(3)
気持ち悪いくらいに風が吹いていない。空は薄く伸ばしたようなぼこぼこした雲がずっと広がっていて、地面に斑模様の影を作っている。時々姿をみせる太陽が目に眩しい。
僕はいつもの川の横を歩いて帰っていた。伸びてアスファルトにかぶった草を蹴りながら帰っていると青木さんを見つけた。彼女はいつものように階段の隅に腰掛けて読書をしていた。
青木さんは今日、クラスのみんなに七月いっぱいでこの町を出て転校すると伝えた。転校先はここからは遠い場所で、とてもじゃないけれど「少し行ってくる」というようにはいかない距離があるところだと彼女は言った。詳しい場所は明言しなかった。
青木さんは、先生が僕たちに転校のことを伝えたあとで皆の前に立って挨拶をした。彼女は「短い間だったけれど楽しかったです。仲良くしてくれてありがとう。転校はもう少し先だからそれまで仲良くしてね」と言った。その時の青木さんは普段と同じように微笑んでいたが、僕にはその時の青木さんが人形が話しているように感じた。青木さんは人形のように可愛い女の子だけどそれとは違う。
河川敷で見た彼女の様子は、僕が見た限りではいつもとなんら違いはなかった。寧ろ、青木さんの周りを取り巻く空気は軽くなっているようにも感じた。
青木さんは自分の転校をどのように思っているのだろう。僕は生まれてから今までずっとこの平和にも程がある田舎町で育ってきたから当然転校なんて未経験だ。今後経験する予定も今のところはない。漠然と転校は悲しくて寂しいものだと思っている。
でも今日一日青木さんを見ていてそうは感じなかった。
転校を伝えたことで驚く皆の顔にも、「寂しいよ」「行かないでよ」といった声にも、全てに首尾よく対応していた。彼女の転校を聞いて泣く女子もいたが、決して本人は涙など見せず終始にこやかだった。僕はそういうところで彼女のことを人形のように感じたのだ。
青木さんは今までずっと転校を続けていることで慣れたのだろうか。転校に慣れるってどんなのだろう。ずっと関係が続く友達がいなくたって平気になるのだろうか。
そういえば、青木さんは休み時間や放課後はどうしていただろうと、ふと思った。僕の知っている限りでは彼女は休み時間は席に座っておとなしくしていて、放課後は部活動か、河川敷で読書をしていた記憶がある。友達がいないわけではないはず、だって彼女の転校を泣いて悲しむ子もいたのだから。
でもこの違和感はなんだろう。彼女の周りにどんな子がいたのか思い出せない。彼女がこの田舎でつくった一番の仲良しは誰だろうか……。
もしかすると青木さんは誰とも必要以上に仲良くなることを避けて過ごしてきたのじゃないだろうかと僕は思う。そうすれば別れる時も――。
○
青木さんと、川と山と空と足元を交互に見ながら青木さんの胸中に思いを馳せていると何かが目の前をひらりと通りすぎて落ちた。何かと思い視線を下げると足元には栞が落ちていた。
なんだろうと思って拾ってみると、その栞には見覚えがあった。青木さんの栞である。
四葉のクローバーをオレンジ色に染めて押し花にしてある。前に本人から「手作りなんだ、ずっと使ってるの」と聞いた。確か僕はその時「綺麗だね、僕もオレンジ好きなんだ。ほら、橙山の橙ってオレンジ色でしょ?」と返事をした覚えがある。
しかしどうして栞がここにあるのだろう。彼女がここを通った時に落としたと考えるのが普通だ。でもそれなら向こう岸で本を開いた時に気づくのではないだろうか。まさか、読書に夢中な彼女の手から滑り落ちて、吹かれてこちら側に? それはないだろう。
とにかく僕は、これは青木さんに話しかけるチャンスだと心得た。
僕は青木さんの方をちらと見た。彼女はもはや言うまでもなく読書に夢中で、栞が僕の手元にあることなど気づいている様子は少しもない。
僕は顔をパンとはたいて心の帯を締めてから、握った青木さんの栞の感覚を確かめながらずんずん歩いていった。普段は立ち止まって眺める橋の上からの景色もこの時ばかりは目に入ってこなかった。
橋を渡り終わって青木さんとの距離が大分近くなったとき、僕は心臓が加速して動いているのを感じた。何を話そうか。とりあえずはこの栞を渡して本の話でもしたらいいかな。青木さんが読んでる本が何か聞いてから僕がこの間読んだ推理小説の話でも……。
そう考えているうちに青木さんとの距離は普通の声で呼びかけたら聞こえるところまで来ていた。もう十メートルもない。
僕は深呼吸してから青木さんの名前を呼んだ。
「青木さん」
僕の声が聞こえた青木さんは、ハッと目を覚ますように顏を上げて僕の方を見た。そして笑顔で「あ、橙山くん」と言った。僕がいつも見てきた笑顔だ。
「何か用?」
そう言って首を傾げる青木さんに僕はやはりドキリとしながらも、彼女の傍まで行って栞を見せた。
「え? それ私の栞?」
青木さんは持っている本の中を確認した。そして栞がないことに気付いた。
「あれ? どうして? 落としたのかしら?」
「僕はあっちで拾ったよ」
僕は川の向こう岸を指差した。
「あっちで? そっちじゃなくて?」
青木さんは僕が来た方向を指差した。
「ううん、あっちで拾ったんだ。歩いてたら降ってきたんだよ」
僕が言うと青木さんは不思議そうな顔をした。川は十分に幅があるので風で飛んでいきそうには到底思えない。
少しの沈黙があって僕は青木さんに栞を渡した。
「不思議だね。でもありがとう。大事な栞なの」
青木さんは言葉通り大事そうに栞を手に取って眺めて、胸に押し当てた。そして飛ばされないようにと鞄にしまった。
「橙山くんには何かお礼をしないとだね」青木さんはほほ笑んだ。
「いや、いいよお礼なんて」
「そう? でもよかった、栞が落ちた先が橙山くんのところで」
「そうだね。僕じゃなかったらきっと青木さんのだとは分からないだろうからね」
我ながら「僕じゃなかったら」というセリフは照れ臭い。
少し間があいて青木さんが僕に訊いた。
「ねえ橙山くんってさ、いつもあそこ通って帰ってるよね」
青木さんは橋を指差した。
「うん、そうだよ。本読んでても気づいた?」
僕が半分からかうと、青木さんはふふふと笑って「それくらい気づくよ」と答えた。
「たまに粕谷くんといっしょに帰ってるよね?」
「うん帰ってるよ」
「私、二人とも楽しそうだなあって思いながらいつも見てるんだ」
青木さんがこちらのことを見てたとは驚きだった。そしてそういわれてなんだか気恥ずかしくもなった。
「粕谷くんとは長い付き合いなの?」
「いや、そうでもないよ。まだ三年さ」
「あ、そうなんだ。私にはもっとずっと前から仲良しみたいに見えるな」
「粕谷は一年生の時に転校してきたんだよ」
僕はそういってからすぐ後悔した。「転校」という単語は使うべきじゃなかったと思った。
横目でちらりと青木さんを見ると、彼女はさらさら流れる川に視線を落としている。一方僕は視線をうろうろさせながらどぎまぎした。何か言わなきゃと困っていると青木さんがぽつりと呟いた。
「転校かあ」
青木さんは体を反らして天を仰ぎ、曲げていた足を前に放り出した。同時に彼女のスカートの裾が少し上に上がったが僕はちゃんとこらえた。そのままの姿勢で少しいてからまた元の体勢に戻ると言った。
「ねえ、橙山くんは転校したことある?」
「ないよ」
「だよね。ほとんどの子はないよね」
「そうだね」
「転校ってさ、なんだか不思議なんだ」
僕は返事をするかわりにじっと青木さんを見ていた。青木さんの視線は空に向かっていた。
「新しい場所に行くと、もう今までの自分を知ってる人はいないの。それがなんだか不思議な感覚でね、まるで自分をリセットしちゃったみたいになるの」
「自分を? 周りじゃなくて?」
「うん。確かに周りの人はみんな変わっちゃうんだけどね、それこそ本当にリセットしたみたいに。でもね、一番変わるのはやっぱり自分なんだ」
「そうなんだ……」
「でもね、何度も転校してるとその感覚にも慣れてくるの。私はもう、慣れちゃったかなあ」
青木さんはどこかさっぱりした様子で喋った。一方僕は何も言えなかった。転校したことがない僕にはさっぱりわからない。
「ってこんなことを橙山くんに言ってもわかんないよね、ごめんね」
僕は首を横に振った。そうするしかできなかった。それでもなにか言わなきゃいけないと思った。でも何も言えなかった。
僕と青木さんはしばらく黙って河川敷の階段から見える景色を眺めていた。
僕がいつも見るのは橋の上からで、ここは通らないからめったに見る景色じゃない。正面に川、そのむこうに線路と田んぼ、右手の奥に学校と駅が小さく見える。左手には二本の橋。橋に遮られて山はあまり見えない。やっぱりここの景色を見るなら橋の上からが一番いいと僕は思った。
青木さんは今何を思っているのだろう。転校することは本当になれたのだろうか。訊いてみたいと思ったけど気が引けた。
しばらくして青木さんは立ち上がって「あーあ」と大きくため息をつくように言った。
「私、この町好きだなあ」
そして僕の方をくるっと振り返ると、「とっても田舎だけど」と付け足した。僕は素直に可愛いなあと思った。「確かに田舎だ。田舎すぎる」と言って僕も立ち上がった。立ち上がると少しだけ風を感じた。青木さんの髪が少しだけ揺れている。
「ねえ、どうして青木さんはここを選んだの?」
「え?」
「なんでこの場所でいつも読書してるの?」
僕の質問に青木さんはひとしきりうなったあとで「なんでだろう、わかんない」とほほ笑んだ。その笑顔に僕はまたまたドキリとした。僕は彼女の笑顔に弱いらしい。
「なんだそれ」
「なんでだろうね。でも綺麗だと思う、この景色」
「確かに綺麗だね」
「橋の上から見たらもっと綺麗だよね」
「僕もそう思う」
僕は橋の方を見た。いつの間にか空を覆っていた薄い雲はどこかへ行って、淡いオレンジ色の空がそこにはあった。太陽はまだその姿をはっきりと現していて夕暮れにはいくらか時間がある。
「橋の上に行かない?」
僕は青木さんの読書の邪魔を延々とするのは悪いと思いながらも提案した。青木さんは快く了承してくれたので、二人並んで橋の上まで行った。
「やっぱり綺麗だね」
「うん」
またもしばらく黙ってふたりで景色を眺めていた。眺めているときに僕はしきりにあることを言いたくなったのだけどそのたびに心が挫けて言葉にできなかった。
風が強くなってきて青木さんの髪やスカートやあたり一面の草木をさわさわと揺らした。空のオレンジが段々と濃くなってくる。
川で何かが大きく跳ねたのを見つけて僕がそれを言おうとしたときに青木さんが言った。
「やっぱり、寂しいなあ」
〇
あっという間に時間は過ぎて七月も半ばになった。
木々が青々としていてそこから蝉の声がうるさいほどに聞こえてくる。少し厚めの雲がかかっても太陽光はその威力を落とすことなく僕らの頭上に降り注ぐ。近からず遠からず見える山は一層その存在感を増してきたように思えた。
そんなある日の放課後――青木さんのお別れ会が予定された前日――僕は久しぶりに粕谷と一緒に帰っていた。
そのころになると僕の中で青木さんに対するある思いがむくむくと大きくなって弾けそうになっていた。それを見透かしたであろう粕谷が、この日わざわざ部活動を休んで僕のところにやってきて「一緒に帰ろう」と言ったのだ。
「橙山よ、何を悩んでおる?」
「ああ、いや……」
僕はこの日、正直に粕谷に相談するつもりでいた。でも、いざ言うとなるといくら気の置けない仲である粕谷といえど恥ずかしい思いになった。
「何をもじもじしとる。気持ちが悪いぞ」
「気持ち悪いとか言うな」
粕谷ときたらこの調子だから言いにくい。それでも僕はふんと鼻を鳴らして息をすいこんで言った。
「青木さんに、好きって言いたい」
それを聞くと粕谷は目をかっと開いて僕の前に立った。そして両手を僕の肩において顔を近づけた。
「そうか! よく言った! がんばれ友よ!」
「ああ、うん」
「なんだ、言葉のわりに覇気がないの」粕谷は眉をひそめて言った。
僕は粕谷に言った通り青木さんに「好きです」と言いたいと思っている。でも言っていいものか悩んでいた。
青木さんはもうすぐ転校する。もう十日もない。教室でも日に日にしんみりした空気が増大している。いつものおちゃらけた楽しい空気がどことなくない。きっと青木さんはそれを自分のせいで、と気にしているはずだ。
そんなところに僕がやってきて「好きです」と言われても困るに違いない。新しい場所に行っても「橙山くんからの告白」というへんてこりんな記憶がいつまでも青木さんの頭の中に不愉快に残ってしまうだろう。第一青木さんは僕のことが好きではない。そう考えたらせっかくこさえた勇気もどこかへ行ってしまって心が挫けた。
以上のことを僕は粕谷に言った。すると粕谷は「ふむむ」と手を顎に当てた。
「今の話で不思議なところがあるのだが」
「不思議? どこが?」
「どこって、お前さんはどうして青木さんがお前さんのことが好きでないとわかるのだ」
「わかるだろそれくらい」
「そうか? じゃあ、青木さんが誰のことが好きかはわかるのか?」
「え? 青木さん好きな人いるの?」
僕は思わず狼狽えた。
「それは知らんが、わかるのか? わからんのだろう。なら、決めつけるのは早い」
「そうは言ってもなあ」
僕はなんだか腑に落ちない感じがした。
「とにかく、告白するのは何なんにも悪いことではない。がんばれ橙山」
「ううん」
「もじもじするな。異性に告白されて気分が悪くなる人なんてこの世にはいないのだ。応援してるぞ!」
そういいながら粕谷は僕の背中をバシッと叩いた。痛かったけれど有り難かった。
橋の上を少し歩きながら「青木さん今日はいないな」と思っていると粕谷がポンと手を叩いた。
「そうだ橙山よ、神社に行かんか」
「また?」
あの日以来僕は神社に行っていない。頭に直接話しかけてくる妙ちきりんな神様のところになんて進んで行きたくない。それに席替えの件では「最善を尽くす」と言っておきながら見事に僕と青木さんの席を考え得る一番遠いところにセッティングしたのだ。信用ならない。
「やだよ、もう神様には頼まない」
「まあまあ、そう悲しいことを言わずに。席替えの件は申し訳なかった」
「なんでお前が謝るんだよ」
「まあいいから、もう一回だけお願いしてみようではないか。祈って悪いことはない」
「なんでそこまでお祈りに執着するんだよ」
「まあまあいいではないか」
粕谷はどうしても僕を神社につれて行くらしい。そこそこにしつこいので僕はしまいには折れた。
〇
夕焼けに染まる境内で二人で神様にお願いした。粕谷は今度はちゃんと隣にいてどこかに行ってしまうことはなかった。
期待していたわけではなかったけどナンタラカンタラのカミは出てこなかった。前と同じように正しい所作で礼をしてしっかり五円玉を賽銭箱に入れたのだけれど今日はお留守のようだった。まさか、僕があの時幻聴を聞いたのではないか、という意見は聞き入れない。
なにも起こらなかったので、僕と粕谷はそのまま短い参道を歩いて鳥居をくぐって神社を出た。出るときにまたも左右の気がざわわとおかしな揺れ方をしたので「まさか」と思ったけど、やはり何もなかった。
家の近くまでやってきた時にはまさしく誰そ彼(黄昏)時で僕の顔も粕谷の顔もぼんやりと暗くなっていた。粕谷は「じゃあの、がんばれ橙山少年!」と言って夕闇に消えて行った。僕は息を深く吸って吐いてから家に向かった。
〇
翌日、授業の一つをクラス会に変更して青木さんのお別れ会を開いた。
まず先生が一言挨拶をしてから会は始まった。それからクラスメイト全員が青木さんに一言ずつメッセージを送った。僕は「少し前まで隣の席で仲良くしてくれてありがとう。新しい場所でも頑張ってね」と言った。青木さんはにっこりして「ありがとう、がんばるね」と言った。
全員が一言ずつ言葉を送った後で先生が用意してくれたケーキを食べた。青木さんはみんなの真ん中でずっと笑っていた。ほっぺたにクリームをつけられて、みんなにもみくちゃにされている青木さんは本当に楽しそうだった。
あとになって思うと、僕はこのお別れ会の時にようやく青木さんがいなくなることを身に染みて感じたのだろうと思う。会の途中から段々と寂しくて悲しくなってきた僕は少し目頭が熱くなるのを感じたのだから。
ケーキを食べた後、みんなで輪になって合唱をした。ちゃんとCDも用意して僕たちが歌ったのは「旅立ちの日に」だ。この歌は卒業式のとき体育館でしか歌わないから変な感じがした。
最初はみんな何ともなかったのだけど、最後のところになると女子はみんな泣いていた。つられて泣く男子もいた。僕はケーキを食べているころから半べそだったのでそう変わりはなかった。
ただ青木さんだけ笑顔を絶やさなかった。
お別れ会の終わりに青木さんはみんなの前に立ってあらかじめ用意してきた手紙を読んだ。その内容は詳細には紹介しないけれど、繰り返し感謝の言葉と新しい場所でも頑張っていくということを述べた内容だった。手紙の途中で青木さんが「一学期が終わったその日にこの町をでます」と言ったのを僕はちゃんと聞いた。
最後に先生の提案で一人ひとりが青木さんと握手をしてお別れの会は終了した。僕はしっかりと彼女の手を握った。握るだけで気持ちが伝わればいいのに、と思った。
〇
その日の帰り道も僕は粕谷と一緒に帰った。
僕が目を若干赤くしながら黙って歩いているので粕谷もは気をつかってか一緒に黙って歩いてくれた。
今日は青木さんはいつものところにいなかった。僕たちの方が先に出てきたのかもしれない。僕はあと何回あそこに腰かけて読書をする青木さんを見れるだろうと思ってしんみりした。
橋の真ん中あたりでようやく粕谷が口を開いた。
「橙山よ、お前さん、告白の段取りはついたのか?」
いいえ、と僕は首を振った。
「そうだろうの。じゃあの、これを……」
そういって粕谷は制服のポケットから何がぎらぎらしたごついのを出した。
「うわ、なにそれ」
「特製、御縁が有りますよう五円玉だ」
「なんだそれ」
粕谷は得意そうにそれを僕の顔の前にやった。
「お前さんの恋が成就するように、俺からの贈り物だ」
受け取ってみるとそれは粕谷が言うとおり五円玉だった。たくさんの五円玉が糸でひとつなぎにされている。ぎゅうぎゅうに結ばれた五円玉は今にもはじけてばらばらになりそうだ。
「これ、五円玉何枚あるの?」
「ん? わからん。でもきっと役に立つぞ」
「一体何に? でもまあこれだけあればご利益はありそうな気も」
僕はずっしり重たいそれを「まあ、ありがとう」と言ってポケットにしまった。重みで制服のズボンがだらりと下がった。
「それ全部賽銭箱に入れるもよし、神棚に奉るもよし、川に投げ捨てるのもよし。とにかく、無事に告白ができることを祈っとるぞ」
粕谷の応援に、僕は無言で強く頷いた――
〇
――しかし、そうは言ってもなかなかチャンスは訪れず、青木さんに話しかける機会をうかがっているうちに一学期最後のひとなってしまった。つまりは青木さんがこの田舎町を出ていく日だ。
どうしよう、いつ行こう、とあたふたしている間にこの日までやって来て、ついには一学期の終業式がさっき終わってしまったところだ。
ここ最近青木さんは、転校のことで忙しいのか先生に呼ばれて職員室と教室を行ったり来たりしている。休み時間に教室にいることが大分と少なくなっていた。それは放課後にも及んで、僕は帰り道に橋の上から読書をする青木さんをすっかり見なくなっていた。
今日を逃せばもうその姿を見ることはできない。
それどころか逢うことすらできない。
先生がやってきて一学期最後のホームルームが始まった。
先生は最初、みんなに夏季休業中の諸注意を喚起した。「朝早く起きるように」「外泊するときは届け出ること」「水辺には十分注意すること」そんな小学一年生の時から散々聞かされてきた文句は僕の頭を右から左にするりと流れて行く。
僕は夏のにおいがする教室後方の窓際で、可笑しなくらいに背筋を張って一番遠くの青木さんを見つめていた。あんまりに見つめることに没頭して、先生が僕の名前を呼んだことにも気づかなかった。今この時、成績表なんてどうでもよかった。
結局、僕は五十分間ぼんやりしたまま青木さんを見ていた。青木さんもまたぼんやりとしていて、両手に顔をのせたまま先生の方を見たりたまに廊下の方を見たりしていた。
恐ろしい速さで時間は進んで終了のチャイムが鳴った。
チャイムが鳴ったとき、「今しかない! ここしかない!」と思って急いで立ち上がったのだけれど、先生が青木さんをつれて職員室に行ってしまった。
僕は廊下に飛び出して後を追ったのだけど、青木さんが階段の方に曲がって行くのを見てなぜだか足が止まってしまった。今になってそうはしてはいけない気がした。意気地なしとは言わないでほしい。
そうして、廊下の奥に吸い込まれるようにして僕の視界から姿を消した青木さんが、僕が見た最後の青木さんになったのだった。
――本当ならば。
〇
かんかんの太陽がちょうど頭の真上にやってくる頃、僕は家に着いた。
こんな時は粕谷と一緒に帰りたかったのだけど、彼の教室をのぞきに行ったときにはすでにいなかった。そこにいた子に訊いてみたところ、粕谷は先生が解散の合図をしたとたんなにやら大慌てで教室を出て行ったそうだ。今日は全ての部活動が停止なので一体どこに何をしに行ったのか見当もつかない。
そんなわけで僕は一人で帰ってきたのだ。
途中、しばらくいつもの橋の上で立ち止まって景色を見てきた。
川のせせらぎにに耳を傾けながら、心を落ち着けて、かつ、気を紛らわせていたのだけど、真夏の仕事を頑張りすぎる太陽のせいでどうにもうまくいかなかった。泉のように流れ出る汗で体がべたべたしてきて、なんとなく頭痛もしてきたようだからおとなしくその場を去った。
家に入って、僕を見た母さんが開口一番「すごい汗ねえ、シャワー浴びてらっしゃい」と言ってきたので僕はその通りにした。
お風呂で僕は、勢いよく流れるシャワーの水とともに目からじんわりと出てくるやつも一緒に流した。そうしたら少しは気分がよくなった。ほんの少しだけ。
お風呂から出たらテーブルに山盛りの冷やし中華が置かれていた。「おなかすいたでしょう? それくらい食べられるわよね」と母さんに言われたので、僕は気分じゃなかったけど全部食べた。こんな時でも食欲はあるんだから自分でも呆れた。
早々とご飯を済ませて僕は二階の自分の部屋に入った。なにをするでもなく、とりあえずベットによこになって天井を見ていた。
無心でいようと思っていたのに、僕ときたら頭に浮かぶのは青木さんのことばっかりだ。またまた自分でも呆れた。今度は声に出して「ふふっ」と小さく笑ってしまった。
僕は、授業のときも休み時間の時もいつも隣に彼女がいた頃を思い出していた。
僕がちらりと横目で見ると青木さんは必ず気づいて、「ねえ橙山くんさ――」と他愛のない話題をふってくれた。今となってはそれだけでよかったのに、と思うけどもう後の祭りだ。
青木さんにはもう逢えない、と頭の中で繰り返し呟いてみた。そして繰り返しため息をついた。
窓を網戸にして扇風機をかけただけで、エアコンを使っていなかったから息苦しいくらいにむしむししたけど、ベットの中でもぞもぞしているうちに僕はいつの間にか寝ていた。
〇
網戸にかつんかつんと何かが当たる音がして目が覚めた。
時計の針は三時五十分を指していた。ぐっしょりした衣服もそのままに起き上がって窓辺に寄った。
網戸を開けようと手をかけたときに小石が飛んできたのでびっくりしてのけ反った。網戸越しに下を見やるとそこには内藤がいた。
「あ! やっとでたな! おい橙山、降りてこい!」
「何さ、石なんか投げて……普通にチャイムを」
「チャイム鳴らしても出なかっただろ! さては寝てたな! いいから早く降りてこいって!」
内藤にしてはただならぬ気配を感じさせる剣幕なので、僕はそれ以上は言わずに大人しく階段を降りた。途中で足元がふわりとしたので、これはいけないと思って冷蔵庫からミネラルウォーターを出してごくっと飲んだ。
靴を履いて玄関を出るやいなや内藤が「はやくはやく!」と呼ぶので、僕は駆け足をする素振りをして近寄った。
「急げよ! なにちんたらしてるんだ。俺が怒られるだろう!」
「どうしたのさ、何に怒られるのさ」
「いいからお前今すぐ駅に向かえ!ほら早く!」
そう言いながら内藤は僕の体をずんずん押した。
「なんで? なんで駅?」
僕が戸惑っていると内藤は今までに聞いたことがないくらいの早口で答えた。
「青木さんが今、駅にいるんだって。さっき偶然会った粕谷が言ってた。そしたら急いでお前を駅まで連れてきてくれって頼むんだよ、四時までに。ものすごい必死な顔でさ。連れてこなかったらお前ぶっ飛ばすぞ、とか言うんだよあいつ。だから早く行け!」
僕は内藤が言ったことを頭の中で整理した。
そして一瞬で自分がどうするべきかを判断した。
「自転車、借りていいか!」
言いながら僕は既に内藤の自転車にまたがっていた。
「もちろん! あと五分もないぞ、急げ!」
ここからだと自転車で駅までちょうど五分ほどかかる。全力で飛ばしていけばなんとか間に合うはずだ!
「頑張れ、橙山!」という言葉を背中に受けながら、僕は思い切りペダルを踏んだ。
〇
空には雲一つない。真夏の太陽のもと、からからに乾いた空気を切って僕は一心に自転車を漕いだ。寝起き直後の全力でくらくらするようだけれどなりふり構わずとにかく漕いだ。
僕の家から駅までは数えるほどしか曲がり角がないので存分に速度を上げることができる。だからきっと発車には間に合うはずだ。
道端で遊んでいるチビッ子たちをひゃあひゃあ言わせ、お昼寝中の猫をびっくりさせて、おしゃべり中のおばさんたちに注意されながら僕はひたすらに進んだ。赤色の信号も、一旦停止もここは完全に無視をした。
自転車を漕ぎはじめて体内時計で三分経つか経たないかといったところで僕は歩道側の橋の詰にさしかかった。
残り時間はあと二分くらいだ。橋を渡りきるのに三十秒。そこから駅までの河川敷の一直線を一分。これならぎりぎり間に合うはずだ!
――そう思った矢先。
がちゃり、という音とともに右足がペダルから外れた。体が浮遊感に包まれて、あっと思った時には僕は自転車と一緒に盛大に転んでいた。
自転車のハンドルをはなしてしまい僕は堅いアスファルトの上にごろごろと転がった。
「あ、痛っ」
僕は膝と肘を大いに擦りむいた。幸い頭はどこにもぶつけず、骨に異常もない。途端に赤いやつがじわじわと出てきてひりひりしだしたが、僕はなりふり構わずすぐに立ち上がって自転車を起こしにかかった。
僕は大慌てで自転車にまたがり再発進しようとした。だけどできなかった。チェーンが外れてしまっているのだ。
「なんでこんなときに!」
僕は腹が立って思わず叫んだ。
そして一瞬で自転車は駄目だと判断して橋の欄干に立てかけて、走った。
擦りむいた膝と肘に激痛がはしる。だけど気にならなかった。ここで間に合わなかったら彼女にはもう逢えないのだから。
必死に走る。
必死に走るのだけど、もう、時間がない。
「青木さん」と僕は大きな声で彼女を呼んだ。
まだ言ってないことがある。青木さんはもしかしたら嫌がるかもしれない。それでも僕はこの気持ちを伝えなかったらきっと後悔する。
力いっぱい彼女の名前を呼んだその直後、橋の先にゆらゆらと陽炎が見えた気がした。ほどなくして視界がぐにゃりと歪む。
夏の暑さにやられたのだとわかったときにはもう遅かった。
僕はふらふらとその場にしゃがみこんでしまう。どうにかしようと手すりに手をかけてもがくのだけど目の前が真っ暗になって体から力がぬけてしまって前に進めない。
「くそう……」
しばらくして、ようやく目の暗闇が晴れて体に力が入るようになったとき、僕は、少し遠くで笛の音が鳴るのを聞いた。
〇
僕は、橋の欄干に背中からもたれかかって水滴をぽたぽたと落とす。
全身をじりじりと焼く太陽に真っ向から向き合ってしばらく目をふさいだ。瞼の内側が真っ赤になって耐えられなくなったところで僕は方向転換した。
さっき、すぐそこで発進した電車はこれからこの田舎町から幾分か離れた街を目指して走る。しばらくは川に沿って家々の間を縫うように走り、やがて少しずつ建物が減ってきてそのうちになくなる。そうしたら電車はひたすらに田んぼと畑しかない辺り一面の緑の中を進むのだ。また建物が現れたと思ったらその先はもう短い。すぐに工場やビルが立ち並ぶ土地に入っていって大きな駅に到着するだろう。
そうしたら青木さんは乗り換えをして僕の知らない街へ行くのだ。
僕は駅の構内を歩く青木さんを想像した。でもすぐにやめた。
手すりに滴る水滴がその量と速さを増す。
僕はがっくりと頭をさげて大きく息を吐いた。そして無意識に「時間は有限……か」と呟いていた。
久しぶりにこの言葉を思い出した。神社で神様が教えてくれたことだ。最初にこの言葉の意味を身に染みて感じたのは席替えの時だったと思い出す。二度目に実感したのは青木さんの転校が決まったと先生に聞いた時だ。
そして、改めて今度で三回目。
時間はいくらでもあったのにどうしてこうなったのだろう。
今になって思えば、席が隣だとかそうじゃないとか関係なかった。結局は自分の意志の問題だったのだ。席が隣合わせだったからって、これと言って何もなかった。ただときどき他愛のない話をしていただけだ。それだけなのに席替えがあって席が一番遠いところになって「好機を逃した」と嘆いて半ば諦めていた阿呆はだれだ? 結局はやるべきことを先延ばしにした自分が悪いのだ。毎日先延ばしにしてきた過去の自分が積み重なって、その当然の帰結として現在の状況に至ったのだ。
――でも、これで諦めるのかと訊かれたら、僕は首を横に振る。
もう一度「はあ」と大きく息を吐いた。
こんなことになると初めから分かっていたなら、粕谷の言った通り周りの目なんか気にしないで「布石」を沢山打っておけばよかったなあ。
「ん?」
訳もなく足を一歩動かしたときにズボンのポケットに何やら違和感を感じた。何か重たいものが、ちょうど鉄球が入っているような感覚がした。
目をやるとそこはぼっこりと浮かんでいる。間違いなく何かが入っている。さっきまではポケットにはなにもはいっていなかった。
取り出してみると、それは以前粕谷がくれた「特製、御縁が有りますよう五円玉」だった。
どうしてこんなところにあるのだろう。僕はそれをもらった日に制服のポケットからだして机の上に置いたはずだ。
なんにせよ、粕谷が僕の告白の無事を祈ってくれたこの大量の五円玉は持ち主がふがいないせいでその役目を果たすことができなかったのだ。もう全く必要ない。
僕は糸でひっつめられた五円玉の塊をじっと見つめた。何があるわけではないけどとにかく見つめた。五円玉にもう一つ穴があいてしまうかと思うくらいに。
そして心がぐつぐつと煮え立ってきて沸点に達したとき、僕は五円の単純な価値も忘れてそれを川に向かって力一いっぱい放り投げていた。
五円玉の塊はくるくると回転しながら弧を描いて宙を飛んでいく。そこそこに重量があるので思ったよりも早く、遠くまで飛んでいきそうだった。でも、ちょうど弧の頂点に達して落下を始めようとした時、まるで僕の感情に呼応したかのように、それまで沢山の五円玉を縮込めていた糸がぷっつりと切れて五円の塊がぱっと弾けた。
夏の空に、火薬ではなく五円玉の花火が咲いた。
ばらばらになった五円玉は突然にしてその勢いを失ってほとんど真っ直ぐに落下をはじめる。そして三秒と経たないうちにすべての五円玉がぽちゃぽちゃと水面下に姿を消した。
そのすぐ後、沢山の五円玉が落ちたところで何かが大きく跳ねた。
魚だろうかと思った。考えながら、僕は前にもこうして水面で何かが跳ねたのを見たことを思い出した。確かあれは青木さんと一緒にここからの景色を眺めていた時だった。跳ねたのを見つけたけど、僕はなんとなくそれを青木さんには言わなかったのだ。
見続けているともう一度同じ場所で何かが大きく跳ねた。しっかりと見たのだけどその正体がわからない。僕には魚というよりも川の水そのものが噴射しているように見えた。
「あっ」
また跳ねた。今度は少し右手のほうで。
そしてまた跳ねる。今度は少し左のほうで。
そして次の瞬間には五円玉が落ちた付近のあちこちで跳ねだしたのだ。
「なんだ?」
僕は身を乗り出してその様子を見守った。まるで川底のあちこちに噴水ができてるみたいだ。
ばちゃばちゃと跳ねる水の音が段々と大きくなっていく。しかし、流れる川の音よりもそれが大きく聞こえたとき、その現象はピタリと止んだ。
なんだったのだろうか。
息をついて前に乗り出した体をもどしたその刹那、どかんと川が爆発した。
激しい音と共に嵐のような風と飛沫が僕を襲った。僕はとっさに逆方向を向いて顔を腕で覆った。爆風に乗った飛沫が猛烈な勢いで容赦なく背中に当たってとても痛かった。
だが、横からくる風も飛沫もすぐになくなって、今度は真上から雨のように水が降ってきた。
小さく丸まった僕は、恐る恐るふさいでいた目を開けて背中越しに川の方を見たとき、思わず「なんだ!これ!」と叫んだ。
川の中央、そこには幅六七メートル程の水の柱が堂々と屹立していた。
これ、今さっきできたのだろうか?
僕は立ち上がって川面を見た。
太い水の柱は川を付け根にどっしりと立っている。僕は徐々に視線を上げて柱の上の方をみた。しかし、首が痛くなるくらいに上を向いてもその先端が見えない。一体どれほどの高さなのだろうか。
訳も分からず水柱を見ていると、だんだんとそれはが生きているように見えてきた。
水柱の表面は盛んにうごめいてあちこちが不規則に波立っている。その中は轟々と水が流れて動いているようで太陽の光を散乱させている。ときどき右や左にその胴をくねらせるが倒れるようにはみえない。
僕は物理学を詳しくは習ったことがないけど、これが明らかに物理的な法則を無視している現象だということだけは分かった。川の水はこんなふうにたちのぼらない。
なにもしないであっけらかんとしていると、水柱は徐々にその高さを低くしていた。空を見上げると柱の先端がみえた。
先端部分以外はそのままに、水柱は如意棒がするする短くなるように縮んでいく。そして僕のいる橋の高さと同じになった時にその運動は止まった。
ますます怪しくなって見ていると、水柱はまるで沸騰しているかのように表面がぼこぼことしだした。ぼこぼこしながらも、下のほうから段々ととそれはおさまって形が整っていく。
最後に、僕の顔の高さでぼこぼこが終わったとき、僕の目の前には、水でできた竜がいた。
川からぬるりと姿を現したように思えるそれは、シルエットこそ蛇のように見えるけど頭の部分は誰がどう見たって竜そのものだ。
水でできた竜の大きな目玉が二つ、しっかり僕を見ている。僕も目を真ん丸にして見返したが、到底理解の及ばない現象を目の当たりにして少し後ろにたじろいだ。
それを見てか、竜は僕のいる橋の方に近づいてきた。川面を体の軸にしながらゆっくりと頭を大きく上下させて。
目の前までやってきて竜は動きを止めた。僕との距離は三メートル。
竜は体の中の水をぐるぐると流すだけで動かない。僕は驚きのあまり動けない。
まさか、僕食べられる?
いやいやそれはないでしょ。相手は水だし、食べられちゃうほど悪いことをした覚えはない。それどころか僕はさっきまで青木さんを追いかけていて遂には追いつけなかった……。
竜は依然として動かない。じっと僕を見つめている。
僕はふと思い出したかのように擦りむいた肘と膝の痛みを感じた。一連の摩訶不思議な現象で忘れていたのだけど、見ればなかなか派手にやってしまっていて赤い筋が複数できている。
僕は肘に手を当ててちらりと傷口を見た。
つまりは竜から目を離したそのとき、ザブッと音をたてて竜が動いた。
僕との距離をさらに縮める。もう目と鼻の先、五十センチもない。僕にはもう竜の頭のうち目と鼻しか見えていない近さだ。
息苦しい距離のまま時間が流れる。一秒。二秒。三秒。
そして四秒後に聞き覚えのある声が頭の中に響いた。
「さあ、行こうぞ! 少年よ!」
それと同時に竜は大口を開けて僕の体を一飲みにした。
〇
水に飲まれた僕はその中で必死にもがいた。
なにしろ水中では息ができない。僕は必死に水面を手で探った。だけれど、いくら太陽の方に手を伸ばしても足をばたつかせてもいっこうに空気に手が触れない。
吸っていた息をすべて吐きだしてしまってもうだめだと思った時、体を今まで感じたことのない浮遊感が包んだ。
そのまま僕は水面に浮かび上がった。
気づけば僕は水の上に尻をついていた。
自分が一体何処にいるのかと思い、あたりを見回すと、僕は、自分が竜の頭の上にいるのだということが分かった。そして竜が天高く舞い上がっているということも。
竜は僕を頭に乗せたままその高度をぐんぐん上げていき、この田舎町が一望できる高さまで昇った。
地上よりも空気がひんやりする。上を見れば、さっきまではなかった真っ白な雲があって、太陽がいつもより少しだけ大きく見える。
眼下にはまるで絵に描いたように一面緑色の田んぼに、そこに点々と散らばる家々の屋根瓦が見える。線路があって、それに沿うように川があって、川に垂直に道路があって、道路に平行に僕がさっきまでいた橋がある。
最早、何が起きているのか理解しようとする努力も忘れて、僕は、僕がいつもみている好きな景色を俯瞰で楽しんだ。
「少年よ、おい少年よ」
景色を見ていると頭の中に声が響いた。さっきも聞いたあの声だった。僕は心当たりがあるのでそれを口にした。
「もしかして……神様?」
半ば質問気味に言うと、声の主は満足げに「左様」と言った。
つまりはこの水の竜はあの神様だというのだろうか?
僕がぽかんとしているとまた声が聞こえた。
「席替えの件はすまんかったの」
神様の突然の謝罪に僕は「あ、いえ」などど上手に答えられない。
「だが、今回はそうはいかない。これを逃すと終わってしまうからの」
僕には神様の考えがだんだんと見えてきた。
「お前さんから垂れる運命の赤い糸を強引に結ぶきっかけをつくるにはにはここしかない。いいか少年、やれるな?」
神様の優しくも力のある声に僕は立ち上がって答えた。
「よろしくお願いします!」
〇
僕がそう言ったのと同時に、それまでは川から伸びていた竜の体が川から離れて、まるで本物の竜のようになって空を一直線に飛び始めた。
ものすごいスピードで、僕が今まで見てきた景色の奥へと竜は進んでいく。
どんどん景色が流れていって、あっという間に家の一つも見れない田んぼばかりの土地までやってきた。
そして、まだ青々としたススキでいっぱいの土地にに入りかけたとき、僕は前をがたごと走る電車を見つけた。
竜は少しづつ高度を下げながらも加速して電車を追いかける。そして、三両編成で走るそれの最後尾車両に彼女の姿を見つけたとき、僕は、それまで低くしていた姿勢から立ち上がって彼女の名前を呼んだ。
「青木さん!」
彼女は気づかない。僕は続けて「青木さん!青木さん!」と呼んだ。
すると、それまでこちらに背を向けていた彼女は窓の外に何か違和感を感じたのか、ゆっくりとこちらを振り向いた。
振り向いてすぐに顔に驚きの色を示した。僕は大きく手を振った。
竜は線路に沿って宙を進んでいって、やがて僕と青木さんの距離は五メートル程になる。
青木さんは少しの間驚きの色を隠せないようであったが、すぐにそれはひっこんで、なんだか今にも泣き出しそうな笑顔になる。青木さんのこんな表情は今まで一度も見たことがない。
僕は、僕の気持ちを伝えるために窓を開けるようにジェスチャーを送った。電車の窓は重いようで青木さんは少してこずったようだけどすぐに開いた。
開いた瞬間に風が青木さんの顔に吹き付けて髪の毛が乱れた。彼女はそれを手で押さえて耳のあたりで止める。そういえば、本を読むときもこうしていたっけ。
「橙山くんー! どうしたのー!?」
青木さんはどこかわくわくした様子で僕を呼んだ。夕日が射して目がきらきらと輝いている。
「青木さんに! 言いたいことがあって来たんだ!」
僕は電車の音に負けないように大きな声で言った。我ながらこの言い方は勿体ぶったかな、と思った。だけど青木さんはそんなことは歯牙にもかけずに、「なに?」と言うように首を傾げて目を一層大きくする。
やっぱり、素敵だなあ。
僕は次の言葉を言うために息を沢山吸い込んだ。すこし照れくさいけど、緊張なんてまったくしない。
「好きです! 僕は青木さんが大好きです!」
〇
§
読書をしていたのにいつのまにか居眠りをしていて目が覚めたのは午後三時五十分だった。
僕はあわてて飛び起きて、顔を洗って歯磨きをして髪の毛をセットした。部屋はもう既に片付けてあったのが幸いだ。
もうすぐ彼女がこの部屋にやって来る。
これは初めてのことだから僕は少しばかり緊張しているのだけど、できるだけ表に出さないようにしたいと思う。大丈夫、彼女の前では昔から不思議と焦りが出ない。
なにか用意しておいた方がいいだろうか。例えばコーヒーとか。
そう思い立って僕は長らく使ってなかったコーヒーメーカーを戸棚から引っ張り出した。
コーヒーを淹れ終わると時計の針は丁度四時を指していた。
彼女の性格からして、予定してる時間の五分くらい前には来そうなんだけどな。そうでもなかったかな。そう思っているとケータイ電話の着信音が鳴った。彼女からメールが来たのだ。
ごめんね、少し遅れる。
文はそれだけだった。
いつもやりとりするメールはもう少し絵文字か何かがついて華やかなのだけど、これだけしか書かれていないところを見ると相当急いでいるように思われる。
何時くらいになりそう?
こちらがそういった主旨のメールをこしらえていると部屋のチャイムが鳴った。
なんだ、遅れるってたったの二分のことじゃないか。
それでも僕は、彼女らしいなあと思いながら玄関に向かった。
一度ゆっくりと深呼吸をしてドアを開けた。
「いらっしゃい。待ってました」




