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プロローグ

 車窓から青い海原と、係留されたたくさんの小さな漁船が見えてくると、私のテンションはマックスになった。私は車が停車するのを待って、シートベルトを外すと同時にドアから飛び出した。

 私は大磯遥(おおいそはるか)。この春、高校三年生になった。

 趣味は、釣り。物心ついたら竿を持っていたそうで、自称、釣り歴十五年。今日から所属している釣りクラブのみんなで、二泊三日で「双瘤島」という無人島へ行くのだ。受験生が何やっているのだ、というツッコミはあるけど。

 ゴールデンウィークの前半は進学塾の合宿も参加したので、許してほしい。それより、今回はありとあらゆる海釣りができると聞いて、胸がドキドキしている。

 鼻腔をくすぐる湿った潮の香り。五月の眩しい日差し。

「遥!こっちだよ!」

 その声の方に目をやると、埠頭の先に海上タクシーみたいな高速船が係留してあった。その船の前で、親友の塩野凪(しおのなぎ)がピョンピョン跳ねている。ナギは同じ高校の同級生だけど、お互い仲良くなったのは、一年生の夏に私がこの釣りクラブに入ってからだ。

 彼女は文字通りの育ちの良いお嬢様なので、私のようなガサツな人間はなかなかとっつきにくい感じがしていて、学校ではあまり接点がなかった。まさか、お姫様みたいな彼女が荒波のはじけるような磯で釣りをしているなんて、この目で見るまで想像もできなかった。つくづく先入観って、あてにならないなあって思う。

 今日のナギは薄いピンクのキャップに、真っ白な長袖のパーカーに青いジーンズ。お人形さんのように長い睫毛の大きな瞳は、いつもにましてキラキラ輝いている。

 もし写真つきでブログ公開とかしたら、あっというまにアイドルになってしまうに違いない。

「今行く!」

 私は、大きく手を振り返すと、乗ってきた銀色のワゴン車から、荷物を下ろし始めた。

「会長、ビール、こんなに要りますか?」

 私は、荷台から瓶ビールをおろし、キャリーカートに載せると、呆れながら我が釣りクラブ「磯人」の会長、伴田学(ともだまなぶ)氏を見上げた。

「ハルちゃん、無人島で、十二人が二泊三日も過ごすんだぞ?」

 会長殿は、真顔で反論する。このひとは今年で四十五になるいい年をしたオジサンで、父が懇意にしている料理屋の店主でもある。

 セリフの通り、のん兵衛な親父だけど、釣りの世界では名を知られた大名人なのだから、世の中油断ができない。実際、そのビール腹からは想像できないが、磯を軽やかに歩く姿は惚れぼれしてしまう。

「十二人のうち、五人は未成年ですよ」

 山ほどある荷物を下ろしながら、私は突っ込みを入れる。

「それに飲んじゃったら、釣りどころじゃないじゃないですか」

「ハルちゃんは、まじめすぎ」

 ぼやくように、会長が呟く。

「しかしハルちゃんも、荷物多すぎない?」

「へへ。ちょっと道具を絞り切れなくって。」

 私は頭を掻いた。ひとことで海釣りというが、釣る場所、釣る魚によって、使う道具も必要な技術も、つけるエサも全然違う。特に今回は、夜釣りもできるという話で、荷物はパンパンである。

「それじゃあ、俺は車を駐車場に置いてくるから、積めるものは船に積み込んどいて」

 会長は銀のワゴンに乗り込んで、発車させた。

 私はカートに瓶ビールのケースをのせ、荷物を整理する。

「遥、手伝うよ!」

 顔を上げると、桟橋のほうからナギと糸田が走ってきた。

「すごい荷物だねえ」

 積み上げられた荷物にナギが苦笑した。

「会長は、釣り以外の荷物が多そうね」

「ホントに」

 私も笑う。

 そして、大きなクーラーボックスのひもを肩にかけようとした。

「お、重っ」

 思わず顔が歪む。氷か飲み物、もしくはその両方が中に入っているようだ。一瞬ためらったが、思い切って担ぎ上げようとする。

「無理するな、遥」

 ひょい、と、糸田が、クーラーボックスの持ち手を苦も無く取り上げ、自分の肩にかける。

「あ、ありがとう」

 相変わらずのさりげなさにドキリとした。大きな黒い瞳が柔らかく私を見つめる。糸田と付き合いだして、二か月ちょっと。何も変わっていないようで、立って歩くときの距離感が前より近くなった気がする。

「重量こなすより、かさこなせ」

 ぼそりと、積まれた釣り道具やかばんを指さした。

「なんだかんだ言って、相変わらず遥に優しいね。糸田君」

 ナギにちゃかされて、糸田の顔が朱に染まった。

「先、行くぞ。」

 プイッと顔をそむけて、足早に船の方に歩いていく。

「照れ屋さんだね、糸田君」

 くすくすと、ナギが笑う。

「あまりからかわないでよ」

 私も恥ずかしくなる。

 私とナギは荷物を両手いっぱいに持って歩き出した。

 私が糸田と付き合いだしたと聞いたナギは、第一声が『長かったなあ』だった。もちろん、祝福してくれたのだけど。『糸田君をからかう楽しみがなくなった』と呟いていたのが印象的だった。

 そんなことしていたようには、全然見えなかったのだけど。

 ちなみに、私は糸田から「亮」と呼べと言われ続けているが、どうにも照れ臭くて、未だに名前で呼べていない。

「こんにちはー!」

「やあ、遥ちゃん」

 船に近づくと、食料を積み込んでいたなぎのお兄さん、塩野保(しおのたもつ)さんが顔を上げた。保さんは、端正な優しい顔立ちをしている。けっして、なよっちいわけではなく、十分に男らしい男前であるけど、女装したら綺麗だろうなあとひそかに思っている。

「荷物は船に積んじゃって」

 保さんはキャビンを指さした。

「すごい船ですね、私、渡しみたいな乗合船か、漁船で行くと思っていました」

 釣りに行くというより、観光遊覧に行くような感じだ。

「今回は、船では釣らないって決めたから、キャビンの快適さを重視したんだ」

 にっこり、船から現れたナイスミドルなおじさま、塩野道久(しおのみちひさ)さんが応えた。道久さんは、うちの釣りクラブの副会長で、事実上のパトロン。世界の塩野コンツェルンの総帥で、超セレブ。本来なら雲の上の人なのだが、大の釣り好きで、とっても良いひとだ。保さんとナギのお父さんでもある。塩野一家は超セレブな釣りバカ一家で、今回の無人島も、実は塩野家の保有する島なのだ。

「永沢君、こっちは私と由紀子ちゃんでやるから、悪いけど遥のほうを手伝ってあげて」

 道久さんの後ろで作業していた永沢に、ナギが声をかけていた。荷物をかかえこんだ永沢兄妹がマメマメしく働いていた。

「永沢君、由紀子ちゃん、こんにちは」

「やあ、遥ちゃん」

「遥先輩、こんにちは!」

 相変わらずの王子様スマイルを向ける永沢と、可愛らしい由紀子ちゃんが微笑み返してくれた。

 永沢がナギに誘われて釣りクラブに入ったと聞いた時、とても驚いた。しかし、永沢の熱意は本物だった。気が付くとうちの店で、糸田とうちの父さんに、釣りのノウハウを聞きほじり、糸田から本も借りて読んでいるらしい。

 そうそう。律義な永沢は、私と糸田が付き合いだしたことを知って、私の呼び名を「大磯さん」に一時、戻した。でも、せっかく仲良くなったのに、他人行儀になるみたいだし、そもそも前のクラスの男子がみんな名前呼びなのだ。

 気にしなくていいって言ったら、糸田に許可を取って、名前呼びに戻したという徹底したキマジメぶりである。

「荷物、つみ終わらないと行けないぞ」

 歩き出していた糸田に、振り向きながら言われて、私は慌てて彼の後を追うと、永沢も手伝いに来てくれた。

 荷物の傍らには既に保さんがいて、糸田と二人で荷物を確認していた。

「うわっ、このダンボールの中、全部缶詰だ。なんでこんなに桃缶が?」

「亮君、そこのビール、頼めるかな? 永沢君はそっちのクーラーボックスね。俺はそのダンボール持っていくから」

 保さんが荷物を割り振っているところへ追いつくと、私は持てそうな荷物をかき集める。

「釣り道具が多いのはわかるけど、瓶ビールがケースで二つもあるのは変ですよね」

 私の言葉に、保さんは微笑した。

「冷えたビールは本当に美味しいよ。遥ちゃんも大人になったらわかる」

 保さんは笑ってから、私の頭をクシャと撫でた。

「何でもいいから、早く運んでしまおうぜ」

 ちょっとムッとした声で、糸田が言う。確かに、少しでも早く出発したい。

「やあ、みんな。すまんすまん」

 手を振りながら、車を置いてきた会長が歩いて戻ってきた。

「会長、桃缶、こんなにどうなさるのですか?」

 保さんが、不思議そうにダンボールを抱えながら聞くと、会長はにやりと笑った。

「ビールの飲めないお子様にはデザートがいるだろ?」

「私たち、こんなに桃缶、食べません!」

 一ダースはある、大きめの桃缶である。いくら美味しいものでも、そんなには要らない。

「とびきり旨いデザート作ってやる」

 会長はそう断言する。会長の料理はとびきり美味しい。私達は、何も言えなくなって、黙々と荷物を運ぶことになった。



 荷物を積んでいる途中で、キャビンを覗くと、すでに先客が三人座っていた。

 一人は、よく見知ったアラフィフのおじさん、佐藤陽司(さとうようじ)さん。銀行に勤めているらしい。全体的に優しいオーラが漂っているのんびりとしたおじさんだ。

「やあ、ハルちゃん」

「こんにちは、ヨウさん」

 アラフィフのおじさんを高校生の私が、『ヨウさん』なんて呼ぶのは変かもしれないが、この釣りクラブでは、みんなが佐藤さんのことをヨウさんと呼んでいる。

「ハルちゃん、紹介するよ、こちら、私の友人の黒木君とその奥さん」

 佐藤さんの隣に座っていた二十代後半の男の人が立ち上がった。少し目つきが鋭いが、私のほうを見て柔らかく微笑んだ。

黒木祐介(くろきゆうすけ)です。こちらが妻の(あずさ)です」

「梓です」

 ペコリと、女性が頭を下げた。年齢は男性より少し若い。なんとなく控えめな感じの女性だ。

「大磯遥です。よろしくお願いします」

 私が頭を下げると、ヨウさんがニコリと笑った。

「黒木君は、ルアーの名人なんだよ」

「ルアーって、シーバスですか?」

「いや、シーバスに限らないけど……もちろん、シーバスは外せないけどね」

 にこやかに黒木さんがそう言った。

「奥様は?」

「え? ああ、彼女はあまり釣りをしたことがないんだ」

「じゃあ、この機会に、面白さを知っていただけるといいですね」

 なぜか黒木さんが一瞬、きょとんとした顔をした。

 あれ? そう言う意味で連れてきたのではない?

 私が戸惑っていると、梓さんがにっこり微笑んだ。

「私、釣りというより、無人島って言うのに魅かれて、ついてきちゃったの。子供っぽくてごめんなさいね」

「もちろん。そう言うのもアリですよ!」

 黒木さんと奥さんは二人でにっこりと見つめあう。

 えっと。私の考えすぎ? ただのラブラブ? 

「遥! ちょっと」

 糸田に呼ばれて、私は三人にぺこりと頭を下げ、キャビンの扉へ急いだ。

「何?」

「川村さん、見なかった?」

「ううん。今日はまだ挨拶してない」

 川村さんは、塩野家お抱えのボディーガード。今回は、この船の船長さんでもある。川村さんは車や船だけでなく、ヘリの運転もできるらしい。

「俺、絶対、操舵室に入れてもらおうと思って」

 糸田は船舶免許に興味があるらしい。いずれは自分の船で、優雅に釣りをしたいそうだ。

「道久おじさんには、許可はもらったの?」

「ああ。剛と一緒に」

「私は?」

「え? 遥も来たかったのか?」

 なんだか付き合う前より、糸田が、私の側に居ない気がするのは気のせいだろうか。

 これは、釣った魚には餌をやらないとかいうやつなのかな?

「ごめん。遥は、家でも船に乗るから興味がないかと」

「んー。でも聞いてくれたっていいのに」

 私はムッとして口をとがらせる。糸田が困ったように顔を曇らせる。

「ごめん」

「いいよ。キャビンでナギや由紀子ちゃんといるから」

 私は肩をすくめる。操舵室に興味がないわけじゃないけれど、そんなに何人も入れるほど広くないし、糸田は本気で困っている。我儘言ってもしかたがない。

「やあ、大磯さん、糸田君」

 噂をすれば何とやら。川村さんがごっつい携帯を片手に歩いてきた。川村さんの携帯は普通の携帯じゃなくって、衛星携帯である。地球上で通話が出来ない場所はほとんどないそうだ。

「糸田君は、操舵室に来るって聞いたけど?」

「はい。お願いします」

 ごつい糸田と並んでも、川村さんは逞しい。

 しかし、糸田と川村さん、それに永沢がいっしょに入ったら、ただでさえ狭い操舵室は、さぞや窮屈だろうなあと思う。

「そろそろ、出航できるよ」

 川村さんは道久おじさん達に声をかけにいった。

 川村さんを目で追っていると、不意に後ろから糸田の手が伸びた。

「まだ、怒っている?」

 言いながら、後ろから肩を抱かれる。

「うわっ、ちょっ…」

 白昼、しかも人目もあるのに。顔が熱くなった。

「怒ってないから、離れてっ」

 焦った私を面白そうに見つめながら、糸田は離れてくれた。

 完全に、私をからかって遊んでいる。

「じゃあ、またあとで」

「知らない!」

 私は、赤くなったであろう頬を手で隠し、船に背を向けて海を眺めた。

 静かなさざ波が、キラキラと太陽の光を反射していた。


人物紹介ばかりですみません。

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