第6話「脱出」
俺と少女はこの濃霧の街から脱出するために走っていた。
敵が追ってくる。少女の手を握って走るなんて夢のようなシチュエーションは、俺の士気を高めていた。たぶんだが、俺の鼻の下は伸びっている。もちかしたら死ぬかもしれないというのに、俺は危機感をまったく感じていなかった。家に帰ったら『童貞同盟』のみんなにこの事実を報告してやろう。きっとうらやましがるだろう。もしかしたら信じてくれないかもしれない。それでもいい。俺だけが知る夢みたいな事実でかっこいいからな。
「ちょっ、ちょっと!」
「どうしたの?」
少女が静止をかけ、俺は急ブレーキをかける。
「す、少し、休ませて」
「あ、ご、ごめん」
そんなに走っていたのか。そういえば、俺は全然息をきらしていなかった。俺はそこいらのオタクと違って体力に自信はあるが、駅伝の経験がない。こんなに走ったことは初めてだ。来るときは屋根を飛んできたため、距離感がなかった。この場所に来て、パワーだけでなく、スタミナもアップしているというのか。
「ここじゃ見つかっちまう。あの建物の陰に隠れよう」
俺と少女は建物の間に身を潜めた。
「大丈夫?」
「え、ええ。でも、昨日から飲まず食わずで……」
「それならポテト(コンソメ味)があるよ」
俺はリュックからポテトとスポーツドリンクを取り出し、彼女に渡した。
「あ、ありがとう」
息を切らしているようで、うまく声が出ていない。
「……」
しかし少女はポテトを眺めるだけで食べようとしない。
「あ、そうか。開けれないんだ」
「ごめんなさい。初めて見る食べ物だから」
少女は顔を赤らめて言った。
「確かに俺も、小さい頃はハサミでしか開けれなかったんだよな。はい」
俺はポテトの袋を開け、続けてスポーツドリンクのふたも開けた。
「……いただきます」
少女はまずポテトを一枚取り出し、全体の形状を眺めてから香りを嗅いだ。そしてゆっくりと口の中に含んだ。半分ほど口に含んだところでパキッと音をたて、ポテトは二つに割れた。
「……」
微かに少女の口からパリパリという音が聞こえる。
「どう?」
俺はべつにポテトの開発者ではないが、この緊張感はまるで、尊敬する大物シェフに自分の料理を食べてもらっているかのような感覚だ。しかしシェフならそのとき「どう?」なんて聞かず、シェフが食べているのを黙って見ているだろう。
「……美味しい。こんな美味しいモノ、初めて食べたわ」
星三つです。
「ホント?!」
俺は嬉しくなった。
「こっちの飲み物は何なのかしら?」
少女はスポーツドリンクに手を伸ばした。
「不思議な色ね」
半透明な液体に興味を持っている。
「……」
そしてペットボトルを両手で掴み、ゆっくりと飲み口を口元に近づけた。
ゴクゴクと少女の喉が鳴っているのがはっきりと分かった。
「おいしい?」
俺はポテトの時と聞き方を変えた。
「おいしいわ! ほんのり甘さがあってとても軽い飲み物ね!」
やった、喜んだぞ。ふふふ、どうやら俺は頼れる男だったようだ。
「見つけたぞ」
見つかった。振り向かなくてもわかる。俺の後ろには数体のリザードマンがいる。なんとなく気配がするのだ。
「もう逃げられん。大人しくしろ」
「散々手間かけさせやがってこのガキどもが」
何かいろいろ言っているが、こんなところで捕まるわけにはいかない。
「今な……俺はすげぇ幸せだったんだ。こんな美少女と一緒にポテチ食って、笑い合って、俺の17年の人生でこれほど楽しい、幸せに感じた時間はなかった。だが、それを壊そうとする奴らがいる」
「あ?」
突然始めた俺のポエム的な何かに、リザードマンたちは首をかしげた。
「それは、人間を奴隷にし、か弱い少女を虐める、トカゲだがワニだが分からんキモイ面をした半漁人……リザードマンってヤツだぜ」
俺は徐々に声のトーンが低くした。意識してじゃない、無意識でそうなっているのだ。
「うっ……」
ここでリザードマンたちは一歩後ろに下がった。
「許さねぇ……俺の幸せを壊そうとする奴は、たとえ相手が半漁人だろうと、ぜってぇ許さねぇ!!」
ここで俺は振り向いた。
「さぁ……誰からミンチになりたい?」
今の俺に遠慮なんて考えはなかった。ただ片っ端から俺の幸せな時間を壊したリザードマンたちに罰を受けてもらおうとしていた。相手の数は正確には把握していない。それが例え10体だろうが20体だろうが、100体だろうが、今の俺は負ける気がしない。
「守りたいものがある!! 倒すべき相手がいる!!」
ちょっと自分でも「キザかな」と思えるようなセリフを吐きながら、リザードマンを片っ端から殴り倒していった。
「か、勘弁してくれ! 俺たちは命令されてやってるだけなんだ! 俺らの意思じゃねぇんだよ!」
「お前の都合など知った事か。人間の世界では連帯責任でみんなが罰を受ける。悪い頭でよーく覚えとくんだな」
そして最後の一体をやっつけた。だが俺の怒りは収まらない。いつかまたここに戻るようなことがあれば、そのときはすべての奴隷を解放し、お前らを一体残らず駆逐してやろう。そう、心に誓った。
「さ、これでゆっくり食事にありつけ……あ」
俺は少女に歩み寄る足を止めた。
「ごめんなさい。あなたが戦っているうちに、全部食べちゃったわ。あまりに美味しかったから」
「そうか。まぁいいよ。俺にはまだスティック菓子があるから」
そう言って俺はリュックからスティアック菓子を開け、三本ずつ手に取り、急いで頬張る。
「うっ……!」
のどに詰まらせた。
「あっ、大丈夫!?」
徐々に青ざめていく俺の顔を見て、少女がスポーツドリンクを差し出してくれた。
「ぁ、ぁりがとぅ……」
ほとんど声が出せない状態だが、一応お礼は言う。それが礼儀ってものだからな。
「……ん?」
ちょっと待て。よく考えたら飲み物はスポーツドリンクは一つしかない。しかも半分ほど減っている。これは少女が飲んだ後。つまり……。
「関節KISS」
俺の顔は真っ赤になった。
「だ、大丈夫?」
そんな俺をよそに、少女は俺の喉の心配しかしていない様子だ。そうじゃないんだよ。君はさっき会ったばかりの男と関節キスをしているんだよ。状況を理解しようよ。
「あ、ありがとう」
俺は必死に平然を装った。
そして急いで残りのスティック菓子を平らげ、スポーツドリンクを空にすると、再び走り出した。
「ここだな」
俺が最初に来たであろう壁の辺りまでやってきた。
「でもどうするの? 門にはリザードマンたちが待ち構えているだろうし、こんな高い壁、登れるかしら?」
「上るんじゃなくて、飛び越えるんだよ」
「えっ?」
少女は驚いた様子で俺を見た。
「私、こんな高い壁飛び越えられないわよ」
「大丈夫。俺が君を抱えて飛び越えるから」
「そうは行かねぇぜ」
む、またか。
「懲りねぇなお前らも」
再び20体程度のリザードマンが俺たちの前に現れた。どうしてこうも大人数で行動するのかなこいつらは。
「まずいわ。こんな数に囲まれちゃ、飛び越えるなんて……」
「大丈夫、一切戦わずに逃げれる方法があるから」
「まさか、壁を壊すんじゃ……」
そんな野蛮な事はしない。どこぞのヤンキー教師や、囚人じゃあるまいし。
「こうするのさ。やーい! お前のかーちゃんでーべそ!」
古い方法だが、まずはこれで相手を怒らせる。
「なっ、何だこいつは?」
「嘗めやがって……やっちまえ!」
ここまでは予想通り。怒ったリザードマンたちは俺たちに向かって来る。
「さっ、俺に捕まって!」
俺は少女を引き寄せ、世間で言うところのお姫様だっこというやつをした。
「あ……」
俺の吐息が漏れた。少女の香りが俺の鼻をくすぐる。おそらく数日風呂に入っていないと思われるが、それでも少女から汗臭い臭いだなど一切せず、男を引き寄せるような甘いフェロモンの香りがする。
「死ね小僧!!」
毎回おんなじセリフだな。そしてリザードマンの一人が剣を振り下ろす、という攻撃も同じだ。同じ訓練をみんなで受けてるんだな。
「ばーか」
俺はそれをジャンプで避ける。
「なっ!?」
驚いているリザードマンをよそに、俺は彼の背中を少し借りる。
「よっと!」
リザードマンの背中に着地し、再び高く飛び上がる。
「とっ、飛んだ?!」
「なんてジャンプ力だ!」
ふふ、驚いているな。おそらくあいつらにこれだけの脚力はない。図体がデカいし、体重が高くジャンプさせないのだろう。
「あばよ!」
そして俺はそのまま壁の向こうへ着地した。