エピローグ
俺は三年の終わりに、お袋の仕事の都合で、お袋の実家の祖母の家へ引っ越すことになった。今のパートを辞めてもっと条件の良い仕事をするらしい。今住んでいる親父の建てた家も、売り払って収入にできる。俺はしばらくこの話を夕子にできなかった。まさかまた俺の知らないうちに、死んだりしないとはわかっていたけれど。俺も本当に夕子と離れたくなかったから。夕子を悲しませたくないと言えばかっこいいが、口にもしたくなかったというところか。言ってしまえば本当に確定してしまうような気がして。
卒業を前にした中三の2月のある日、帰り道に俺は夕子に引越しの話を切り出した。もう伝えない訳にはいかないと感じていた。直前に言い出せばなお悪いだろうし。夕子はタクヤはそれでいいの、と聞いてきた。俺はしかたがないかな、と答えたと思う。所詮養われの身だ。我侭言ってどうなる。でも夕子が行かないでと言ったらそうした。
卒業式も済んで、引越しの日に、俺は夕子の家へあいさつに行った。夕子しかいなかったけれど。じゃあさようなら、と言って俺は帰ろうとしたが、その一瞬前に夕子は俺の腹部へ顔面から飛びついた。タックルからのハグだった。俺は今では少し小さくなったような夕子を優しく抱えた。心はある種の安心感のようなものに包まれながらも、俺の動悸はいつになく高く苦しいほどに打っていた。
夕子は俺の腹に顔をうずめたまま何かもごもご言っている。何か言っていることに気付いた俺は、そのまま顔を上げようともしない夕子に何て言ったのか聞いたが、夕子は少し笑ったような声で、どうやら教えない、と言っているようだ。
・・・あれ。俺はおかしなことに気付いた。化け猫の断末魔の叫びが聞こえない。こんなことをしていて、奴が黙って平気なはずはないから。一体どうしたんだろう。
夕子と別れて俺は祖母の家に帰った。お袋とばあちゃんと夕食を食べて、風呂に入って床について寝ようとしていると、窓を叩く音がする。祖母の家は古いので、風でも吹いて家がきしんでいるのかと思っていたが、何かが本当に叩いているようだ。窓を見ると、化け猫が屋根に座って首をかがめて、窓からこっちを覗き込んでいた。長い尻尾で木製のガラス窓を叩いていたようだ。
「やあ」
「・・・はじめまして、でいいのかな。お前は俺に憑いた猫の仲間か」
「違うよ。お前に憑いた化け猫本人さ。俺の憑依は解けた」
そうだったのか。俺は知らないうちにまた元の自分へ戻っていたのか。
「どうして憑依が解けたんだ」
「まあ素直に教えるのも野暮かな。俺もこんな形で解けるもんだとは知らなかったよ。お前のおかげで少なくとも一つ賢くなったな」
化け猫は、どうして解けたのか考えてみろよ、と少し意地悪く笑った。俺にはわからなかった。実は今でも本当にわかっているのかわかっていない。化け猫は簡単なことさ、と言っていたけれど。
「高谷君のことは気にするな。お前のせいじゃない」
化け猫の言うには、憑依された側は記憶を隠すことはできないが、化け猫は自分の記憶の一部を憑依した相手から隠すことができるという。過去を遡る術は大事な秘密だったので、化け猫は俺に隠していたらしい。分離してしまった今となっては、俺もよくわからなくなってしまった。本当なのかもしれないし、化け猫が俺の気を軽くしようとして言ってくれた嘘か方便なのかもしれない。でもどちらにしろもう俺はこのことで思い悩むのは止めた。そんなことをするぐらいなら・・・
化け猫は今でもたまに俺の様子を見に来る。よほど気に入られているのか、それとも一度は同じ人間だったから気になるのか。大体5~7年に一回ぐらい。忘れた頃に。化け猫に友達がいて、たまに会いに来るというのもおかしなものだ。
夕子とは手紙のやり取りを続けた。祖母の家はかなり遠かったが、それでもたまに会うことはできた。夕子と俺がその後どうなったのかはここには書かないでおこうか。それは、結局俺にはよくわからなかった、猫の問題みたいなものかな。
最後までお読み頂きありがとうございました。