2.病室の中で
「……ここどこ?」
目が覚めた時にはすでに見知らぬ病室の中にいた。一瞬、自分がなんでこんなところにいるのか分からなかったが、次第に自分が置かれている状況を思い出す。体に巻かれた包帯を見ればどれだけ大きな事故だったのか一目瞭然だった。
学校に間に合わず、自転車を飛ばしているときに起きた事故。ただでさえスピードを出していたのに、よそ見運転をしていては事故が起きるのも当たり前である。
今回はたまたま大怪我をするだけで済んでいるが、それはあくまでも結果のみ。お互いに命を落としていてもおかしくないほどの大事故である。よくこれほどまでの大事故を起こしておいて生きていたなと褒めてやりたいぐらいだ。
「拓海! 拓海は大丈夫なの!?」
そうやって拓海が一人物思いにふけっているとき、病室に突然の来訪者が訪れた。病院に入ってくるなりずっと廊下を走っていたし、やっと病室に入ったと思ったら病院内に響き渡るほどの大音量で拓海の名前を呼んでいては病院側からしても大迷惑である。
今はカーテンが閉められているのでこの部屋に誰かいるのか分からないが、母親の美和子が来たからには静かに終わりそうもないので先に心の中で謝っておくことにした。
「拓海!! あなた大丈夫なの!?」
「うるさいってば。ちょっと骨を折っただけで全然平気だから」
「ちょっと!? 足二本と腕三本も折ったその状態で!? 私がどれだけ心配したと思ってんの!!」
「……」
これにはさすがの拓海も返す言葉が見当たらない。あの時なにをしていたら、あの時あんなことをしなければと後悔しても遅いのである。この歳になって怒られることがあるなんて思ってもみなかったが、満を持してそれを受け入れることにした。怒られるだけまだましだと思った方がいい。
「だからあんたはいつもそうなのよ。周りを見ずに行動するからこんなことに……」
だが、あまりにも怒られるのが久しぶり過ぎて一つ忘れていることがあった。うちの母親を怒らせると消火するまでがとてつもなく長い。
普段から怒られるようなことをしないように心がけているし、両親共に怒りっぽい性格ではないので子供のころに怒られた記憶はあまりないのだが、その浅い記憶の中でも怒られている間中ずっと正座をさせられていたことは鮮明に覚えている。
その荒行のような怒られ方は幼稚園の頃からずっとで、足を崩すことも許されない拓海はただひたすらに痛みを耐えるしかなかった。長いときにはそれが二時間ぐらい続くし、正座をしたくがないために悪さをしなくなった覚えもある。
今はベッドの上で絶対安静なので流石に正座をさせられるようなことはなかったが、それを差し置いてもその説教はかなりつらい。時間として小一時間ほど怒られ続けているわけだが、拓海の精神力はとっくの昔にそがれていた。
「あんたも反省しているみたいだからもう終わりにするけど、こんなことは二度とするんじゃないよ。人はいつ死んでもおかしくないんだからね」
「はい……」
もはや拓海には言い返す気力さえも残っていない。すでに拓海は母親の言葉に相槌を打つ機械へと化していた。
「それと、一か月分の入院費は拓海に払ってもらうからね。つけにしといてあげるから高校卒業までにどうにかして稼ぎな」
しかもそんな拓海に一ヶ月分の入院費を負担しろと追い打ちをかけてくる。実害を受けた方が本人的にも事の重大さが分かりやすいだろうという美和子の枠な計らいだったが、それは思っていた以上の効果を発揮してしまい、必要以上に思い悩んでしまった拓海はさらに落ち込むこととなった。
確かに拓海にも大変なことをしてしまったという背徳感はあったが、背徳感があっただけで自分は何をしていたのだろうか。人に怪我を負わせた分際でベッドの上に横になっているなんておこがましいと思われるのではないのだろうかと思考が次々と負の感情に置き換えられていた。
一方、母親の美和子はというとこちらもまた思い悩んでいることがあった。もし拓海がぶつかったという女の子に後遺症が残ったのならば賠償金を支払わなければならないし、死亡させてしまったとしたらとてつもないほどのお金がかかる。美和子の頭の中はこれからどうやって相手方を説得させるかでいっぱいである。
話によると相手方は拓海のようなひどい怪我は負っていないらしい。それが唯一の救いだったが、これから降り注いでくる責任について考えると頭が重くなる。
「はぁ、入院費一ヶ月分か……。一体いくら払えっていうんだよ」
そして、頭を重くしていたのは美和子だけではない。美和子から巨額な借金を背負わされ、自らが犯した罪と向き合っている拓海もだった。
確かに事故を起こした責任は自分にあると思っているし、反省もしている。今はまだ会えないかもしれないが、もしこの傷が治ったらすぐにでも彼女に謝りに行くつもりだ。
事故を起こしたときには相手の体を心配した覚えはあるが、彼女に謝った覚えはない。記憶が曖昧なのではっきりとは言い切れないがおそらくそうだ。小さいころからそういう礼儀については厳しく教えられてきたのでなぜ意識が飛ぶよりも先に謝っておかなかったのかと後悔している。すでに拓海はその罪悪感に押しつぶされそうだった。
「大変そうねあなたも」
「ごめん、ちょっと放っておいて」
「そんなに気にしなくてもいいのに。二人とも無事だったからそれでいいじゃん」
「それもそうかもしれないけ……ど?」
と、拓海はそこまで会話を続けておいてようやくその違和感に気づく。ひどく落ち込んでいたので上の空で返事を返していたが、一体その相手とは誰なのだろうか。
そこには誰もいなかったなんて展開になったらそれはそれで面白そうだなと思いつつ、投げやり気味に声のした方を振り向いてみると……
「やぁ」
そこにはつい数時間前に衝撃的な出会いをし、自分はこれからどうするべきなのだと思い悩んでいた悩みの種が隣のベッドに座っていた。制服の代わりにこの病院の病衣を着ているので印象が変わっているが、間違いなく彼女である。
腕に包帯が巻かれているも、本人はいたって元気そうだった。
「え、ちょ……なんでここに」
「なんでって言われても怪我をしたからとしか言いようがないんだけど。きみがいきなりぶっ倒れるもんだからすごく焦ったんだからね」
落ち着いてよく考えてみれば分かることである。同じ時刻、同じ場所で起きた事故の負傷者を別々の病院に搬送するわけがない。ベッドに空きがあるのならばそこから一番近い病院に連れて行くのが打倒だろう。
もっとも、かかりつけの病院があるのならそこに移動させられるのだろうが、お互いに病院とは無縁の生活を送ってきたのでそういうところはない。あっても内科や歯科のような可愛らしいものばかりで、骨折をしたのも今回が初めてである。
「えっと、その……」
だが、同じ病院に運ばれるのは仕方がないとして、せめて病室を分けてくれるぐらいの気配りぐらいはしてほしかった。彼女の顔には絆創膏一つついてないし、包帯が巻かれているのは右腕だけなので拓海と比べればかなりの軽症で済んでいるのだが、それでもその傷を負わせてしまったのは拓海である。それを思うと彼女の目をまっすぐ見ることなんて拓海にはできなかった。
「ちょっと、なんでそんな暗い顔をしてるの。二人とも助かったんだからここは喜ば…」
「ごめん!!」
拓海は大きく頭を下げ、今できる精一杯の謝罪をする。まさかこんなに早く謝ることになるとは思ってもいなかったが、彼女に罪悪感を抱きながら入院生活を送ることを考えるとここで謝ることができたのは運がいい方なのかもしれない。
この程度の謝罪で許されるなら警察は要らないと言われても仕方がないだろうが、それでも謝らずにはいられなかった。
「え、なんで?」
「は?」
だが、そんな誠心誠意を込めた謝罪も相手に届かないのであれば意味がない。どれだけひどく罵られてもその全てを受け入れる覚悟はできていたのだが、その返答がこれでは間の抜けた返事しか返すことができない。
不思議に思って彼女の顔を覗き込んで見るも、拓海を気遣って嘘をついているようには見えなかった。それどころか、こいつはなにを言っているんだというような顔を返される。これでは真面目に謝っている俺が馬鹿みたいだ。
「いや、だってぶつかったのは俺の方だし……。怪我までさせてしまったし」
このままでは埒が明きそうにないので順を追って説明していく。謝りたいのにそもそも謝る理由さえ分かってもらえないこのみじめさは今までに味わったことのない屈辱だった。
「……あぁ、そういうこと。つまり君は自分のせいで私に怪我をさせてしまったと。それでさっきから私に謝っているんだね。だからそんなの気にしなくてもいいって言ったのに」
「いや気にするよ。骨も折れてちゃってるそ」
「うーん」
と、拓海は大きく悩みこむ。そこまで悩む必要があるとは思えないが、拓海的にはどうしても納得できなかったらしかった。
「念のために言っとくとね。さっきの事故は私にも落ち度があったと思うんだよ。確かにきみもスピードを出し過ぎてたのかもしれないけど、私も一時停止の表札を無視してたし、左右の確認もしなかった私も私だからお互いさまでいいんじゃない?」
「でも怪我をさせ……」
「なら私はきみに全身骨折っていいほどの大怪我を負わせてしまったわけだ。きみの自転車もボロボロにしちゃったし、本来なら私の方から謝らなくちゃいけないことなんだけど君の方から謝らせちゃったね。ごめん」
「いえいえ、そんなこと。俺の方こそすみませんでした」
話し合いの結果、この事故はお互いさまということでこれ以上は追及しないということになった。いくら話を広げていったところで責任転換はできない。どちらにも責任があり、どちらにも落ち度があったのだから、それ以上に心苦しい思いをする必要はないということだった。なんだか彼女に言いくるめられたような気もするが、彼女が言っていることも一理あるので訂正のしようがない。
そのあとは特に変わった来訪者が訪れることもなく、入院初日から暇を持て余していた二人は消灯時間になるまでずっと喋り続けていた。本来ならば加害者と被害者という関係にあるはずなのだが、二人の間に重苦しい空気は一切ない。すでに二人の間には何かしらの友情が芽生えているらしかった。