ろ
もう一度、同じ番号にかけてみる。
コール音が長く感じた。
「お願い、もう一度……!」
私の受話器を握る手の力は自然と強まる。
先程の少女、いや、言葉のたどたどしさから察するに、まだ就学年齢にすら達していないのかもしれない女の子の一言に、私はどうしようもない不安を覚えていた。
「あの子は死んでしまった」
「あの人たちのせいだから、行く」
それが示すのはおそらく殺人と復讐。
年端もいかない女の子に何かできるとは思えないけれど、人を殺めようとしているのなら、止めたい。心の傷になる前に。
お願い、出て!
その祈りが通じたのか、コール音が止む。
「駄目よ、早まらないで!!」
相手が喋りだすより先に声を上げた。
しかし。
「伊織です。ごめんなさい、今、電話に出られません。またお電話ください」
流れてきたのは録音であろう留守電メッセージ。その後にはツーツーツー、という電話の切れた音。
私は呆然とした。
今の留守電の少女の声は、先程の電話の声とは全く違う。私はかけ間違えたのだろうか。
「安塔、こっちは調べがついた。電話はどうなった?」
「新田さん、番号のメモ、見せてください」
「は?」
戻ってくるなりわけのわからない要求をされ、きょとんとしながらも、新田さんは先程のメモを見せてくれた。……私の取ったメモと同じだ。
「ありがとうございます」
腑に落ちないまま、メモを返す。
「で、電話は?」
「切れました。でも、誰かが死んで、誰かのせいだって電話の女の子が呟いて……今どこに? と聞いたら、"死体の前"と答えて、切られました」
「リダイヤルは!?」
「しました。でも、伊織って女の子の携帯電話に。留守電で本人が出たわけじゃありませんが」
「伊織!?」
新田さんが驚愕する。伊織というのはそんなに驚きを誘う名前だったのだろうか。
「GPSはキャッチできたんだが、ここの近くで、俺も知ってる家かもな、と思ってきたんだ。そうか、伊織ちゃん……急ぐぞ、安塔!」
「え、はい!」
勢いのままに飛び出していく新田さんについていきかけて、交番が空になってしまう、と思い至る。
慌てて入り口に鍵をかけ、"巡回中"のプレートを提げる。窓は開いていなかったはずだ。今、優先すべきは電話の件。
私は先を行く新田さんの背中を追った。
「車とかじゃなくていいんですか?」
「ああ、伊織ちゃん家はすぐそこだ」
新田さんの指す先、百メートルも距離がないところに、木造の一軒家が建っていた。
「その伊織ちゃんって、誰ですか?」
「気づかねえか? 俺ん家のお向かいさんだよ」
「あっ」
言われて気づいた。向かい側には新田さんの住むアパートがある。
「細川 伊織ちゃん。お向かいの娘さんで高校一年生だよ」
歩くうちに門の前に着く。庭に入り、玄関前まで進もうとしたとき、足元を何かが通っていくのを感じた。
振り向くが、何もいない。気のせいかしら? 猫?
「細川さん、いますかー? 新田ですー」
新田さんがインターホンを鳴らし始めたので、そちらに向き直る。
「……誰も出ないぞ」
私は扉にそっと耳をつける。
「物音も、しませんね」
駄目元でドアノブを捻ってみる。
キィ
「あれ」
「開いたな」
新田さんと顔を見合わせる。
「失礼します……」
少し躊躇いつつ、ドアを開けると、入り口にはローファーが一足揃えてあり──
「なんでしょう? これ」
小さな足跡が点々とついていた。
「ネズミ? にしては大きいですよね」
「わかんねぇぞ。でっかいネズミの主がいたりなんかして」
「やめてくださいよ。軽口叩いてる場合じゃないでしょ、う……」
言っているうちに気づいてしまった。足跡の正体に、ではないけれど、慄然とする。
「どうした? 安塔」
「新田さん、この足跡……血、じゃ、ありません?」
新田さんが蒼白になる。
足跡は黒っぽく見えるが、少し擦れた跡には紅色が混じっている。
「安塔、中のどの部屋に続いてるか見てくれ。俺はこの外に続いてる方を追う」
「わかりました」
私は靴を脱いで、小さな足跡を追う。新田さんは元来た道を辿るように出て行った。
足跡は二階に続いている。みし、みし、と足をつける度に軋む階段に込み上げてくる不安を抑えながら、上を目指す。
「誰か、いますか?」
上りきったところで人がいないか確認するが、返事はない。ただ、一階では感じなかったある臭いが鼻についた。
錆びた鉄の臭い。
足跡を辿り、進んでいくほど、その臭いは強くなっていく。
嫌な予感がする。
足跡は、ある戸の前で止まった。細く開いているその隙間から、恐る恐る中を覗き込む。
「あ──」
そこには紅い水溜まりと、その中に倒れる少女。
「だ、大丈夫ですか!?」
私は咄嗟にそう叫んで、駆け寄った。少女を抱き起こそうとして、その手に握られた鈍色に気づく。工作用のカッターナイフだ。
カッターを握るのと逆の手は、目を凝らさずともわかるほど、切り刻まれていた。
改めて手に触れる。……冷たい。脈を取る。……駄目だ。もう──
助けられなかった若い命の前に力なくへたり込む。
まず、新田さんに連絡して、応援を呼ぼう。
ぼーっとしそうな頭を振ってやるべきことを整理する。ウエストポーチにしまってある携帯電話を取り出し、開いた瞬間。
プルルルルル
電話の、コール音。
驚いて自分の携帯電話を見るが、違う。
じゃあ、誰の?
見回すと血溜まりの中にちかちかと光るもの。
この少女の──伊織さんの携帯電話だった。