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(2)

 

 その翌日の放課後、僕と粕谷はこの近くにある神社に向かって田んぼ道を歩いていた。

 時間は午後三時。まだ日が高いから田んぼに張られた水に光が反射して目がちらちらする。一番近くの田んぼには規則正しく苗が植えられている。その隣の田んぼはまだ苗が植えられていない。さらにその隣の田んぼはもう植えた苗が僕の膝くらいの高さまで伸びている。そこから先の田んぼは全部黄金色になっている。僕は田植えのことを知らないからどうしてあちらとこちらで作業の工程で差がでるのかわからない。でもとにかくあたり一面に広がる田んぼは見ていて気持ちが良かった。

「なあ、そろそろ教えてくれてもいいだろ?」

 僕は隣をのほほんと歩く粕谷に訊いた。

「よし、そうだなあ」

 粕谷はひと呼吸おいて伸びをすると「神様はいると思うか」と言った。

「神様?」

「そう、神様」

「そうだなあ……正直、僕はあんまり信じないな」

 僕がそう答えると粕谷は心底残念そうにため息をついた。続けて「まったくこれだから橙山は」とでも言いたげな素振りを見せた。

「なんだよ」

「いやあ、誠に残念でならん」

「残念? なんで?」

 僕がぶっきらぼうに言うと粕谷はどうしてかとてもさみしそうな表情をした。僕が神様の存在を信じないことがそこまでショックなのだろうか。それとも粕谷は何かの宗教徒だっただろうか。

 僕が訝しげな顔をしているのを見て粕谷は言った。

「橙山よ、神様はいるぞ」

「え?」

「だから、神様はいるのだ」

 しばらく僕は沈黙した。そして粕谷の顔があまりに真剣だから思わず笑ってしまった。

「笑うでない。神様は本当にいるのだからな。いや、いらっしゃると言ったほうがよいのか。しかしお前さんこれから神様にお願いに行くというのにそれではなあ」

「お願い? 何を? 僕お願いすることなんてないよ」

「何を言っとる。あるだろう、十分に」

 そう言われて少し考えてみたが思いつかない。あるとしてもせいぜい今週末に学校であるスポーツ大会の日が晴れますようにとお願いするくらいだ。というかあそこの神社の神様は(居るとしたら)なんの神様なのだろうか。

 僕は粕谷にむかって首を横に振った。粕谷はまたも残念そうにしてみせた。そして「青木さん」と言った。

「それしかないだろう」



 しばらく歩いて神社についた。

 こんな田舎の神社だから神社と言っても随分と小さい。どうしてこんなところにあるのかと不思議に思うくらいだ。

 神社はその全体を背の高い木に覆われている(名前はわからない)。一番前に鳥居があってその先には石畳の参道が続いている。空が木で遮られて小さく見える。こじんまりとして閉塞感があるが僕と粕谷はそこから入って本堂に向かってまっすぐ歩く。

 一応神様にお願いするわけだから、手水舎で手を流した。

 流すとき粕谷はやけに丁寧に流し方を教えてくれた。まず、水をすくって左手から流し次に右手。そうしたら残った水を左手で受け、口にふくんで清める。最後に柄杓(ひしゃく)を垂直にたてて残した水を伝わせながら柄杓を清める。これで完了だ。 

 粕谷があんまりに詳しいから「神社の子供なの?」と冗談で聞くと「これくらい常識だろう」とすまし顔でかえってきて少し恥ずかしい気がした。

 粕谷はここの神社の神様は恋愛の神様だとさっき教えてくれた。僕はそのようなことを全く知らなかったので粕谷の気遣いに感謝すると共に、神様を信じてお願いすることに決めた。

 お願いするのは、近日中にあると思われる席替えで僕と青木さんがまた近くの席になれることだ。あわよくば席替え自体をなしにしてほしけれどそれは恋愛の神様の専門外だと思うのでそうお願いすることにした。

 石段をみっつ上がって賽銭箱の前に立つ。僕は財布を取り出して、もちろん五円玉を選んだ。

 投げ入れる前に僕は後ろにいる粕谷の方を向いた。

「どうやってやるんだっけ?」

 僕はこの場合の正しい作法を知らなかった。だから「やって見せて」とお願いして粕谷に場所を譲った。粕谷は「一回しかせんからね」と言って僕の代わりに立った。

 僕は粕谷の動きを目を凝らして見た。

 まずはお賽銭を入れる。粕谷は投げ入れるのではなく、そっと置くように入れた。そして鐘を三回鳴らして礼を二回した。それから手を合わせて少し止まったかと思うと手を二回鳴らした。そして合掌したまままた静止。今度は少し長かった。お願い事のタイミングなのだろうと思った。お願い事が終わったのか再び礼をした。今度は一回。最後に一歩下がってもう一度礼をした。

「……とまあこんなものだ。ほれ」

 僕は賽銭箱の前にもう一度立った。五円玉をそっと入れてそのあとも粕谷と同じようにした。なんだか作法のテストを受けているようだ。

 青木さんの隣にもう一度なれますように。素直にそうお願いした。

 その時だった。どこからか声が聞こえた気がした。とても低くて厳かな雰囲気に満ちた声。

 僕は驚いて粕谷の方を振り返った。粕谷は姿を消していた。考える間もなく、その声はもう一度聞こえた。

「少年、おい少年」 

 声はきっと僕を呼んでいるのだとわかった。

「無視するでない、おいお前さんだ、少年」 

 僕はまずいことになったと思ったが落ち着いていた。この世には幻聴などというものがあるが、これはどうだろうか。まだ僕は十分に若い。耳の病気ではないはずだ。

 声はしつこく呼びかけてきたが僕はことごとく無視をした。賽銭箱に背をむけて耳を塞いで石段を降りる。

「お、おいどこへ行く。話はまだはじまっとりもせんぞ」

 声は妙に焦りながら語りかけてきた。

 おかしい、耳を塞いでいるのに声はしっかり聞こえるではないか。僕はいよいよ自分がおかしくなったのかと思った。

「悪いことはせんから。ほらもう少しこっちへ」

 僕は諦めて、一度降りた石段をもう一度上がった。

「おお、よう行かんでくれたな、少年」

 僕は黙って賽銭箱や鐘やそのほかいろいろと見渡した。一体何が僕に話しかけているのだろうか。

「そうきょろきょろとするでない。遅れたが、わしは名前をアカシノレンボカミという。まあ平たくいってしまえばこの神社の神様だ」

 僕の頭は働いてはいたが追いつかなかった。今は神様が僕に話しかけている。摩訶不思議な方法で。とにかくあいた口がふさがらない。アカシノレンボカミとはなんだろうか。

「今はこの奥のすこうし向こうから話しかけておる。声はお前さんにしか聞こえとらんからプライベートなことは安心したまえ。そもそも誰もおらんが」

 僕にしか聞こえていない声。確かに耳を塞いでも聞こえたのだから普通に話しかけられているのではないのだろう。まさか、本当に神様なのだろうか。

「うんうん、疑っとるな。まあ当然だの。お前さん、名前をなんという?」

 突然質問をされて虚をつかれた僕はうろたえた。そしてもごもごとしながら小さな声で「橙山駆です」と答えた。傍から見れば完全に独り言だ。

「うんうん、知っとるぞ。よう知っとる」

 神様はなんだか楽しそうに言った。姿は見えないが、僕は白いヒゲがよく伸びた頭がつるつるの仙人みたいなおじいさんが頷いている姿を想起した。 

「さてお前さんよ、さっきの願い事だが……」

 神様は突然本題に入ったようだ。僕は唾をゴクリとのんだ。何かまずかったろうか。

「席替えであの女の子の隣の席にする、それだけで良いのか?」

「え?」

 それだけ、とはどういうことだろうか。

「ま、まだ他に何かお願いしないといけないでしょうか?」

 僕は正面の空に向かって言った。違和感がつきまとう。

「いやいやお前さん、この手のお願い事はもっと他にあるだろう。こう、ほら」

 神様は口を濁して明言しないので僕にはわからない。僕が青木さんの隣の席になること以外に何をお願いすることがあるだろう。

「遠慮せんでもええんだぞ。わしも神様だからな、それなりの力はあるのだ。まさか疑っとるのか?」

「い、いや、他に何をお願いすればいいのか……」

 僕がそういうとしばらく間があいて神様は「はあ」とため息をついた。声だけのため息というのは耳に吹きかけられるようでひどく不愉快に感じた。

「やはりお前さんは鈍感だの。鈍間だ。まったくまったく」

 神様はどこか呆れたふうだった。小さな声で「これは上手くいくかなあ」と聞こえた。当然僕は心配になる。

「あの、なにかまずいのでしょうか?」

「うん、そうだな。まずいよ」

 はっきりと言われてしまった。神様は僕を手に負えないと放り出してしまうのかもしれない。

「なにがまずいかというとだな、君のそのあまりの幼稚さよ」

「幼稚?」

「いや、純粋さというべきかもしれないの。なにが言いたいかというと、とにかく君にはあの女の子のことを我が物にしたいという貪欲さが足りない」

 なるほど。とは思わなかった。なぜなら僕は青木さんを自分のものにしようと思ったことがない。それ以前に考えたこともない。僕は曖昧に頷いておいた。

「それでだの、いかにわしに縁結びの力があるといえどもな、お前さんにその意志がないと力を発揮することができんのだよ」

「はあ」

 僕は頷くしかなかった。そう言われましても、としか言えない。

「お前さん彼女のことが好きなのだろう?」

「はい。好きです」

「なら何故その先を考えない?」

「その先?」

 僕がそう答えるとまたも神様はため息をついた。何がそこまでいけないのだろうか。相手は神様と名乗るのだから、一応すべて正直に答えているというのに。

「まあ、よい。席替えのことは最善を尽くそう。上手くいくかはわからんがな」

「あ、ありがとうございます」

「気が向いたらまた来るとよいぞ。五円玉も忘れずにな」

 それを最後に神様の声は聞こえなくなった。僕は頭がスっと軽くなったような気がしてぶるると振った。そして石段を降りて元来た石畳の参道を歩いて鳥居へと向かった。 

 僕はもうこの時には半分くらい神様のことを信じて、すっかり粕谷のことなんか忘れていた。

 鳥居をくぐるとき左右の木が突然ざわざわと音を立てたので僕は立ち止まった。すると小さく神様の声が頭の中に響いた。

「言い忘れたが――」あまりに小さいので僕は声に意識を集中した。

「時間はいくらでもあるように見えてしっかりと有限だ。いいか、とにかく布石を打て。後悔先に立たずだからの」

 よりいっそう木が騒いだかと思うと次の瞬間には元の静けさに戻っていた。

 神様の言葉が反響する頭でもって僕は帰宅した。

 すこしだけ背中に当たる風が生暖かかった。

 


 その週末、僕たちの学校でスポーツ大会があった。よく晴れた雲一つない日だった。

 年に一度のスポーツ大会は、三学年が同時に丸一日かけて学年別に球技や陸上競技でクラス対抗戦を行う。優勝しても賞金などは決して出ないが、それでも毎年十二分に盛り上がった。今年もその例に漏れなかった。

 今回一番の盛り上がりを見せたのは三年生のクラス対抗リレーだった。その中でも最高潮の盛り上がりを見せた瞬間はある2クラスのアンカー対決、B組の粕谷対C組の青木さんだった。

 僕はそのレースでC組の第一走者を務めた。使命感からか柄にもなく緊張したのだけど、僕は運良く先頭になることができて一番に第二走者の子にバトンを渡すことができた。A、D、E組はバトンの受け渡しの失敗や転倒などがいきなりあり、その時点で優勝はB組かC組に絞られた。

 レースの最後、青木さんはC組のアンカーとして粕谷より二秒ほど早くバトンを受け取った。彼女は上手にバトンを受け取ると、姿勢を低くして一陣の風の如く駆け出した。彼女が駆け出したとき周りから感嘆の声があがった。スラリとした足が綺麗に回転して進んで行く彼女をその場の誰もが一度は見た。

 少しして粕谷もバトンを受け取った。

 やはり男子サッカーのエースとだけあって粕谷は相当に速かった。走り方は青木さんほど整ってはいなかったがそれでも速いやつに共通する走り方だった。

 二人が走っている前半、二人の距離はあまり変わらなかった。僕自身、さすがの青木さんでも粕谷相手では分が悪いかと思ったが、それをまったく思わせない爽快な走りでみんなを驚かせた。

 勝負の後半、アンカーだけは二百メートルを走るルールなので、コースはカーブから直線の百メートルに移った。

 粕谷は不慣れなカーブから直線に移ったところで真の力を見せた。

 直線に差し掛かったとき、二人のあいだには四メートル程の差があったが粕谷はその差をみるみると縮めた。まるで彼の背中に突風が吹きつけているかのような加速の仕方だった。 

 青木さんはかなり粘ったのだがゴール十メートル前でとうとう抜かれてしまった。レースはB組が優勝した。

 リレーのあと、最後のデッドヒートで気分が高まったBC両組は互いの健闘をたたえ合いグラウンドは拍手の音で包まれた。

 青木さんはクラスのみんなから「すごかったよ!」「青木さんで敵わなかったらしかたない」などと声をかけられていた。僕も彼女の正面まで行って「惜しかったね」と声をかけた。僕は彼女のことが好きだけど、不思議と話すときには焦りが出なかった。でもその時は彼女が悔しそうにニコッと笑うので、少しドキリとした。

 一方、痛快な逆転劇を演出した粕谷はクラスのみんなに胴上げされたり、なぜだかポカスカと頭を叩かれたりしていた。僕がそっと近づいて「もう少し手加減してくれてもいいじゃないか」と冗談混じりに言うと、粕谷はかかかと笑って「それじゃあ俺の沽券に関わるからな」と答えた。

 リレーが終わってしばらくして簡単に閉幕式が行われた。三年生の総合優勝はB組だった。やはりリレーの得点が高かったのだろう。惜しくも優勝を逃したC組はさすがにその時だけはリレーの結果を悔しがったがなんの遺恨も残らずに終わった。

 スポーツ大会終了後、僕たちは一度ホームルームをするために教室に戻った。



 先程までグラウンドでみんなして汗を流していたために、教室は制汗剤とむさくるしい男臭で充満している。窓は開いているがどうにも風が入ってこず空気はじんわりと重たい気がする。


 先生が「今から席替えをしようか」と言ったのはつい五分ほど前のことだ。ちょうど週末だし、時間もあるから今してしまおうということになった。

 先生はさっさとくじをこさえて教室の端から順番に引かせてまわる。

 あまりに急なことだったので僕は少しばかりうろたえていた。それと同時に神様のことを思い出していた。

 あのアカシノレンボカミと名乗った神様が本物の神様なら、きっと今はこの教室のどこかに居て、先生が持っているくじに何らかの妖力を送り込んで僕と青木さんが隣の席になれるように工作してくれているはずだ。

 ただ心配なことは、神様が言うところの「布石」を打ってないということだ。それに加えて、僕が青木さんを僕のものにしたいという欲が欠けていること。前者は僕の行動力及び勇気不足が原因だけど、後者に関してはそうは思わないので仕方がない。

 先生がこちらにやって来る。

 僕は青木さんがくじを引いたその次に引いた。とにかく祈る思いで引いた。なんとしても青木さんの隣になりたい。

 全員がくじを引き終わって、先生は黒板に席の見取り図を書くとそこに適当に数字を書き始めた。この席替えは僕たちがくじを引くことと先生がランダムに数字を席に合わせることの二段構えになっている。だから先生にお願いしてしてもらわない限り工作はできない。そして先生は絶対にそれをしてくれない。

 僕はとにかく神様にお願いした。

 しばらくして先生が数字を書き終わって、「それじゃあくじを開けてー」と言った。僕は握りすぎてふやふやになったくじを開いた。くじには「7」と書かれたいた。すぐさま顔をあげて席を確認すると「7」は今僕が座っている席に書かれていた。僕の席は変わらなかった。

 それからすぐに青木さんの方を見た。青木さんはまだ自分の席がどこか見つけていないようで、黒板に向かって小さく指をさしながらひとつひとつ確認している。そして「あっ」と言うような表情をすると教室のむこうの方を見るような素振りをした。

 「7」の番号が出て「ラッキーセブンだ!」などと思っていた僕に、突然冷たい風が窓の外から吹きつけた。


 

 その放課後、僕はいつもの河川敷を粕谷と一緒に歩いていた。

 昼間の晴天から一転、空は灰色の雲で覆われてその高さを低く見せている。肌に冷たい風が吹いている。

 僕と粕谷が一緒にこの道を歩くのは神社に行ってからは初めてだ。神社と言えば、粕谷はあの時僕の傍からいなくなってしまった。僕はすっかり粕谷のことなど忘れて帰ったのだけれど、どこに行っていたのかとあとから訊くと、「ああ、あの時は用を足したくなって……」と答えた。どうにも怪しいが僕は言及はしなかった。


 僕はただただ黙って歩いていた。隣の粕谷は「何もそこまで落ち込まなくても」「休み時間でもいつでも話せるだろう」と、慰めかそうじゃないのか判然としない言葉で気持ちが完全にふさがった僕をなんとかしようとしてくれている。それでも僕は黙ってため息しかつかなかった。

 思い返せば僕と青木さんは本当にほんの些細な会話しかしてこなかった。例えば昨日見た夢やテレビ番組のこと。もう少し踏み込んだとしても僕がつけているミサンガのことや彼女が使っている手作りの栞のことくらいだった。あの子が好きだとか苦手だとかいう話は一切したことがなかった。僕が青木さんと話すことがあったのは彼女が運良く僕の隣の席だったからだ。彼女が転校生で他に仲のいい男子の友達がいなかったからだ。そんな、僕にとってまたとない好機を失ってなお、僕は彼女に話しかけることはできるだろうか。

 神様は結局仕事をしてはくれなかった。少しでも信じた僕が悪かったのか、それとも僕が神様に働いてもらうための条件を満たせなかったのか。それはわからないけど、神様が僕に言った「時間は有限」ということは本当だった。僕にとってあまりにも好ましい状況はいつまでも続いてはくれなかったのだから。


 僕たちは河川敷を越えて橋を渡る。

 少し前までは僕をどうにかしようとしていた粕谷は諦めたのか、しばらく口を塞いでいた。それでも間がもたなくなって苦しくなると粕谷は僕の背中をバシっと叩いた。

「何をくよくよしとる。まだお前さんと青木さんは何も始まっとらんだろう」

「いや、そうじゃ」

「いやそうだ。お前さんはもう青木さんと話す機会がないなんて思っとるんだろう」

 図星だった。僕は口を曲げてみせた。

「付き合っていた男女が別れたのならともかく、お前さんと青木さんは席が離れたって何も終わったわけじゃない。始まっとりすらせんのだからな」

 粕谷は僕の顔を覗き込んで言った。僕は大きく息を吸って吐き出した。しばらく粕谷は僕の様子を見ていたようだが、僕が何も言わないとまた口を開いた。

「話しかけるかどうかはお前さん次第だ。それは当然勇気がいることだが、彼女に近づきたいのならそれしかない。橙山よ、周りの目なんか気にすることはないのだ」

 粕谷は僕の背中をバシバシと叩いた。僕は彼の言葉を噛み締めながらどうして粕谷はこんなにもいろんなことがわかった風に話すのだろうかと不思議に思った。おじさんというよりも最早おじいさんのようでおせっかいだ。

 それでもなによりこうしてくれることは有難いと思った。

 そんな調子で僕と粕谷は着々と家へと歩を進めた。別れ際、粕谷は「そうそう」と僕を呼び止めた。

「具体的な助言をするとだの、話しかけるなら月曜日の朝一番に話しかけると良いと思うぞ。今日は金曜だから二日空いてしまうがそれでよい。とにかく、次に青木さんを見た時に話しかけるのだ。おはようでもなんでもいい、とにかく対話を図るのだ。ああそれから、時間があるならもう一度神社に行ってみるのが良いだろうな」

 そう言って粕谷はさっさと家に続く小さな道を行った。僕もクルリと身を返して家に向かった。

 僕は家についたとき、いつもより大きな声で「ただいま」と言った。

  


 土曜と日曜を僕はまるっと家で過ごした。意図したわけではないが一歩も家を出なかった。普段ならばテニスの練習に出かけてるのだけど終わってしまったので当然ない。

 神社には行かなかった。神様を信じるとか信じないとかそういう話ではなくて、これは僕自身の行動でどうにかするべきだと思ったからだ。

 土曜日は雨が降っていたけれど、日曜日はとてもいい天気で、五月といえど少し汗ばむ陽気だった。僕はその日の大半を、僕の部屋から見える庭に植えられたユニファーの木を見て過ごした。たまに居眠りもした。

 居眠りをしたせいでその日の夜はなかなか寝付けなかった。なんとか眠りについたけど変な夢を見た。夢は覚醒した時に忘れてしまうのが大概だけど、僕はその夢を克明に思い出せた。

 僕は、はじめは魚になって海を泳いでいた。海の中にはありとあらゆる種類の魚がいて僕と一緒に泳いでいた。僕はなぜだか自分が魚だということを知っていてみんなと一緒に深海を目指している。十分に深いところまできたかと思うと、そこでは煌く星が見えた。恍惚とそれを見ていると、そこで僕は宇宙を放浪する一つの塵になっていることに気がついた。遠くに地球が見えていて僕はそっちに向かって宙を泳いでいた。地球が随分大きく見えだした頃、はっと気がつくと僕の体はオレンジ色に染まっていた。僕はとても大きな雲になっていた。きっと入道雲だろうと思った。そこからはこちらに向かって屹立する山々や悠々とむこうの方まで流れる川やそれにかかる橋、一面の田んぼ景色が見えた。僕はしばらくそのまま空をぷかぷかとしていて、そのうちに川縁に一人の女の子を見つけた。僕はどうしてか、なんとかしてそこまで行こうとした。だけれど、体が軽すぎて上手に地面に近づけなかった。そうして四苦八苦していると目が覚めた。

 起きると体は寝汗でグッショリですうすうとした。窓を開けたままにしておいたせいで喉が痛かった。

 ベッドでぼうっとしていると、夢に出てきた女の子は青木さんだったのかとようやく気づいた。彼女が出てきたのは嬉しいことだけど、なんだか彼女に手が届かなかった歯がゆさが嫌に思えてきた。

 口の中に苦いものを感じながら僕はどことなくむっつりとしながら支度をして家を出て学校に向かった。

 


 教室に着いて、僕はいつもの窓際後方の自分の席についた。僕は変わっていないが皆の席が違うので教室はなんとなく様変わりした風だった。

 僕は青木さんが来ていまいかと僕の席から一番離れたところの席を見た。青木さんはまだ来ていなかった。

 僕は青木さんに今日朝一番で話しかける決心をしてやってきた。彼女がまだ来ていないので出鼻をくじかれてしまったが、僕の気持ちは変わらない。

 青木さんを待ちながら外を走る電車を眺めていると、新しく隣の席になった小野田君が「よろしくね」と声をかけてきた。僕はそこはかとない態度で「こちらこそ」と返事をした。正直内心は青木さんに話しかけようとするが故の緊張でそれどころじゃないのだけれど。

 

 朝のホームルームの時間になっても青木さんはまだ来なかった。僕と青木さんが隣同士だった時は彼女は一度の遅刻も欠席もしたことはなかった。僕は不思議に思った。同時にどこか嫌な感じがした。

 数分も経たないうちに前の扉がガラリと開いて先生が入ってきた。なんだかいつもの顔つきと違う感じがするなと思って見ていると、その後に続いて青木さんが入ってきた。僕の胸はざわついた。

 先生は神妙な顔つきで手に持っているいろんなものを教卓でドンとやると、いつもより低い声で「みんなに大事な話があります」と話しを始めた。

「急な話ですが、一学期を持って青木さんが転校することが決まりました――」

 今、なんて?

 

 騒がしくなる教室で、先生はそのあとも色々と話していたけれど、僕の耳にはその声も教室のざわざわとした声も何も入ってこなかった。

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