1.予期せぬ事故
その日、拓海は大いに焦っていた。時刻はすでに八時半、いくら急いで学校に行ったところで始業式には間に合わない。新学期早々に遅刻確定だった。
「ちゃんと起こしてって言ったじゃん!」
「だから何回も起こしたって。拓海が起きて来なかったんでしょ」
「知らない!」
拓海はまだ傷一つついていないおろしたての靴を履き、服のしわを整える。
今までの学校人生で一度も遅刻をしたことがなかったのに、まさか初めての遅刻が高校の入学式になるとは思いもよらなかった。せっかくの高校生活なのに幸先が悪すぎる。
「ほら、さっさと行かないと遅れるよ。もう間に合わないだろうけど」
「そんなことない! 急いだらまだ間に合う」
そういって拓海は家を勢いよく飛び出す。ついさっきまで遅刻は避けられないと思っていたのに、もしかしたらまだ間に合うのではないかと淡い期待を抱いてしまう。
起きてからそう時間もかからずに支度を終えられたということもあるが、一番は母親の美和子にもう間に合わないと決めつけられたことが大きかった。
絶対に無理、もう間に合わないという言葉を聞くとつい歯向かいたくなってしまう。これが属にいう反抗期というものなのだが、拓海にはその自覚が全くなかった。
一方、美和子の方はというと拓海が反抗期に入り始めていることはずっと前からすでに気づいている。
反抗期というものは自分がなりたくてなっているわけではない。成長の過程でならなくてはならないもので、一時的なもの。そう思い、美和子も拓海のちょっとした暴言には目を瞑ることにしていた。
「いってらっしゃい。気を付けて行くんだよ」
「……」
むしろ暴言や無視だけで済むのであればありがたい方である。お隣の前田さんの子供はつい最近まで反抗期が続いていたらしいが、あそこの子供はかなりのやんちゃ坊主だったらしい。
辺りにあるものを片っ端から壊し、家に帰ってくるのも早くて夜中の十時。終いには、髪を金色に染めてピアスまでつけ始めたのである。
前田さんはそんな風になってしまった息子を恐ろしくて止めきれなかったと言っているが、うちの息子がそんなそぶりを見せたことはまだ一度もない。反抗期の子供を持った経験者からしてみれば安心するのはまだ早いと言われるだろうが、うちの息子がそんなことをするようになるとは全く想像がつかなかった。
うちの子だから、そんな風に育てたつもりなんてないからと強い期待を抱き、それが拓海にとっては大きな重みとなっていることは知る由もない。
良かれと思ってやったことでも子供にとってはうっとうしかったりするのである。
「はぁ……はぁ……」
そして、そんな拓海は美和子が心配していた通りのことをやっていた。自転車の全力漕ぎである。
鞄を自転車の籠に無理やり押し込み、全体重をかけてペダルを踏みこむ。進学祝いで買ってもらった新しい自転車は去年までのおんぼろ自転車とは違い、いくら勢いよく漕いでも何一つ嫌な音を出さずにすいすいと進む。
それに加え、自転車を走らせたときに当たる暖かい風が絶妙に心地よい。今年の冬は極端に寒く、暖かくなり始めるのも例年と比べて遅かったので桜が咲き始めたのは四月に入ってから。それもあってか、道の両端に植えられている桜の木はほとんど満開状態だった。
ところどころでは桜が散り始めているみたいだが、桜が咲いている姿も舞い落ちている姿も見られるこの光景は贅沢ものである。
遅刻ギリギリの時間に登校をしているということもあってか、拓海の他に通学路を行く生徒の姿は見えない。せっかくなので家にあるデジタルカメラででも使ってこの光景を写真に収めたかったなと桜をぼんやりと眺めていたその時だ。
「うぉ?!」
突如、拓海の体が宙に放り出された。何かにぶつかったという感覚はあったが、今はそれがなんなのかを考えている暇などない。すでに自転車から放り出されている拓海にできることなどたかが知れているが、せめてものあがきで後頭部を打たないように手で覆う。これなら最悪の事態は防げるだろう。
そんなことをしているうちに地面は刻一刻と近づき、何度かバウンドしてからようやく止まる。原付とさほど変わらないようなスピードで走っていたし、坂道だったといこともあってか必要以上に転がり落ちてしまった。
運よく頭を打ちつけたりはしなかったが、骨は無事というわけにはいきそうもない。転がりながらも拓海の耳には骨の折れる音がしっかりと聞こえていた。
顔をあげてみると、拓海のすぐ近くにぐにゃぐにゃと曲がった新品の自転車が転がっている。買ったばかりで保証期間には入っているだろうが、ここまで悲惨な状態でもしっかりと保証してくれるのだろうか。
だが、拓海が本当に心配しているのは買ったばかりのおんぼろ自転車ではない。その先に倒れている一人の女の子である。
「うぅ……」
どうやらさっきぶつかったのはその女の子だったようだ。
幸いにも、彼女は自転車がと一緒に横転しただけなので拓海のような大怪我はしてはいないだろうが、ずっと痛みで呻いているところを見ると骨が折れているのかもしれない。もう少し角度を変えたらスカートの中が見えてしまいそうではあったが、今はそんなことを気にしている場合ではなかった。
「あの、大丈夫……ですか」
本来ならば彼女が倒れているところまで駆け寄った方がいいのだろうが、立ち上がろうにも足が折れていてはどうすることもできない。仕方がないのでその場で彼女に声をかけることにしたが、今はそれどころではないらしく、ずってうずくまっているだけでこちらを振り向こうともしなかった。
「あの!! 聞こえます!?」
だが、拓海も負けるわけにはいかない。次第に痛みが強くなっているのも手伝ってか、つい怒鳴りつけるように彼女を呼んでしまった。自分で出した声の振動で激痛が走っているあたり、並大抵の怪我ではすみそうにない。
「!?」
流石にその怒鳴り声は彼女の耳にも聞こえたらしく、痛みに顔をゆがめながらもこちらを振り向いてくれた。髪は長く、大人びているようで可愛らしい小さな顔。どうやら同じ高校の生徒だったようで、胸元には緑ヶ丘高校の勲章が刺繍されていた。
「あの、怪我はないです!?」
「……あなたの方が重症に見えるけど!?」
それは自分でも重々承知である。だが、相手方にぶつかったのは明らかに自分の方であり、自分のことよりも相手の体を気にするのが世の中のルールのように思えた。
最も、さっきまで痛みに悶えながら腕を押さえていたので何かしらあるということは分かっているのだが、世の中には分かっていながらも聞かなくてはならない時があるのだ。少なくとも拓海はそう信じている。
「私は腕を怪我しただけよ。別に大したことじゃない」
「……さっきまで痛そうにしていましたが?」
「うるさい! あんなの怪我のうちに入らないわよ。ほら、ちゃんと立つことだってできるし」
そういって彼女は唐突に起き上がり始める。そんな無茶をするぐらいならそこで寝とけばいいのにと思いつつ、拓海は何も言おうとしなかった。いや、言えなかった。
すでに拓海の体には猛烈な痛みが襲っており、口を開くことすらままならない。歯を食いしばっておかないと叫び声をあげてしまいそうだ。
ここで叫んだらさらに傷に響きそうなのでやめておくが、できることならば思いっきり叫んでしまいたいところである。
その結果、痛みを我慢し過ぎた拓海の体はついに限界を達し、彼女が立ち上がったころにはすでに気を失ってしまっていた。