二日目 夜釣り
久しぶりに、釣りします。
今日は、海が凪いでいる。日は沈み、波止場に灯りが灯された。
釣りのためだけに灯されている港の灯りって、何て贅沢なのだろう。
私は、ドキドキしながら波止へと向かう。
いつもは、かなりいい加減な父親のくせに、夜釣りに行くのだけはなかなか許してもらえない私であるが、なんといっても、無人島だし、みんなと一緒だから、今日は思いっきり釣りが出来る。
本日は、『アナゴ』狙いである。
アナゴは、真夏の夜釣りの定番だ。五月はシーズン初めである。
もちろん、高級魚で、美味しい。
ただし、かなり獰猛で、しかも、ぬめる。長い身体つきが蛇を思わせるから、男女ともに苦手という人間は多い。
実は、ナギや保さんも『長物ダメ』派で、私が『アナゴ』を狙う! と宣言したら、すごく嫌そうな顔をした。
糸田は「てんぷら、うまいよな」だ、そうな。
「ハルちゃん、アナゴ、あれは良いけど、釣るとぬめるから、気をつけなよ」
そんなアドバイスをくれた会長自身は、投げ釣りで、スズキ狙いだそうで、潮通しの良い場所で釣るらしい。
ナギや保さんはメバル狙い。由紀子ちゃんも同じである。
永沢は、会長と一緒にスズキを狙いたいそうだ。黒木さんも、スズキ狙い。副会長の塩野のオジサマも当然、スズキだ。
ヨウさんと糸田と私がアナゴ狙い。実は、私にアナゴ釣りの魅力を教えてくれたのがヨウさんなのである。
私は穏やかな場所を陣取る。
「夜釣りは、ゴンズイと、エイには気をつけてね」
ヨウさんが優しく注意してくれた。
ゴンズイというのは、夜釣りに良く釣れる魚であるが、背びれに毒がある。
私は経験ないが、これにうっかりさわったりしたら、病院行きだ。激痛で、しかも腫れるのだ。
背びれを切れば、食べられる魚ではあるが、うっかりさわると、しゃれにならない。
釣ったら、とにかく、針を外してリリースすべきなのだ。針を飲み込まれたら、無理をせずに、ハリスを切る。間違っても、陸地に放置などしてはいけない。
エイも、しっぽに毒があったりして、非常に危険である。
夜釣りは特に、ヒットしやすいので、上げる前に必ず気をつけないといけない。
ここは無人島だから、万が一のことがあっても、病院は海の向こうである。
釣りには細心の注意が必要だ。
「アナゴはもうちょっと暑くなっていてからのほうが、よく釣れるけどね」
ヨウさんは、仕掛けを落とす。
「でも、今日は、海が穏やかですし……アナゴが来そうな予感はしますよね?」
糸田は嬉しそうだ。
餌はイソメ。
夜釣りなので、ケミホタルという、発光するライトを仕掛けにつけてある。
竿の先にも、穂先ライトというライトをつけておく。一応、灯りの下で釣っているけれど、竿先のしなりがライトをつけておくとよくわかるのだ。
「でも、ヨウさん、スズキじゃなくて、よかったですか?」
私は、つい、そう聞いた。オジサマたちはこぞって、スズキ狙いなのだ。
「んー。スズキも、もちろんいいけどねえ。やっぱり、アナゴが大好きなんだな」
くすり、と、ヨウさんは笑う。
「釣れたら、刺身だね。もう、これは釣り師しか味わえない」
もちろん、かば焼きや天ぷらもいいけどねえ、とヨウさんはいいながら、海面を見つめている。
私達も、仕掛けを落とすと、のんびりとケミホタルを見つめた。暗闇で、黄緑色がわずかに揺れる。
海は穏やかだ。アナゴは、穏やかな日によく釣れる。今日は釣れる――そんな予感がした。
無人島だから、港とはいえ、むやみにサイレンが鳴ったり、船の出入りがあるわけでもない。本当に、わずかなさざ波の音だけ。しんと静まり返った夜の闇の向こうで、由紀子ちゃんの興奮した声が聞こえた。
「初ヒットかな?」
私は、くすりと笑う。
由紀子ちゃんの声は、高くて良く響く。何を言っているのかはわからないが、ナギや保さんの声も聞こえた。
「新しい子たち、元気でいいねえ」
ヨウさんがにっこり笑った。
「オジサンばっかりで釣っていると、あんな可愛い声は聞こえてこないから」
「由紀子ちゃんは、また、特別に可愛いですもんね」
私も頷く。由紀子ちゃんは、顔も声ももちろん可愛いが、なんといってもキャラがいわゆる『妹キャラ』で、人懐っこい。
「男の子のほうは、相当、研究熱心だね。今朝、見たけど初心者に思えなかったよ」
「剛は、めちゃ、凝り性だから」
糸田が、嬉しそうに答える。釣りに関していえば、永沢は糸田の教え子ポジションだ。
「今回に備えて、ずいぶん、本も読んだらしいです」
「そういえば、うちでもずいぶん、お父さんと話をしていたわ」
私は竿先にコツンといった感触を感じた。
「ン?」
竿先を静かにあげてみる。
ギュッと竿に重みを感じた。
「来たっ!」
私は、竿を立てた。ぐっと、重みが伝わってくる。
リールを巻き上げると、細長くうねる魚影が見えた。
「アナゴだっ!」
私は思わず叫ぶ。
ぐっと糸をよせ、引き寄せる。
「ハルちゃん、気をつけて」
ヨウさんが、私のクーラーボックスの上にあったタオルを投げてよこした。
用心深く引き寄せながら、アナゴの身体をタオルで掴む。ヌルリとすべる。
「遥、アゴ、噛まれるな」
アナゴはグネグネ必死に体をひねる。
「ハルちゃん、無理なら、ハリスを切って」
ヨウさんが心配そうに口をはさむ。
「こなクソっ」
私は、タオルごしに、ギュッとアナゴをつかみ、ペンチで針を抜いた。
「でやっ」
私は、ビニール袋をいれてあるクーラーボックスにアナゴを入れた。
「うわぁ、ぬめっている」
つかんだタオルにぬめりがうつっている。
「あ、俺も来たっ!」
糸田が竿を上げて、アナゴをつかむ。
「よっ」
私の半分の時間で、苦も無く針を抜いた。
「うわ、早っ。どうして、そんなに早くできるの?」
ぬめったアナゴはタオル越しでもかなりすべった。
「握力の差」
平然と、糸田が言い放つ。そういえば、魚のぬめりに対抗するには、とにかく『力押し』という説もある。
体育会系、男子の握力は、ダテじゃない。
「なんか、悔しいなあ」
ヨウさんがくすりと笑った。
「ハルちゃん、アナゴの釣れる時間は集中するから。悔しがるのは後ね」
「はい。そうだった!」
私は慌てて、仕掛けを海へと落とした。
夜が更けた。
アナゴの釣果はなかなかで、私達はご機嫌で竿を垂れていた。
「ダメだ!」
保さんの声が闇の向こうからはっきりと聞こえる。
「ええっ!」
明らかにパニックに陥った由紀子ちゃんの声。
なんだかよくわからないけど、何かおこったらしい。
私はヨウさんと糸田の顔を見合わせた。
「見てくる!」
私は竿を上げ、保さんたちがいる釣り場の方へ走り出した。
由紀子ちゃんたちは、私たちの釣り場から死角になっているけれど、それほど遠い場所で釣っているわけじゃない。
闇の向こうに灯りが見えてくると、保さんが由紀子ちゃんから竿を受け取っているのが見えた。
「き、気をつけてください」
由紀子ちゃんの声が震えている。
「あ、ゴンズイか」
いつの間にか隣に来ていた糸田が指摘する。
「由紀子ちゃん、少し、離れて」
保さんが冷静に、糸を手繰る。
しましまで、ナマズみたいな姿が、のたうっていた。
保さんは慎重に魚ばさみでゴンズイを捕まえると、背びれに触れぬように針を外し、海にリリースした。
「もう大丈夫だよ」
ニッコリと保さんが笑いかけ、由紀子ちゃんはホッとしたように膝をついた。
「おい、由紀子、どうした?」
妹の悲鳴のような声に慌てて走ってきたのだろう。永沢が、私たちの反対側から現れた。永沢たちは、かなり離れた位置で釣っていたから、息が少し荒い。
「ゴンズイよ。保さんがうまく処理してくれたから、大丈夫」
永沢は、ふうっと息をつき、頭を下げた。
「保さん、ありがとうございます」
「いいよ。上げる前に気が付いてよかった」
保さんは笑って、由紀子ちゃんに竿を返した。
「ゴンズイは、結構あがるンだよね。こればっかりは、仕方ない」
「夜釣りは、暗いから、特にやっかいよね」
私の言葉に、由紀子ちゃんがこっくりと頷いた。
「あれ? 塩野さんは?」
永沢が不思議そうに辺りを見回した。
「あ、ナギは、ちょっと前にトイレに行ったぞ? そういや、ちょっと帰りが遅いな」
保さんが首を傾げた。
トイレは、この港にはなくて、家に戻るか、島の真ん中の仮設トイレしかない。戻ってくるにはかなり時間がかかっても不思議はない。
「あ、じゃあ、私もトイレに行ってくるわ」
由紀子ちゃんも「私も」といった。
「俺も一緒に行く」
糸田がナイト役を買って出てくれる。
無人島だから、夜道でどうにかなるってことはよほどないけれど、暗闇の中歩くのは心細い。
「悪いな、亮」
「剛、ヨウさんに、ちょっとトイレに行ってくるって伝えてくれないか?」
「ああ」
永沢が頷く。
「そうだね、ヨウさんも、心配しているだろうし」
ヨウさんも、由紀子ちゃんの悲鳴のことが、きっと気になっているだろう。
私たちは、永沢と保さんに後のことを任せて、屋敷へと向かった。仮設トイレより、家のトイレの方が距離的には近いからだ。
しかし、一本道であるはずのその道で、私達はナギに出会うこともなく、家についた。
家の電気はついていたものの、人の気配はない。
家に残っていたはずの、梓さんの姿もない。
「仮設トイレの方に行ったのかな?」
私は首をひねった。
「でも、仮設トイレに行く道は、暗くて、とっても怖いですよぉ」
そうなのだ。トイレ自体に灯りはあるけど、そこへ行くまでの道は、街灯があるわけじゃない。
いくら懐中電灯持参とはいえ、怖いと思う。
「一度、みんなのところへ戻ろう。仮設の方に行ったのであれば、もう戻っているはずだ」
糸田の言葉に頷いて。私達は、港へ戻った。
けれども。
ナギの姿はどこにもなかった。




