り
「……き……しき……」
暗闇の中で、私の名を呼ぶ声がする。
「……ねが、めを……て……!」
祈るような声。「目を覚まして」──私は眠っているの?
そう、と記憶をさぐる。そうだ、私は学校の階段から落ちた。いちに追われて突き落とされた少女を庇って。
いち!
がばっ
「枝祈!!」
勢いよく起き上がると、全身に鋭い痛みが走り、う、と呻く。
「大丈夫? 安静にしてた方がいいって、お医者さんが言ってたよ」
そう言いながら、私の背中にそっと手を添えてくれたのは、七瀬だった。
「ありがとう、七瀬」
「いいよいいよ。枝祈が無事でよかった。で」
白いベッドの脇にあった丸椅子に座り、七瀬は続けた。
「まずは、枝祈が倒れてから、んと、階段から落ちてからのことを話すね」
「あの子っ──いえ、いいわ。お願い」
自分の聞きたいことを口走りそうになったが、七瀬の静かな瞳を見、落ち着こうと頭を振った。先を促す。
「まず、ここは病院。あの学校の先生が警察やら救急車やらを手配した後、戻ってこない枝祈を心配して、探してくれたんだ。階下で倒れているのを見つけて、呼んだ救急車に乗せてもらったって。枝祈はまる一日半くらい、眠ってた。頭を打って、出血してたから焦ったけど、大事はないって。ただ、全身打撲だから、あまり急に動かないでね」
「善処するわ」
私の返答に七瀬は苦笑を浮かべる。
「ええと、動かないでと言った手前、ここからはあまり話したくないけど、あの事件のこと、話すね」
七瀬の表情から察するに、あまり、良くない方向に動いたのだろう。
それでも、私は知りたい。いや、私は知らなくてはならない。
いつもいちは事件の前に私に電話をかけてきたのだから。
「お願い」
私は七瀬を真っ直ぐ見据え、頼んだ。
七瀬も一つ頷き、語った。
「キミが庇ったあの子は急性心不全で亡くなったよ」
「え……」
そんな、庇った意味が、なかったの?
「いや、枝祈? 自分を責めちゃ駄目だよ? キミが庇ったおかげであの子は怪我一つなかったんだ。急性心不全って意味わかる? 原因不明の死因をそう呼んだりするんだ。枝祈のせいじゃない」
「そう、なのね。──って、原因不明なの?」
「うん」
頷きながら、七瀬はベッド脇のテーブルに置かれたリュックサックから、A4のクリアファイルを取り出した。
「これ、今までの現状をざっくりまとめた資料ね。まず一枚目」
差し出されたファイルを受け取り、中の冊子を一枚めくる。
そこには最初の現場で見た少女の写真があった。
「細川 伊織さん。十六歳、高校生。枝祈が最初に見つけた子だよ」
「ええ。覚えているわ」
ここにある顔写真はにこりとしとやかな微笑みを浮かべたものだが、あの現場の苦悶に満ちた最期の表情を忘れることはできない。
「彼女の死因は左手首からの大量出血による失血死。ただ……服で見えないところに、多数の打撲痕が見つかった」
「そんな、まさか」
「残念ながら、そのまさか。──伊織さんは、いじめに遭っていた」
裏も取れているよ、と呆然とする私の脇から七瀬はぱらりとページをめくる。見開きの左側には四人の女子生徒の写真。その中には私が庇ったあの子の姿もあった。
「主犯は右上の坂垣さん。伊織さんのクラスメイトで、トイレで殺されていたのはこの子だよ。坂垣さんは悪い意味でクラスでの発言力が強かった。あと、彼女は手癖の悪い問題児だったらしい。他三人はその取り巻きね。枝祈が助けようとしたのは左下の前園さん。気弱で坂垣さんに逆らうのが怖いから一緒にいた感じかな」
確かに、あそこで逃げ出したのは前園さんだけだ。
「前園さんは伊織さんと幼なじみで、竹を割ったような性格で坂垣さんとは逆のベクトルで発言力が強かったから、一緒にいたんだろうけど……高校で、坂垣さんに会って、結果的に坂垣さん側に加担することになってしまった」
その後ろめたさが、あの子に逃げるという手段を取らせたのだろう。
「前園さんの話はここまで。次は、坂垣さんと伊織さんの関係。さっきも言ったとおり、坂垣さんは手癖が悪くて……変に濁す必要はないか。よく万引きしてたんだ」
「もしかして」
話の流れがわかってきた。
「うん。伊織さんはその現場を見て、その場で問い詰めようとしたんだ」
竹を割ったような性格──曲がったことが大嫌いな伊織さんがそんな非行を見逃せるわけがない。それは容易に想像がついた。
けれど、それがいじめに発展する理由がわからない。
「その日、坂垣さんは犯行をやめざるを得なかった。しかし、自分がやろうとしたことに水を射されたのが気に食わなかった彼女は、幼なじみの前園さんを仲間に引き込み、前園さんを人質に、伊織さんを痛めつけた。復讐だってさ」
「逆恨みじゃない」
そうだよね、と七瀬ほんのり苦く笑った。
「いじめの件はね、残った取り巻き二人が伊織さんが自殺したことと、前園さんが亡くなったことを伝えたら、自白したんだ。坂垣さんが惨殺されたのも目の当たりにしたからねぇ。自分が狙われるかもって、怖くなったんだろうね。復讐が怖いなら、いじめなんてしなきゃいいのに」
「全くね」
いじめグループの隣のページには七瀬が語ったことがあらかた書いてあった。
「いじめは今じゃ社会問題だから、その辺りは教育委員会やら児童相談所やらが受けてくれるって。で、次のページ」
ぴらりと開くと見覚えのある場所──交番前の新田さんが惨殺されていた現場だ。
「新田さんの現場検証も行われた。枝祈も見たからわかるだろうけど、死因はあの首の傷をつけられたことによる失血死とショック死。凶器は不明。現場が交番の目の前だったから、捜査のため交番は一時閉鎖。臨時交番が設置されたから、ボクたちはしばらくそっち勤めになる」
さらっと目を通したが、私にとって目新しい情報はない。
次のページへ進むと、"今後の捜査項目"として、いくつもの箇条書きがあった。
「え、伊織さんのご両親とまだ連絡が取れてないの!?」
捜査項目の第一部分に私は思わず声を上げた。
「うん。お姉さんもね。連絡先に電話しても繋がらない。だから、伊織さんのことに関してはほとんど捜査が進んでないんだ。ただね」
私は見終わっていないのだが、七瀬はぺらりとページをめくってしまう。
諫めようとして、止まった。
「これって」
紅色と金色で彩られた豪奢な着物、桜色の花緒がついた黒い草履。黒い絹糸のような髪に透明な黒玉の瞳。紙より白い肌の市松人形は見紛いようがない。
それは、いちだった。




