お正月(2)
応接間に戻ると、本当に久しぶりに会うお客が来ていた。
「爺!」
正装に身を固めた爺に、私は駆け寄った。
「お久しぶりです、増宮さま」
「会いたかった!」
花御殿に引っ越して以来だから、1年近く、爺には会っていない。「お話しするの!」と強引に爺の手を引っ張り、殿下を置いてけぼりにして、私の居間に連れて行った。
「爺……本当に、本当に久しぶり。会いたくてしょうがなかった」
爺と二人きりになったのを確認すると、私は素の口調で話し始めた。
「勤務の時に、皇居に押しかけてしまおうかと、何度思ったことか」
そう、単なる私の養育係だと思っていたら、爺は天皇の侍従の一人だったのだ。それを知ったのは、私が花御殿に引っ越してからだった。
(道理で、爺と一緒に暮らしていたころ、屋敷にいないことが結構あったのね……)
天皇の侍従は、特に業務が忙しい。各地で何か事件や災害が発生すると、天皇に「状況を確認してこい」と命じられて、出張することも多い。私が引っ越してから、花御殿に爺がやってくることは今までなかった。そして、私が皇居に参内しても、ちょうど非番や出張に当たってしまって、会うことができなかったのだ。
「はは……それは勘弁してください。同僚たちや、陛下に嫉妬されてしまいます」
爺が苦笑した。少し、髪に白いものが増えた気がする。
「しかし、大きくなられましたな、増宮さま」
「4,5cmくらい……あ、1寸5分ぐらい、身長は伸びたかな」
今の私の身長は、尺貫法で四尺ほどである。メートル法で換算すると120cmちょっとだ。この時代、尺貫法が単位として現役だから、換算がとてもややこしい。
「でも、まだまだ足りない」
「ほう、それは……」
「私が前世で死んだのは、24歳よ。その時の身長は160cmくらい……5尺3寸ぐらいあったの。変な言い方だけれど、身体が、中身に追いついていないの」
「なるほど、確かにそういう言い方になりますね」
爺が微笑した。
「でも、身体が中身に追いついた時には……私は用済みになるかなあ、って思うの」
「増宮さま?」
「だって……“梨花会”の面々のほとんどは、明らかに一流、いや、超一流の人物だし……」
ほぼ全員が、日本の近代史の重要人物だ。失敗したこともあるけれど、大なり小なり、功績を残し、日本という国を形作っていった人々である。互いの連携さえうまく取れれば、“史実”以上の功績を残すだろう。
「それに、歴史は、私の知っているものから、変わってきている。治外法権は、こんなに早く撤廃はされていない。憲法も変わったし、大隈さんも襲撃されていない」
“史実”であった、イギリスのマスコミによる、条約改正の情報リークは起こらなかった。そして、改正された条約にも、憲法違反になる可能性のある条文は含まれていない。条約改正を次々と成し遂げている黒田総理大臣と大隈外務大臣を、新聞各紙はほめたたえていた。
「昨年、陛下にも申し上げたけど……変わったその先にある出来事については、私の知識では、完全な答えを与えることはできない。知識そのものにも、偏っている面があるし……ほら、昨年の十津川水害のこと、私は知らなかったでしょう?」
「あれは……すさまじいものでした」
爺が頷いた。水害が起こった8月には、私は箱根にいたから、東京に戻ってから発生を知った。爺は、天皇に命じられ、水害の起こった十津川・熊野地方を視察していた。
「十津川村の広範囲で山体崩壊が発生して、死者多数。生き残った村民の中には、北海道への移住を選択する者も出て……熊野本宮の社殿も、壊れたのよね?」
「おっしゃる通りです」
爺の答えに、私はため息をついた。
「熊野本宮は、前世では“世界遺産”というものになっていて、世界から観光客が訪れていた。そこが壊れて、北海道への移住者も出すレベルの災害なら、前世でも記録に残っているはずだけれど……私の記憶にはなかった」
記憶があったら、何とかして事前に避難命令を出すよう、“梨花会”の面々にお願いしたのだけれど……。
「だからね、歴史が変わった今、もう私にできることはないんじゃないかな、って思う」
そう、さっき会った児玉さんと山本さん。あの西郷さんが仕事をすべて任せている、ということは、二人ともすごく優秀なはずだ。それなら、教科書に名前が出ていなくても、結構有名なはずで、明治時代を扱った歴史小説に出てきてもいいと思うのだけれど……。
悲しいかな、私は、前世で歴史小説を読むことはあっても、戦国時代のものしか読まなかった。江戸時代以降のものは、食わず嫌いなのもあったのかもしれないけれど、全く読んでいない。
まさか今、その食わず嫌いを後悔することになるなんて、思ってもみなかったけれど、明治時代に転生するなんて、常識じゃ考えられないからなあ……。
(私の“史実”の記憶だけに頼っていると、優秀な人たちを、見つけ出せない可能性もあるのよね……)
まあ、“梨花会”の面々なら、私の記憶に頼らなくても、優秀な人材を簡単にスカウトしてきそうだけれど……。
そして、私の“史実”の記憶には、不自然に欠落している箇所があるのだ。
絶対覚えていなければいけないはずなのに、どうしても思い出せないところが2か所ある。
(前世で何回も生徒に教えたはずなのに、板書もしたはずなのに、どうしてこれだけが思い出せないの?!)
何度も前後の“史実”を確かめた。授業を再現したら思い出せるかと思って、私以外誰もいない自室で、前世の授業を小声でしてみたこともあった。
けれど――どうしても、その2か所だけ思い出せない。
「私の不完全な“史実”の記憶に頼らなくても、“梨花会”の面々なら、仲たがいせずに上手く連携を取れれば、必ずこの国を“史実”よりいい方向に持っていける。城郭も焼けないで済むと思う。だから私、これから、どうしたらいいのかなって……」
すると、
「おや、簡単なことでございます」
爺がほほ笑んだ。「増宮さまができることを、おやりになればいいのです」
「え?」
「増宮さまは、天皇陛下の血を受け継がれた方でございます。それゆえ、やらなければいけないことや、できるのにできないことも、多々ありましょう。ですが、あなた様の意思で、できることもあるはずでございますよ」
「私の意思で、できること……?」
「そうです。貴賤の差があれども、人の生き方とは、そういうものでございます。……それができないというお子に、増宮さまをお育て申し上げた覚えはございませんよ?」
「それは、そうかもしれないけれど……」
私は戸惑った。
できることさえわかれば、こんなに悩むことはない。
ただ、未来の知識はあるけれど中途半端、おまけに、医師としての経験もあまりないこの私が、超一流の人物たちの中でできることなんて……。
「簡単でございますよ?」
爺はそう言って、またほほ笑んで、更に口を開こうとした。
と、
「章子!」
不意に、居間の襖が開けられて、皇太子殿下が顔をのぞかせた。
だけど、私と目が合った瞬間、踏み出そうとした殿下の足が止まった。
「いかがいたした、章子……」
心配そうな表情の殿下に、
「あああ、な、何でもありません、兄上!いかがなされましたか?」
私は、わざと明るく笑った。
「うむ、年始の客が途切れたから、鬼ごっこでもしようかと思ったのだが……堀河どのと話をしているのならば……」
「ぜ、是非に!兄上、参ります!」
私は椅子から慌てて立ち上がった。
「そうか。では、庭で待っておるぞ」
殿下は踵を返した。軽やかに、廊下を駆ける音がする。
「……爺、この話は、またいずれ」
「かしこまりました」
胸の中が、もやもやする。
私は、海老茶色の袴の裾を翻しながら、殿下の後を追った。
「さて、今日は、俺はどのくらい、章子を逃がしておけばよいのだ?」
庭に出ると、皇太子殿下が、懐中時計を手に、私に問いかけた。
「……2分でお願いいたします、兄上」
私は準備運動をしながら、殿下にお願いした。
「なんと? 先日俺が待ったのは、1分だったぞ」
殿下は目を丸くした。
「でも、その1分でも、私、全力で逃げたのに、兄上に捕まりました!」
そうなのだ。皇太子殿下は、めちゃくちゃ足が速い。
私も同年代の女子には、脚の速さは負けないつもりだ。けれど、殿下は、全速力で逃げる私を、いとも簡単に捕まえてしまうのだ。殿下が何度も大きな病気をしたというのが、とても信じられない。まあ、10歳と6歳の体格差と言ってしまえばそれまでなのだけど……。
「まあ、それは、俺も本気で、章子を追ったからな」
殿下は、得意げに答えた。その表情が、ちょっと憎たらしく思える。
「そのペースでやられるのでしたら、1分だけのハンデでは、私は捕まってしまいます。だから2分ください、兄上」
「ならぬ」
「では、1分50秒!」
「1分10秒なら、許してやろう」
「1分40秒!」
「1分20秒!」
「……1分30秒ということにしていただけませんか、兄上」
「仕方がない、では今から数え始める」
「はい!」
編み上げブーツで足元を固めた私は、必死に走り始めた。運動をするときは、和服に女袴、それに靴と言うスタイルが、一番身軽に動ける。
花御殿の庭は広い。というより、前身である紀州徳川家の屋敷用地が、広すぎるのだ。広すぎるがゆえに、屋敷用地の中には、皇太后陛下のお屋敷もある。私はそちらの方に向かって、全速力で走っていた。
と、前の茂みが、がさっ、と音を立てて揺れた。思わず立ち止まった私の前に、私と同じぐらいの年の女の子が現れた。乙姫さまみたいなお稚児髷に、すらっと通った鼻筋が印象的だ。服装も、桃色の着物に緋色の袴、黒い革靴という、私と似た格好だった。
「ええと、ごきげんよう」
息を整えながらあいさつすると、女の子も「ごきげんよう!」と元気よく返した。
「何をしているの?」
女の子が私に聞く。
「ええと……今、鬼ごっこの鬼から、逃げているの」
すると、
「隠れちゃいましょうよ」
彼女は言った。
「隠れるって、どこに?」
私が尋ねると、彼女は、側にあった、太さ30センチぐらいのクスノキを指さして、
「登ってしまいましょう」
と、にっこり笑った。
「登るって……あなた、登れるの?」
この御所内にいるということは、それなりの身分のある女の子だろう。私のような“お転婆”ならともかく、この時代のお嬢様が、木登りできるわけがない……と思っていたら、彼女は、クスノキに飛びついて、あっという間に上に登っていった。呆気にとられながらも、私も彼女に続いた。
「章子!」
地面から3メートルほどの所にある、太い枝に腰を下ろしたところで、殿下の声が聞こえた。
「もしかして、あれが鬼さん?」
もう一段、高い所にある枝に腰かけた彼女が、私に聞く。私は返事をする代わりに、右手の人差し指を立てて、唇に当てた。
殿下は私のいる方に向かって、全速力で走ってきた。しかし、クスノキに登った私たちには気づかずに、クスノキの側を通り抜け、皇太后陛下の御所の方に、走って行ってしまった。
「やった」
小声で喜ぶと、女の子もクスクス笑った。
「あの……ところで、あなた、お名前は?私は、章子、というのだけれど」
「さだこ、と言います」
女の子は答えて、にっこり笑った。その笑顔が、なんとも、愛らしかった。
「さだこ、さまですね。年はおいくつですか?」
「5歳です」
「そうですか、私は6歳です」
「では、章子さまは、私より一つ、お姉さまですね」
お姉さま、と言われて、私はドキッとした。
前世では、妹は一人いたけれど、私が大学に入って、東京で暮らし始めてからは、疎遠になっていた。
今も、昌子内親王殿下、という妹はいるのだけれど、その子はまだ1歳で、しかも……私とは母親が違う。異母姉妹、というものである。まだ対面したこともないので、いまいち、皇太子殿下以外に兄弟がいる、という実感が湧かない。
「……そうですね」
私も、笑顔を作った。すると、さだこちゃんも、笑顔になった。
「ところで、こちらには、どうしていらしたの?」
「おばさまの所に、新年のごあいさつに来たの」
さだこちゃんはそう答えた。
おばさま、というのは、私の女官の花松さんのことだろうか?いや、彼女なら、私の名代として、各宮家に新年のあいさつに行っているはずなので、留守だ。ということは、皇太后陛下か、その女官の人の縁者なのだろうか?そう考えていると、
「章子、ここにいたのか」
すぐそばで、皇太子殿下の声がして、私は思わず、きゃっ、と声を上げてしまった。
「鬼ごっこが、かくれんぼになっているではないか」
いつの間にか、クスノキを登ってきた殿下が、私のすぐ下にある太い枝にまたがっていた。
「兄上、どうして、ここが?」
「章子が見当たらぬゆえ、あたりを見回したら、この木の枝の隙間から、章子の着物が見えた。隠れるなら、もう少し上手に隠れよ」
殿下は微笑して、私の上にいる、さだこちゃんに目を止めた。
「あの、お友達ができました」
「そうか。……名はなんと申すのだ?」
「さだこ、と言います。……鬼さん?」
「あ、兄です」
変な勘違いをされては困るので、私は、一応、注釈を入れた。
「うむ、章子の兄の、嘉仁という」
「嘉仁、お兄様?」
さだこちゃんは、首をかしげたが、
「はじめまして。よろしくお願いします!」
ぺこりと頭を下げた。
「こちらこそ」
殿下も頭を下げた。
「しかし、……そなた、よくこの木に登れたなあ。章子以外に、木登りをする女子がいるとは、驚いた」
(これ、怒った方がいい所かな?)
と思ったが、私は黙っていた。
「はい、周りの子が、登っていましたから、私も覚えました」
さだこちゃんは、ハキハキと殿下に返答した。
私が内親王という立場にいるから、大目に見られているだけで、この時代、名家の娘さんが木に登って遊ぶなどということは、まずない。ということは、平民の娘さんだろうか。けれど、さだこちゃんの着物は、華族女学校のクラスメートのように、こざっぱりしたものだ。それに、なんとなく、殿下と同じような気品が、あるような気もするんだよなあ……。
いまいち、情報が指し示すところが一致しないのだけれど、確実なことが、ただ一つあった。
「さだこさま、私たち、いいお友達になれそうな気がします。また、遊びましょう」
「はい、章子お姉さま!」
私とさだこちゃんは、ふふふ、と笑い合った。
彼女がどんな出自なのかは、全く分からない。
ただ、私が内親王であるということに、どことなく遠慮している感じのある華族女学校の学友たちよりは、気楽に接することができそうだ。
(また、会えるといいな)
私は素直にそう思った。
まさかこの出会いが、あんなことにつながるなんて、当時の私は思ってもみなかったのだ。