知らないということを、知っている
『しかしながら、諸君、真に賢明なのは独り神のみでありまた彼がこの神託においていわんとするところは、人知の価値は僅少もしくは空無であるということに過ぎないように思われる。そうして神はこのソクラテスについて語りまた私の名を用いてはいるが、それは私を一例として引いたに過ぎぬように見える。それはあたかも、「人間達よ、汝らのうち最大の賢者は、例えばソクラテスの如く、自分の智慧は、実際何の価値もないものと悟った者である」とでもいったかのようなものである。』
ソクラテスの弁明・クリトン/プラトン
「手段が目的になってはいけない」
僕はこの言葉の意味が長らく理解できなかった。意味は理解できているのだが、今ひとつ「ピン」ときていなかった。
なぜなら、目的はいずれ手段に変化するからである。バスケットボールを始めた中学生は、試合に出るために練習をする。次は試合で活躍し、強豪校の推薦を目指す。そしてプロ選手になるために県の選抜に入ろうとする。目的はより大きな目的の手段になり続けるのである。
以上が幼き大学生までの、僕の経験則から生まれた一つの、いわば「反骨」だが、今日という日を境に紛うことなき理解を得た。
今日、つまり僕の23歳の誕生日に童貞を卒業した。
性交、もといSEXをした。そしてこれが人生のゴールだと僕の脳が認識してしまった。もはやこの日のために不遇の23年間を過ごしてきたのではないだろうか。この日のために力を蓄えていたのではないだろうか。常に弓張り。ずっとシーソーの下側。いつまでもホップステップ。そんな僕もついにジャンプの日が訪れた。思えば高校2年生のバレンタイン、血まみれのチョコレートを貰・・・。そんな暗澹たる過去の話をしている場合ではないのである。なぁにが「目的はより大きな目的の手段になり続けるのである。」であるか。完全に童貞の発言である。
こうしてみると、童貞の頃合いの思い出たるや、「穴があったら入りたい、なくても自力で掘り、マントル近くまで隠れていたい」ものである。
だが一方で、大人の階段を登ったことで失ったものも多いのではないだろうか。確かに心の平穏が訪れた。焦りとは無縁の落ち着いた佇まいを得たように思う。そう感じる反面、あの頃の猛進力、アグレッシブな反骨精神を失っているようにも感じ、若干の寂しさがある。「童貞力」を唱えていたみうらじゅん先生のお陰で救われていた時期もあったが、次第に失ったものへの焦りを覚え、探し出したいと思い始めてしまった。今の僕には何も力がないのではないか。
まずは自分の今までの出来事を拾い集めるように反芻することにした。
僕はどこに置いてきてしまったのだろうか。
なりたい自分というのは案外、既になっていたりするものである。




