう。少し間をおいて、「呼吸数が18回、ですね……そして、体温が36.8度」と、ベルツ先生のつぶやきを、三浦先生が拾った。
「お体を診察させていただきたい、とのことです」
「構わない。任せる」
三浦先生の翻訳に、殿下が頷いた。それを見て、ベルツ先生は、殿下の身体所見を取り始めた。
私は、ベルツ先生が診察をしている様子を、じっと見ていた。
頭の先からつま先まで、ベルツ先生は、本当に丁寧に、身体所見を取っていく。
前世の診察実習で、診察の手技は一通り習ったのだけれど、ベルツ先生の診察は、その時の講師の先生より、明らかに細かかった。胸部の打診とか、声音振盪とか、正直、自分では、あんなに丁寧にやったことがない。
やがて、診察を一通り終えたベルツ先生は、三浦先生に話しかけた。三浦先生が熱心にノートを取っているところを見ると、診察所見を述べているのだろう。そして、三浦先生もベルツ先生にドイツ語で話しかけ、二人で話し合っていた。
「結論が出ました」
三浦先生が、一同に日本語で告げたのは、ベルツ先生と話し合いを始めてから、5分ぐらいたったころだった。
「皇太子殿下の御病気ですが……間歇熱の可能性が高いと、の結論に至りました」
「……間歇熱?」
(間歇熱、って、熱の出方の呼び方じゃないのかな?)
私は首をかしげた。
「昔の病気の名前ですと、“瘧”と申します。ドイツ語ですと、“マラリア”ですね」
「マラリア?!」
私は思わず叫んでしまった。
「そんな……マラリアって、日本で発生する病気なのですか!?」
「ええ、増宮さま、滋賀県や福井県では、よく発生する病気です。静岡県でも、発生する地域があるとか」
(マジですか……)
私は頭を抱えた。
前世では、マラリアは、東南アジアやアフリカで蚊に刺されて感染して、日本に帰国してから発症する、というケースしかないのだ。日本国内で、蚊に刺されてマラリアに感染したという話は、聞いたことはない。
けれど、この三浦先生の話しぶりからすると、明治時代は、日本国内であっても、蚊に刺されれば、マラリアに感染する可能性がある、ということになる。
(確か、マラリアの潜伏期って2週間ぐらいだったから、……鉄道で、静岡の蚊が東京に運ばれて、殿下を刺したってことなのかな?でも、そうなると……)
「おちおち、蚊に刺されていられないのね……」
私はため息をついた。
「ということは、マラリア原虫が血液中に存在することを、証明すればよい、ということですね」
国家試験の時に勉強した知識を思い出しながら、私は言った。
「マラリア……原虫……?」
三浦先生が、不思議そうな表情をした。
(え?!まさか、まだ、マラリア原虫って、発見されてない?!)
「ご、ごめんなさい、とにかく、血液の塗抹標本を観察すればいいんですよね?!」
「あ、は、はい、その通りです。増宮さま、よくご存じで。一体どこで、そのようなことを聞かれたのですか?」
「え、ええと……そう、陛下!陛下の所にあった、本で読んだのです!」
三浦先生の疑問を、私は慌てて誤魔化した。
「しかし、この診断法には、問題がありまして……」
三浦先生は、高官たちを見て、ため息をついた。
「と、いうと?」
伊藤さんが、高官たちを代表する形で尋ねる。
「皇太子殿下のお体に、傷をつけなければならないということです……」
私は、三浦先生の言っていることの意味が、よくわからなかった。
けれど、その場にいる高官たちは、「ああ……」と一様につぶやいて、三浦先生と同じようなため息をついた。
私は伊藤さんの傍まで歩いていき、「伊藤さん、ごめんなさい、……何が問題なのか、私にはわからないのだけれど」と、正座している彼の耳元で、そっと囁いた。
「増宮さま?」
「そのー……私の前世の感覚では、皇太子殿下の身体に、検査のために傷をつけることが、どうして問題になるのか、全くわからないのです……」
「ああ、なるほど……」
伊藤さんは得心がいった、という風に頷いた。
「一天万乗の君になられる方のお体に、臣下が傷をつけることは、あってはならない……そういう考え方ですな。過去には、灸をすえたことがあるから、皇位は継がせないとか、針灸の治療を時の天皇陛下が受けられようとしたら、“玉体にやけどの跡をつけるなど、とんでもない”と臣下に反対され、天皇陛下が退位した例もあります」
「……非合理的ですね」
「まあ、単に表向きの理由に使われただけで、実際には別の理由があったと思いますが、……ただ、実際にそう信じている人間が、一定数いるのも事実です」
「面倒ですね……」
私はため息をついた。「前世では、天皇陛下も、普通の人と同じように、全身麻酔の手術を受けられていました」
「そうなのですか」
伊藤さんのみならず、山縣さんや黒田さんも、小さく驚きの声を上げた。
「しかし、一足飛びに、この明治でそれを行うのは、なかなか障害が大きいかと……」
山縣さんが小声で進言する。
「三浦先生」
布団の上で身を起こしている殿下が、三浦先生の方に身体を向けた。
「章子が言った、血液の……塗抹標本、とやらの検査は、どんな方法で行うのだ?」
「は、はい……方法としては、手の指先を水で洗浄したのちに、針で刺し、血を2,3滴出させます。その血液を、スライドガラスに取り、顕微鏡で観察するのですが……」
「なんだ、たったそれしきのことか」
「なんだ、もっと難しい手技を、しなきゃいけないのかと思った」
殿下と私が言ったのは、同時だった。
「え……?」
「は?」
並み居る大人たちが驚いたのは、殿下の言葉なのか、私の言葉なのか、わからなかった。
「三浦先生、その程度の痛みならば、わたしは耐えられるぞ。わたしはこれでも、軍人だ。軍人が多少の痛みに耐えられないようで、どうするのだ」
「殿下……!」
大山さんが感激の面持ちで平伏する。
「じゃあ、穿刺は私がします」
私は右手を挙げた。
「ま、増宮さま?!」
三浦先生が目を丸くした。
「先生、問題なのは、たとえ検査や治療のためであっても、臣下が皇族の身体に、傷をつけてはいけない、ということでしょう?」
「はい、確かにそうですが……」
「なら、皇族が皇族に、検査のために傷をつけるのは、問題ないのでは?だって、私がなんと言おうと……私は、陛下の血を受け継いだ皇族なのでしょう、山縣さま?」
高官たちも、三浦先生も、一斉に息を飲んだ。
「これは……やられましたな」
先ほどのやり取りを思い出したのか、山縣さんが苦笑した。
「大丈夫です。指頭血採血程度なら、余裕よ」
私は高官たちだけに聞こえるように、小声で言った。
前世だと、血糖値のチェックの際、指頭血採血を行う。前世のような、専用の穿刺器具はないだろうけれど、要領としては同じだろう。
「兄上に実際にやる前に、私、自分の指で練習します。三浦先生、具体的に方法を教えてください。それで、兄上にやるときは、私の介助についていただければ助かります」
私は三浦先生に頭を下げた。
「うん、章子がするか。それで皆が問題ないのなら、わたしは構わない。章子、頼む」
殿下もこう言った。
三浦先生は、困り果てた表情で、ベルツ先生にドイツ語で話しかけた。ベルツ先生が一言、二言つぶやいて、三浦先生に頷いた。
「ええと……では、非常に、異例なことなのではありますが……増宮さま、穿刺を、お願いできますか?」
「わかりました。では、私、手を洗ってきますね……兄上も、手を洗ってください。できれば、石鹸を使って」
私は立ち上がった。