2018(平成30)年夏至→1888(明治21)年小満
何のために生きたか、全くわからない人生だった。
過去形で語らなければいけないのも、どうしようもなく、悲しい。
けれど、今、走馬灯のように目の前に展開している、今まで体験した光景の数々を見ていると、その思いが、強く湧き上がってくるのだ。
私は名古屋で、開業医の長女として生まれた。
兄が2人、妹が1人の4人兄妹で、兄は2人とも、家業を継ぐべく医者になった。
兄たちに続いて医者になることを、両親と祖父母に期待され、自分でもそれが当たり前のことだと信じていたので、医学部進学実績のよい、地元の私立の中高一貫校に進学し、さらにそこから、東京の大学の医学部に進んだ。
でもその頃からだろうか、何かが違う、と漠然と思っていた。
医者になるということは、私が本当に望んだ進路なのだろうか。
そんな疑問が、親元を離れて一人暮らしをして、大学に通っているうちに、だんだん大きくなっていった。
その思いが決定的になったのは、大学1年の秋、小遣い稼ぎに、家庭教師のバイトを始めた時だ。
高校生に数学を教える予定だったのだけど、バイトを仲介してくれた人間の手違いで、なぜか、日本史を教えることになってしまった。仲介者の顔を立てるために、仕方なく、日本史のにわか勉強を始め、生徒に授業をした。
これが、とても面白かった。
自分が高校生の頃は、医学部の受験科目では使わないし、暗記ばかりだというイメージだったので、日本史を敬遠していた。
けれど、物語として、いろいろな登場人物が複雑に絡み合った、たくさんの物語の集合体として捉えると、とても面白いものなのだ、ということに気が付いたのだ。
それから、自分自身の勉強の暇を見つけては、歴史の本を読み漁り、いろいろな史跡や博物館を訪ね歩いた。
特に、戦国時代が好きで、一番興味を持ったのは城郭だった。現存している天守閣はすべて行ったし、城跡もできる限り見学した。大学の同期たちには“オタク”扱いされ、なんとなく距離を置かれたけど、無視して、城跡を訪ね歩いていた。
がぜん、教える方にも力が入り、教え子は日本史を受験科目に使って、志望の大学に見事合格した。
その後、私は小さな予備校のバイト講師として採用され、日本史を担当した。病院実習が忙しくなってきたので、3年ほど続けてやめたのだけど、意外と好評で、「先生のおかげで、日本史が好きになった」という生徒も何人かいた。
そして、講師のバイトを辞め、病院実習のカリキュラムにもまれながら、思ったのだ。
私の本当に進みたい道は、日本史に関わること――しかも、日本史を教えることなのではないか、と。
しかし、そのことに気づいたのは、既に私は医学部の6年生、しかも卒業試験を間近に控えた夏だった。
必死に勉強している同級生たちや、私が医者になることを信じて疑わない家族には、その悩みを相談できるはずもなく、希望を押し殺して、大学の卒業試験と医師国家試験を、黙って受けるしかなかった。
両方の試験をパスし、医師免許を得て、初期研修医になった私は、東京都内の病院で、医師としての第一歩を踏みだした。
それから3か月、失敗もしながらだけど、採血や点滴など、初歩的な手技を何とかできるようになり、表面上、一生懸命に仕事をした。しかし、心の中は、虚ろな気持ちでいっぱいだった。
「大学病院に戻ったら、海外留学を目指す」「専門医を目指して、たくさん研鑽を積みたい」「地域医療の道に進みたい」などと、理想に燃えている同僚の研修医たちに、自分と異質なものを感じた。
私は、医者になってはいけないのではないか。
いや、免許を取ったのだから、自分を押し殺してでも、免許を活用して働くべきなのではないか。
そんなことを、ずっと悩みながら、日々の業務をこなしていた。
そして、本日、平成30年7月4日午前8時2分。
救急患者がひっきりなしにやってきて、一睡もできなかった当直勤務を終え、自分の担当患者の採血検体を、検査室に搬送する最中、階段を降りようとした私は、一番上の段を踏み外して、3メートルは下にある踊り場に、誤ってダイブしてしまったのだ。
武術の心得のない私に、受け身を取る余裕は全くなかった。
頭から踊り場に落ちる、とわかった瞬間、私は自分の死を悟った。
そして、今までの思い出が走馬灯のように、眼前に展開されて、どうしようもなく、悲しく、むなしくなった。
こんな形で、24歳で死んでしまうのなら、どんなに周りに反対されても、自分の意思をきちんと通して、日本史の教師を目指してみるのだった。
激しい後悔の念が、心に湧き上がる。
(勉強ができても、バカで、意気地なしじゃ、どうしようもないよな……)
それが、私の脳裏に浮かんだ最後の言葉だった。
そのはずだった。
身体に伝わった衝撃は、覚悟したものより、柔らかかった。
踊り場のビニルタイルの直下は、硬いコンクリか鉄材だろう。そう思っていた私にとっては、まるで、人に抱き留められたかのような感覚を覚えたのが、意外なことだった。
多少痛みはあるけれど、手足も動かせるようだ。体を起こそうとして、目の前にある自分の手が、とても小さくなっていることに気が付いた。「少し小さめだね」と看護師に言われることはよくあるけれど、それでも5.5――手袋のサイズは、医療現場ではインチの単位で表現するから、手首から指の先まで、大体14センチぐらいはあるはずだ。けれど、今の自分の手は、明らかにその3分の2程度の大きさしかなかった。ひょっとしたら、もっと小さいかもしれない。
「おうおう、姫宮であらせられるのに、お元気ですなあ」
頭上から、聞いたことのない声が降ってきた。
見上げると、立派な髭を生やした、初老の男の顔があった。彼の腕の中に、私は抱き留められているらしい。私の足は、宙に浮いている。手ばかりでなく、身長まで、縮んでしまったのだろうか。
「本当に、お元気なことで。木馬から、飛び降りなさるとは」
男の隣には、これまた初老の女性がいる。和服を着て、髪の毛も、まるで時代劇に出てきそうな日本髪にまとめていた。一方、男の服装は、洋服である。昔、テレビで見たシャーロックホームズの映画に出てくるような、古めかしいものだった。
(体が縮んでいる……これは夢なの?臨死体験ってやつ?でも、痛みや触覚はちゃんとあるし……一体どういうこと?)
大混乱している私に向かって、私を腕の中に抱き留めている男性は、満面の笑みでこう言った。
「では、戻りましょうか、増宮さま。この爺が、このまま抱っこしてお連れ申し上げますぞ」
「ますの……みや……さま……?宮、さま?」
この、私が、か?
それが私、半井梨花の、“2度目の人生”の始まりだった。