おかしな夕子
それは俺が窓を叩いた音だった。続いて、屋根の下から手が伸びてきてスニーカーを大屋根に置いた。あっ!? しまった!!! 幸い後から来て窓を開けた俺は、大屋根にいる俺に気付かずに夕子の家の中へ入っていった。うっかり俺が来るのを忘れていた。冷や汗ものだよ; 俺かなり疲れてんな・・・あれ? 今日って夕子が自殺した日じゃ? 今まで特に何もなかったんだから、もし何か起こるとすれば、今日、今じゃないか?!! 俺は慌てて学校へ向かった。
俺は少し走ってすぐに夕子を見つけた。制服に着替えているのだが、なんだか着衣が乱れている。上着のシャツがスカートの横からはみ出している。普通なら直すだろうが、気がつかないのか。髪の毛も少しぐちゃぐちゃだった。何より歩き方が少しおかしい。表情もどこかうつろで、心ここにあらずといった感じだった。
俺は電柱の影に立ったまま、驚いて口を空けていたと思う。あたりは既に暗くなっていた。街灯がなくても歩けるぐらいに月は明るい。俺がバカなことで悩んでいるうちに夕子は俺の前を少し通り過ぎた。目ざといはずの夕子が、全く俺の存在に気付いていない。
「・・・夕子。どうしたんだ」
俺は夕子に話しかけるのは久しぶりだったし、夕子と呼びかけるか、山端と呼びかけるか、山端さんと呼びかけるか迷った。今思うと実にくだらない。昔も今も俺の中で夕子は夕子。他に呼び方なんてない。でもなぜか恥ずかしくて、俺は真っ赤になっていた。化け猫のわざとらしい咳払いが聞こえてくる。
夕子は振り返って俺を認識すると、見る見る表情を崩してダラダラと涙を流し始めた。声も上げずに。なんとなく不安になるような泣き方だ。その上俺から逃げようというのか、ふらふらと走り始めた。俺は驚いてしばらく突っ立ったまま、なかなか距離も開かない夕子の背中を眺めていたが、すぐに夕子を追いかけてその左手首を掴んで引き止めた。
「離して! 触らないで!」
俺は優しく夕子の手首をつかんだまま、絶対に離さなかった。夕子は最初嫌悪の声を上げながら本気で振り払おうとしていたが、だんだん振る力が弱くなってきた。そうすると、なんだかふざけて二人で手をつないで振っているような感じになってくる。
「何なのよ! あんた!」
夕子は俺が手を離さないのを逆手にとって、手を抜こうとしているように引っ張り、反動をつけてから、俺の腹に思いっきり頭突きを入れてきた。意外にセンスがあると思った。幸い今の俺には痛みもダメージもない。夕子はそのまま何度も何度も俺の腹に力一杯頭突きを入れ続けた。でもその勢いも次第に弱くなっていく。これも段々勢いが弱まってくると、じゃれて遊んでいるような感じになってきてしまう。夕子は右手で俺の上着を引っ張り、頭を腹に当てて下を向いたまま泣いているようだった。
「・・・だれ・・」
「何?」
「・・・誰なのよ。あなた。」
「・・・俺がタクヤじゃないと気付いてたのか」
「・・・当たり前でしょ。いえ、タクヤはタクヤかもしれないけれど・・・えっと・・・わかんない。わからなくなってきた」
今は・・・とぽつりと言った後、夕子は下を向いたまま黙ってしまった。
「俺がタクヤかどうかなんて、そんなに大事なことか」
夕子は下を向いたまま強く二度肯いた。
「・・・タクヤじゃないかもしれない俺には、何があったか教えてくれないのか」
夕子は少し長めの間の後に、肩をなでる程伸びてきた髪の毛をふわくちゃと揺らしながら首を振った。何だかかわいらしいが、俺に教えるつもりはないということだろう。
「・・・じゃあ俺も俺の秘密を夕子には教えない。本当は俺が誰かも」
夕子はここで顔を上げて俺の顔を見た。目は真っ赤だが、涙はもう乾いている。俺は少し笑って言った。俺は俺の秘密を話したら、死んじゃうんだ。この世から蒸発するように消えうせるんだと。蒸発は俺の冗談だ。でも死ぬのは本当らしい。
夕子はこいつ何を言うんだという顔をして俺を見ている。でも、夕子が死んだら、俺も消えてしまってもいいかな、とかそんな事を言った。化け猫のうめき声が聞こえる。
「だから・・・死ぬな。死のうなんて考えるな。お願いだから」
どれだけそうして二人で立っていたのか。俺は夕子の手は離さないまま、引いて家まで送っていった。家の門の前で玄関を開けて入る夕子を見守る俺に振り返って、夕子は無言でゆるゆると手を振った。その瞳は少し潤んで見えた。夕子が自殺を計ることはもうないという確信が、俺にはなんとなくあった。俺も軽く手を振って門の前を去った。玄関の戸の隙間から、俺が視界から消えるまで夕子は見ていた。戸の閉まる音がする。もし万が一夕子が死のうとしたとしても、既に家に忍び込んでいる俺が止めてくれるだろう。
この時間の俺の役割は終わった。俺は元の時間へと戻った。