3話
「本当にいいのよね?」
ニケが僕の顔のぞき込むようにして言った。
「宜しくお願いします」
正直、希望より不安の方が大きい。さっきの恐ろしい事が書いてある契約書の事が頭から離れない。こんな小さくて可愛い女の子、自称女神のニケ。白いローブの様なものを身体に纏い、重力の影響のない自由な動きをして、その都度、服の隙間から胸の端の膨らみが、ほのかに見える。本当にこいつに僕を変えるだけの力があるのだろうか?
でも、とにかくやってみる。どうせダメでも、いつもの事だし、失敗したら、その時にまた考えればいいや。
「それじゃあ行くわよ」
ニケが僕の右手を両手で掴み、立ち上がらせた。
「行くってどこに?」
「決まっているでしょ、過去に戻って、試合に勝つ用意をするのよ」
そう言うと僕たちを眩い光が包んだ。
「ほら、ついたわよ」
ほんの2、3秒の出来事だった。僕はゆっくり目を開けた。
さっきまで床に散らばっていた、フィギュアやノートや鞄などが、元の位置に戻っていたが、紛れもなく僕の部屋だ。でも、おかしいお気に入りのフィギュアがない。あれ?よく見たら本棚の漫画もだいぶ減ってるし、家具の配置もおかしい気がする。
「ニケ、何日前に戻ったの?」
「ざっと2年と3ヶ月前ね、あなたが部活に入ってから1ヶ月が過ぎたところよ」
――――なんだそれは!!!
ちょっと長く瞬きをした瞬間に過去に戻ってきている。
「正確にいうと2年3ヶ月前にあなたの魂、いや記憶の一部を移動させたのよ。だから見た目は中一に戻ってるって訳よ。ずいぶん可愛い顔していたのね」
「それじゃあ早速、修行をはじめるけど…私も流石に疲れたわ~」
そう言って机の上に寝そべって、こちらを見ている。
いよいよ始まる。勝利の女神ニケから一体、どんな事を命じられるかドキドキし、唾をゴクリと飲んて言った。
「何からやればいいでしょうか?」
ニケが小さくため息をついていった。
「…私が『疲れた』って言ってるの無視して、自分の話をするのはよくないわね」
「すみません、つい気持ちが早まってしまって…」
「まぁいいわ。そういう所も正す為に、こんな過去に戻ったんだからね。」
「それじゃあ、まず最初の課題よ」
『私を喜ばせなさい』
「これが最初の課題よ、方法はなんでもいいわ」
「喜ばせる? ニケは何をしたら喜ぶの?」
「それを自分で考えるのが課題よ!」
僕にはいきなり難問だ。今まで人を喜ばせようなんて考えた事なかった。しかも神様を喜ばせるって一体、どうすればいいんだ? 検討もつかない。僕が喜ぶものってなんだろう。あぁお金を貰ったら嬉しいな。神社でお賽銭入れたりするし、もしかしらニケもお金を貰ったら、喜ぶかもしれない。でもお金なんて全然もっていないし、てかあげたくない。他の方法で考えよう。僕はそう思い、一階のリビングに降りていった。ソファに母と妹が座って、お笑い番組をみて、ゲラゲラと笑っていた。
「お母さん、神様ってなにしたら喜ぶの?」
「なんの話それ-!」
妹の早紀が食いついてきた。
「喜ぶものねぇ~そうねー、昔から清酒とか鯛とか果物とか、神様にお供えしたりするわよね」
あぁ、お酒か。でも僕の家は誰もお酒を飲まない、家にはない料理酒くらいしかないな。鯛も金銭面的に用意するのは、難しい。それにお母さんが言ったのは、日本の神様に貢ぐ一般的な者だ。ニケと言えばギリシャ神話の神様だ、日本の貢ぎ物でもいいのかな?ある物で何とかすることにした。
「あんた、神様になにお願いすんの?」
「まぁ色々とね~」
適当にあしらって、僕は部屋に戻り、机の上でダラッとしているニケに差し出した。
「なによ、それ?」
「これは『お煎餅』と『日本茶』です」
僕はお煎餅を食べやすい大きさに砕き、日本茶は妹の部屋にあったドールハウスの小物のカップに淹れて渡した。
「ふーん、これがねぇ」
ニケがお煎餅を口に運び、お茶の飲んだ。
僕はニケが怒り出すんじゃないかとハラハラしながら見ていた。
「……おいちぃ」
ニケは僕の顔とお煎餅を交互に見た後、お煎餅とお茶を素早く往復して、食べ飲みした。
「なにこれ! 凄い美味しいわ! 最高の組み合せ!」
瞬く間に、食べ終えて一息をついて、こう言った。
「あなた、なかなかやるわね」
僕としては、ただリビングにあった物を適当に持ってきただけだったが、こんなに喜んでもらえると、僕も嬉しい気持ちになった。
「今まで食べてきた物の中で、こんな心揺さぶられたのは、初めてよ」
「ありがとうございます」
僕は軽くお辞儀をした。
「あともう一つ、ニケに喜んで貰おうと思って考えた事があって…」
僕には少し言い難い事だった。
「あら、ほかにも何かあるのね!」
キラキラした期待の眼差しでこちらを見ている。
「そのニケが嫌じゃなかったら、お風呂用意するけど、どうかな? ほらっ! さっき疲れたって言ってたし、日本じゃ疲れを取るのに、湯船で身体を温めるのが、良いとされているんだけど」
「じゃあ是非、お願いするわ!」
意外とあっさりと賛成された。てっきり『変態』と罵倒されるのではないかと、内心ヒヤヒヤしていただけに、ホッとした。その後は、例によって妹の部屋から、おもちゃのバスタブをお借りし、お湯とタオルなどを机の上にあっという間に用意してみせた。もちろん覗く訳ではないので、バスタブの周りをノートで壁を簡易的に用意した。
僕はベットに正座をし、机の反対方向を見ながら、喋った。
「お湯加減はいかかでしょうか?」
「あぁ~もう、最高よ~! 生き返る~!」
「それに何だか良い匂いがするわね」
「えぇ、ラベンダーのアロマを入れてみたんです。疲れが少しでも取れれば、いいかなって思って」
「それは驚いたわ。あなた人を喜ばせ天才よー」
「ありがとうございます」
僕は照れくさかった。今まで、人を喜ばせようなんて、あまり思ったことがなかったが、実際やってみると、どうやっていいか、わからなくて悩んだ。でもこうして喜んで、もらえる凄く嬉しくて幸せな気持ちになっていた。
「この調子でいけば、やり手でモテモテの人生もそう遠くないわね」
「いやいや、それは流石に無理ですよ~」
「あら、気がついてないの?だったら、教えてあげるわ」
「人はね、――相手を喜ばせる事ができたら、恋愛も仕事も上手くいくのよ」
「いや、そんな簡単に言いますけど、喜ばせるって一体どうやったらいいんですか?」
「なに言ってるのよ、今もしてくれたじゃない」
「お風呂ですか?」
「そうよ。もちろん方法はなんでもいいの。ただ相手の事を考えて、喜びと思う事をしてあげたらいいのよ。例えば彼女ができて誕生日プレゼントを贈る時に、彼女が何気ない一言から、察してプレゼントをしてあげたり、なんてのもいいわね」
「なんだか、そういうのってイケメンしかできないイメージです…」
「バカねぇ、そういうのをサラッとできるのが、イケメンなのよ。それにイケメンや”私みたいな美女”はそれだけで、周りから、ちやほやされて、色んな人から喜ばされてきたの。だから、人を喜ばせる方法もわかるのよ。イケメンは中身もイケメンっていうのは、もはや自然と身につくものなのよ」
なるほど。人を喜ばせるというのは、自分がしてもらって嬉しかった事を人にしてあげるのも、いいのか。
「それに相手を喜ばせるっていうのは相手が何を求めているのか想像する力がとても必要なの」
「これは一朝一夕で身につくものじゃなくて、日々の努力が物を言うわ。だから、貴方の当面の課題として、これから学校生活で常に人を喜ばせる方法を考えなさい。」
「…わかりました」
これはまた難しい。ニケの場合はヒントがあったから、できたけど、普段はこうはいくまい。いや、もしかしたら、普段から人を喜ばせるヒントはあったのかもしれない。
「あー、あと言われた事は直ぐにメモしなさい。どうせ直ぐに忘れるんだから。」
僕はハッとして、忘れる前にメモを取らなくてはと思い、慌てて振り返って、ノートとシャーペンを手にとり書き綴った。
その瞬間、悲鳴と共に僕の頭に、ノートやら、バスタブが飛んできて、僕はビショ濡れになった。
何事かと思い、顔を上げると、僕がとったノートのせいで、お風呂の囲いが取れて怒っているニケが、左手に持ったタオルで身体を隠しながら、怒りに震えていた。
――――あぁ、僕に人を喜ばせる事なんて、できるのだろか。
ニケの課題
≪相手を喜ばせる≫
学校や会社、お家でも、町中でも。相手を観察して、想像する事で、相手が何を求めているのかを読み取る力を養うトレーニングです。一朝一夕でできる事ではありませんが、継続して行うが大事です。
ニケからの課題、実践して下さいね