セカンドオピニオン
「兄上の熱が、また上がったのですか?」
伊香保御用邸に入って3日たった朝、毎朝の診察に来た侍医の三浦勤之助先生に、私は尋ねた。
「はい……また、でございます」
聴診を終えた三浦先生は、ため息をついた。
花御殿付きの医者は、何人かいるのだけど、彼はおととし大学を出たばかりで、一番若い。今回の避暑には、侍医として、彼がついてきていた。
彼の聴診器の形は、“カンマン式”というらしい。前世のものと大分違っていて、全体の、特に、ゴム管の長さがかなり短い。だから、先生は身を大きく屈める格好で聴診している。何とか、改造できないのかなあ……。
「今朝が、39.5度なんですね……」
私は紙を取り出して、定規と色鉛筆を用意した。三浦先生から聞いた皇太子殿下の体温や脈拍、呼吸数を、経時的に追えるように折れ線グラフにしている。
「21日の朝に40度の熱で、でも何時間かで下がって、昨日は平熱で……で、また上がった?確か、暑気あたりという話でしたよね……」
暑気あたり、というのは、前世でいう熱中症のことなのだろうか?突っ込んで三浦先生に聞きたかったけれど、7歳の子供が聞くと、絶対に不審がられそうなので、やめた。
けれど、いったん平熱まで下がって、また上がるって……。
前世で、医師国家試験合格のために頭に叩き込んだ知識を、必死で思い出す。
熱の出方の分類は色々あったけれど、殿下の場合は、常に38度以上の熱があるわけではなく、平熱の時期もしっかりある。“間歇熱”という熱の出方のようだ。感染症だとか、自己免疫疾患とか、色々な病気で起こりうる。
そして、殿下の症状は、と言えば、今のところ発熱だけなのだ。
(咳だとか、痛みだとか、どこかに症状があれば、少しは病気が分かる手がかりにはなるけれど……)
診察してもいいのかな、と思ったけれど、すぐにその考えを振り払った。
私の前世のことを知らない殿下の診察を、私がする訳にはいかない。
しかも、私自身、前世で医者として働いていたのは、たったの3か月だ。
さらに言えば、この時代の病気には詳しくない。爺のお屋敷で暮らしていたころは、医学書も読んでいたけれど、当て字の難しさにページが進まなくて、結局、外科の本しか読破できなかった。花御殿に引っ越してからは、自分の学習や殿下のお相手に忙しくて、医学書を読むひまが全くない。だから、私が殿下を診察したとしても、正確な判断が下せるかは、とても怪しい。
(でも、看病ぐらいはしてもいいよね?)
「三浦先生、兄上のお見舞いに行ってもよろしいですか?」
私が尋ねると、三浦先生は快く許可を出してくれた。私は服を整えると、皇太子殿下の寝室に向かった。
御用邸の奥にある和室に、殿下は布団を敷いて寝ていた。頭の下に置かれているのは、普通の枕ではなく、水枕だ。
「兄上……」
呼びかけると、荒い呼吸をしていた殿下が、薄く目を開けた。
「章子か」
「はい」
「すまぬな……」
殿下が短く言った。額に汗が光っている。
「いいえ」
私が握った殿下の手は、熱かった。
(これだけ汗が出たら、脱水になりそう……。殿下、水分は取れているのかな……)
と、廊下の方で、どたどたと足音が響いて、寝間の障子が開けられた。
「殿下!……増宮さまも」
そこに立っていたのは、フロックコート姿の伊藤さんだった。
「い、伊藤さま?!」
私は目を丸くした。
「確か、法典調査会があるから、伊香保にはいらっしゃらないって……」
条約改正に必要な、民法と商法の編纂を目的として、今年1月に内閣に設置された法典調査会。その業務を早く進めたいから、ということで、伊藤さんは私と皇太子殿下の避暑には付き合わない、と言っていたのだけれど……。
そのことを思い出していると、
「増宮さま!殿下の御容態は……」
「殿下!」
伊藤さんの後ろから、山縣さんと黒田さんが顔を出した。この3人を案内してきたのだろう、大山さんも後ろに控えている。
「ちょっと……黒田さまも山縣さまも……お仕事はいかがされたのですか?」
殿下の前なので、私が猫をかぶりながら突っ込むと、
「そんなことより、皇太子殿下の御容態と、増宮さまのご機嫌の方が重要です」
黒田さんが力強く答えた。私は思わずよろめいた。
「ああ、大丈夫です。わしと黒田さんの代理は、松方どのと、聞多さんに頼みましたから。数日なら何とかなりましょう」
山縣さんが、あごひげを右手で撫でながら言った。
「こちらの仕事も、市之丞もおりますし、金子、伊東、井上の3人もいますからな」
伊藤さんも頷く。
(金子堅太郎、伊東巳代治、井上毅……いや、確かに、法律関係の仕事はできそうだけれど……)
伊藤さんと一緒に、帝国憲法を起草した3人は、法典調査会の主力メンバーである。
「章子……誰か来たのか?」
騒ぎが耳に入ったのか、殿下が私に顔を向けた。
「ああ……伊藤さまと、黒田さまと、山縣さまが」
身体を起こされますか、と殿下に聞こうとしたけれど、やめた。この状況で、殿下に無理はさせたくない。
「すまぬ……このままでよいか?」
殿下の言葉は、伊藤さんたちに向けられたものだった。
「はい」
伊藤さんが、畳の上に正座して、殿下の方に身を近づけると、黒田さんと山縣さんも、それに倣った。私は逆に立ち上がって、廊下に向かって歩いた。障子の側に控えている大山さんに、「替えの水枕を取ってきます」と小声で告げて、殿下の部屋を後にした。
廊下を歩いていた侍従さんを捕まえて、井戸まで連れて行ってもらい、冷たい水を汲んで、水枕に詰めた。氷も少しあるというので、侍従さんにお願いして砕いてもらい、枕の中に入れた。冷凍庫はまだ開発されていない時代だから、氷があるのは本当にありがたい。
御用邸の中に戻ると、殿下の部屋の方から、複数人の足音が響いてきた。伊藤さんたちが、見舞いを終えて退出するのだろう。顔を合わせたら、長い時間捕まりそうな気がしたので、とっさにそばの部屋の襖を開けて、陰に潜んだ。
「しかし……大分、御加減が悪そうだ」
「俊輔もそう思うか……。以前はともかく、増宮さまとご同居されてからは、あのようなことはなかったのだが……」
伊藤さんと山縣さんの声が、遠くからだんだん近づいてくる。
「弥助どん、侍医は、皇太子殿下の御病気については、どのような見立てなのだ?」
「それが……瘧のようではあるが、よくわからない、と……」
大山さんが、黒田さんの問いに答えた。
(おこりって……平清盛が罹ったって奴かな?)
襖の後ろで、私は首を傾げた。
「よくわからん、だとぉ?」
山縣さんが声を荒げる。
「ええ……」
(瘧って、確かマラリアだよね?マラリアは、日本じゃ発生しないって、前世で教わったけれど……)
「だがこれは……万が一のことを考えなければいけないのか?」
伊藤さんがそう言ったのは、彼が、私の隠れている襖のすぐそばまで来た時だった。
「うむ……」
「……」
一同が立ち止まった。
よりによって、私の隠れている襖の前である。
「先日、小菊どのがお産みになったのは、内親王殿下……陛下はまだまだお若い、これからも、お子様を挙げられる可能性はあるが……」
「皇太子殿下のみならず、陛下にもし万が一のことがあれば……皇族席次に従えば、次の帝は、有栖川宮さまになるか……」
(?!)
私は、目を見開いた。
(この人たち……もうそんなことを考えるの?!)
政治家としては、次の手、またその次善の手を考えるのは、至極当然のことだ。
けれど……殿下はまだ、生きている。天皇だって。
政治家として、先々の予測を立て、それに対して対策を立てよう、と考えるのはわかる、わかるけれど……。
私は、襖の陰で、ひそかに歯を食いしばった。
すると、伊藤さんが、
「何を言う、増宮さまがいらっしゃるではないか」
……とんでもないことを言いだした。
(はああああ?!)
「歴史上、女帝が立たれた例はある。増宮さまなら、皇太子になる資格は十分だ。我ら“梨花会”が盛り立てれば、いや、盛り立てずとも、増宮さまなれば、この日本を、列強と肩を並べる強国にしてくれるのではないだろうか」
「俊輔……しかしそれは、皇室典範を変えねばいけないぞ?」
「伊藤さん、気持ちとしては俺も賛成ですが、他の皇族方が、どうおっしゃるか……」
「狂介、黒田さん、心配はわかる。しかし、日本のためには、増宮さまを女帝に立てるのが、どうしても必要な手だと、この伊藤は思うのだ。申し訳ないが、他の皇族方には引き下がっていただいて……」
もう我慢できなかった。
私は襖を、思いっきり引き開けた。
「何者だ!」
軍刀の柄に右手を掛けた大山東宮武官長が、不審者が私と認識して、動きを止めた。
「いい加減にしなさいっ!!!」
私は叫んだ。
「ま、増宮さま……」
伊藤さんがその場にひれ伏す。黒田さん、山縣さん、大山さんも、一斉に平伏した。
「私の前世は平民です。帝位につく資格などありません!」
「し、しかし、今の御身には、間違いなく陛下の血が……」
「山縣さん、黙りなさい!」
激しい怒りに任せて、私は山縣さんに言葉を投げつけた。
「政治家として、先々の心配をしなければならないのは、私も分かります。けれど……今考えるべきは、皇太子殿下の御治療をいかにすべきか、ということではないのですか!」
「は……確かに……」
平伏したまま、伊藤さんが返答した。
「私も、医者としての経験がほとんどないから、今の殿下の病態が分からないけれど……。だから、……だからこそ、医者を呼んで!三浦先生にも分からないんでしょ?!だったら、別の医者を連れてきなさい!セカンドオピニオンよ!カンファレンスよ!……とりあえず、湯治客に医者がいないか、探していらっしゃい!それでだめなら、東京から医者を連れてきなさいなっ!」
「「「「ははあ!」」」」
後から考えると、すごくめちゃくちゃなことを言ってしまったと思う。あの時の私は、自分が何もできないもどかしさと、激しい怒りとで、理性を失っていた。けれど、伊藤さんたちは、私の命令にすぐ従ってくれて、伊香保の湯治宿に、手当たり次第に問い合わせてくれた。
そして、
「増宮さま!」
30分ほどして、伊藤さんが、私の側に息せき切って駆け付けた。
「見つかりましたぞ、医者が!……いやあ、本当に、皇太子殿下は運がよい!」
「?」
「まさか、ベルツ先生が、伊香保にいらっしゃるとは!」
「ベルツ……?」
(誰だっけ?)
私は、首をかしげた。
「ええ、帝国大学内科のベルツ先生ですよ。数年前まで、教授をしておられたのです」
「帝国大学……?元教授……?」
帝国大学……前世でいう、東京大学だろうか?
そこに勤めているベルツ先生って……。
(“ベルツの日記”の、中の人?!)
思わぬ結果に、私は、その場にへたり込んだ。
三浦先生は、史実では留学中ですが、早めに登場させておきたかったので……。




