(1)
大学生になって元居た田舎町から出てきて半年、この街にも生活にも慣れただろうか。
今日は天気がすごくいい。都会の空は田舎の空ほど大きくて高くない、それでもここから今見えている景色は綺麗だ。
休日というのは怠けがちだ。朝はいつまでだって寝てられるし起きたって着替える必要もない。あまつさえ食事をとる必要もない。
でもこの日僕は休日にも関わらず、朝は七時に起きて買ったばかりの新品の服に着替えてしっかりと朝食をとった。
なぜなら来客があるからだ。
その人は午後四時にここにやって来る。
それまで何をしていようか。
変なそわそわ感と暇を持て余して、僕は窓際の椅子に腰かけた。
たまには読書もいいかもしれないな。
§
○
中学生最後の部活の試合がさっき終わった。
もう少し粘れば…なんて考えても後の祭りだということはわかってる。それでもほかの運動系部活のみんなよりも一足早く終わってしまうのは寂しいし何より悔しく思う。
きっと粕谷のやつは勝っていると思う。アイツのポジションは確かフォワードだったからたくさん点を取ったとなどとしれっと言ってくるにに違いない。
やっぱり悔しい。
今は帰りの電車の途中だけれど、周りの皆がいなかったら僕はきっと思い切り泣いていただろう。半べそをかいていたことはバレているかもしれない。
まだ五月の半ば。これから現実がやって来るんだと思うと一層泣けてくる。
先生たちは進路や受験にむけて勉強勉強と口うるさく言うようになるのだろう。そうなったら僕は大好きな顧問の上久保先生のことも嫌になってしまうのだろうか。
ため息ばかりだけどこういう時に出てくるのがため息なんだから仕方がない。
僕があんまりにため息ばかりついているから傍に立っている内藤が気をきかせて「気にするなよ」と声をかけてきた。
「俺たち軟式テニス部三年生は全員市内大会で敗退。逆に清々しいじゃんか」
内藤はカラカラと笑いながら言った。
彼の言う通り僕たち軟式テニス部三年生はひとり残らず市の大会で敗退した。誰か一人が勝ち残ってなんだか嫌な雰囲気が漂うようになるよりはいいと思うけれど、あくまでスポーツという勝負の世界においてそれはどうだろうか。
「内藤は悔しくないの?」
僕は訊いた。すると内藤は首をかしげながら「うーん」と言って答えた。
「そうだなあ、悔しくないといえば嘘になるな。でも俺は負けは負けだって潔く認められるかな」
「そうか…」
「なんだよ?橙山は諦めつかないのかよ?」
「いや、そういうわけではないんだけど」
僕は曖昧な返事しかできなかった。
窓の外に視線を向けていると、いつの間にか内藤の顔が僕の顔のすぐそばにあって驚いた。内藤は僕に何かを耳打ちしたいらしい。
「もしかして橙山が浮かない顔してるのは、青木さんが原因か?」
その瞬間僕は耳が熱くなるのを感じた。そして反射的に「何言ってんだよ」といって内藤を振り払っていた。
内藤は少しふらつきながらも「わかり易いやつだなあ」とか言っている。
僕には一体何がわかり易いのかわからないけど、とにかく火照った体を冷まそうと心がけた。僕がそっぽを向いてしまうと、内藤はそれ以上何も言ってこなかった。
車窓から見えるのは家と山と川と田んぼと畑くらいだったので僕は退屈した。そうして気がつくと僕は青木さんのことについて考えていた。
彼女は今日の大会で無事に勝てただろうか。彼女より足の速い人なんてそうはいないと思うけれど、なにが起こるかわからないのが本番だから心配だ。
杞憂に終わってくれることを僕は祈っていた。
○
青木さんは転校生だ。中学三年生の四月に僕の住む町に引っ越して来た。詳しいことは知らないけれど親の都合で青木さん一家は国内を点々としているとのことだ。僕は生まれてから引越しというものを経験したことがない。けれどそれがどういうものなのかはっきりとではないけれど想像はつく。きっと寂しくて悲しいはずだ。
でも僕は青木さんはそうは見えなかった。
教室で僕の席は窓際の一番うしろのところだ。青木さんが来るまではクラスの人数は奇数だったのでちょうど僕のとなりが空いていた。だから青木さんは僕の隣に座ることになった。
その時僕には青木さんが外国からやって来たかのような少女に見えた。これは容姿ではなく雰囲気がだ。ショートカットに利発そうな顔立ちがそう思わせたのかもしれない。とにかく彼女は上品だった。
僕が青木さんと話す機会はすぐにやってきた。
僕が教科書を忘れてしまったのだ。今までは忘れてしまたら隣のクラスの奴らに借りていたのだが、その日は授業が始まるまで必要な教科書がないことに気がつかなかったのだ。だから僕はあまり親しくない人に話しかけたがらない性分を抑えて青木さんに「忘れたから見せてくれない?」と言ってお願いした。すると青木さんは少し微笑みながら優しい口調で「いいよ、じゃあ机ひっつけよっか」と言ってくれた。それまで張り詰めていた顔が和らいだのが可愛らしく思えて、僕はその授業中に鼓動が早まっていた事を今でも覚えている。
僕の学校は生徒全員が何かしらの部活動をすることを義務付けている。青木さんは陸上部に入った。もともと走ることが好きらしい。彼女曰く「正面から感じる風が気持ちいい」のだそうだ。
僕が初めて彼女の走りを見たときの衝撃は、きっとこの先忘れることはないだろう。
テニス部のグラウンドは陸上トラックのすぐ横にある。ある日、僕らが休憩しているときに陸上部はリレーの練習をしていた。何気なしに見ていると青木さんがいるのがわかった。
最初青木さんのいる組は勝っていたのだが、青木さんの前の男子が抜かれてしまった。二メートル差くらいで青木さんはバトンを受け取って走り出した。その時僕は目を見張った。青木さんは誰の目にもわかる綺麗なフォームで駆け出し、あっという間に前を走っていた子を抜いて、三メートルほど突き放し次の子にバトンを渡した。まるで風が駆け抜けていくように見えた。
僅か十数秒の出来事に、僕は釘づけになっていた。今までにあんなに可憐に美しくそして速く駆けていく少女を僕は見たことがなかった。
あの時から僕は青木さんに一目置くようになったのだと思う。
○
電車は決められた道を走っていって、次第に僕の町の駅に近づいていった。見慣れた景色が目の前を流れていくとなんだか安堵感を覚えた。
電車を降りて駅を出ると上久保先生が待っていた。先生は車で一足先に帰ってきていた。遠くに見える先生は夕焼けに染められていい具合に哀愁が漂っている。
先生は僕らの姿を認めると「お疲れ様」と一言ねぎらいの言葉をかけてから整列させた。大事な話は現地で済ませてきたので先生は点呼をとったのみで特に大義なことは何も言わずに僕らを解散させた。
「寄り道はするなよ。気をつけて帰るように」
先生の言葉に、僕らは「はい」と声を揃えて返事をしてから帰路についた。
僕の家は駅から歩いて十数分のところにあるので徒歩で帰ることができる。ほかのやつらは自転車だったりバスだったりと色々だが、内藤が僕と同じ徒歩なので一緒に帰ることになった。いや、なってしまったという方が正しいかもしれない。
内藤はニヤニヤしながら僕の方にやってきた。夕陽に照らされた内藤の顔はほりの深いお地蔵さんのようにみえた。
「青木さんは無事に勝ったかな?」と言って彼は話を切り出した。やっぱりそうきたか、と思いながらも僕は普通に反応してみせた。
「きっと大丈夫さ。青木さん、足は本当に速い」
僕がそう答えると内藤はつまらなそうな顔をしてみせた。また僕の顔が赤くなるのが見たかったのだろうが、あいにく今は夕暮れどきなどでもともと顔は赤っぽくなっている。多少赤面したって分かりはしないのだ。
僕が歩調を早めて歩いていると、内藤は電車のときのように顔を近づけてきた。僕が鬱陶しそうにしても気に留める様子もない。
「なあ、橙山さ、お前青木さんのこと好きなんだろ? 告白とかしないのかよ?」
「はっ?」
あまりに突然のことだったからことのほか素っ頓狂な声を出してしまった。そしてその時僕の顔は正面の夕日よりも赤くなっていた。
「だから青木さんのこと好きなんだろ?」
「好きって、なにがだよ!?」
「だから青木さんだよ」
「は?」
「え?」
僕には内藤が何を言っているのかわからなかった。言っている言葉がなにかはわかるのだ。でも意味がわからない。僕が青木さんのことが好きだと彼は言う。それがわからない。
僕が首をかしげていると内藤は「俺の勘違いか?」などど謎めいたことをぶつくさと言っている。言いながらこちらもまた首をかしげている。
少しして大きな川にかかった橋のところまでやってきた。僕の家は橋の向こう側で、内藤の家は橋のこちら側なのでここで別れた。彼は別れ際まで僕のことをジロジロと見ては「いや、そんなハズないだろ」「絶対に好きだろう」などど何故か不満げだった。
○
僕は内藤が言っていたことを頭の中で反芻しながら橋の上を歩いていた。
それでもよくわからないので最後には橋の上から見える景色に意識を傾けていた。
僕が住むこの第一級田舎には大きな川が町を北から南へと横断するように流れている。その川には車用の大きな橋と歩道用の小さな橋の二本がかかっている。学校は駅の方向にあるので僕は毎朝この橋を通って学校に行く。
僕はこの橋の上から見える景色が大好きだ。
朝は川がきらきら光っていて吹いてくる風が心地いい。空は澄み切っていて下流のずっと遠くまで見渡すことができる。河川敷の緑とのコントラストがとても綺麗に見える。
今は夕方だから日が傾いて橋は川に影をおとしている。遠からず近からずそこに見えている雲は、照らされて側面が真っ赤に燃えるようになりながらもその真ん中は紫色に陰っている。橋の向こうにちらほら見える建物はみんなオレンジ色に染まっている。
昔からこの景色は好きだけれど、僕は最近ますますここから見える景色を気にいるようになった。
河川敷のところにはいくつかアスファルトの階段がある。たまに、放課後僕がここを通っていると青木さんがそこに座っていることがあるのだ。
青木さんはいつもそこで読書をしている。どんな内容の本を読んでいるのかはわからないけれど、僕にはその時の青木さんがどこか物憂げに見える。夕方独特の物寂しさというのもあるけれど、それ以上に暗い感じがするのだ。
当然、今日は青木さんはそこにいない。彼女も自分の陸上の大会に行っているからだ。それでも僕は橋の欄干にもたれかかっていつも青木さんが読書をしている階段をしばらく眺めていた。
以前、青木さんに「読書が好きなの?」と話しかけたことがある。その時も青木さんは優しい口調で答えてくれた。
「そうなの。読書は昔から好きなんだ。だって、本はいつだってそばにあるでしょう?」
僕には、その言葉の後半の意味がわからなかったし今でもわからない。僕が本を滅多に読まないからだろうか。確かそのときは「そうなんだ」なんて適当な返事をした記憶があるのだけれど、果たしてそれで良かったのかと今では疑問に思っている。
階段のところをぼうっと眺めていると、風が冷たくなってきたように感じた。僕は適当な石を拾って掌で弄びながら家に向かった。
○
その日の晩、僕は衝撃をうけた。
僕が青木さんのことが好きだということが判明したのだ。
夜になっても内藤が言っていたことが気になって、僕は「人を好きになる」ということがどういうことなのか辞書やインターネットを使って調べた。そして、僕の感情や行動を検索結果に当てはめていくうちに、僕が青木さんのことが好きだということが判明したのだ。
一番の決定打になったのは、「好きな人のことを考えていると胸がドキドキする」ということだった。まさに僕はそうである。青木さんのことを考えていると胸がドキドキして、時には苦しささえ感じる。
僕は今日の今まで好きな人ができたことがなかった。過去のどの記憶を辿っても、今僕が青木さんに抱いている感情と同じ感情を抱いた記憶はない。小学一年生の時のコハルちゃんも、三年生の時のルイちゃんも仲は良かったけれどその対象ではなかったように思う。
もしかして、クラスの皆は僕が青木さんのことが好きだということを知っているのだろうか。少なくとも内藤はわかっていた。もしかすると粕谷のやつもわかっているのかもしれない。
僕は急にクラスの皆が大人に思えた。彼らはどうして教えられてもいない他人の感情がわかるのだろうか。まさか読心術を身につけているはずがない。
今までこのようなことについて僕は友達と話をしたことがなかった。もしかして皆にも僕と同じように好きな人がいるのだろうか。明日にでも粕谷に聞いてみようと思う。
僕はその晩、妙なそわそわとふわふわ感に包まれて眠りについた。
○
翌日、僕は学校で粕谷に会った。
粕谷がいるサッカー部は見事市内の大会で優勝して県の大会に進出することが決まった。
どうやら昨日の粕谷は非常に調子がよかったらしく、八面六臂の大活躍の末、全三試合のうちで七点も得点を挙げたらしい。普段は自慢など滅多にしない粕谷だけど、このことは少し誇らしげに話していた。
粕谷は僕の中学生活で一番最初にできた友達だ。今では親友だと胸を張って言える。
彼は長身で肉付きもいい。僕が隣に並ぶとまるで親子のように見えるかもしれないくらいに粕谷の顔は大人びている。雰囲気もほかのやつより頭一つ抜きでで大人な感じだ。それゆえに彼は女子たちにちやほやされていることがおおい。今思えば、ちやほやしていた女子たちはみんな粕谷のことが好きなのかもしれない。
彼は小学校と中学校の間にこの田舎に引っ越してきた。だから家は近いけれど二人の部屋を行き来した思い出はない。僕らが行く場所といえば、近所の駄菓子屋か公園くらいだった。そういえば最近は二人共クラブが忙しくて久しく遊んでいない。
その日の放課後、昨日が大会だったこともありサッカー部の練習は休みになったので、僕は一週間ぶりくらいに粕谷と一緒に下校した。
僕が試合で負けて部活動が終わったことを伝えると、粕谷は返事に困ったようにしながらも僕を励ましてくれた。やっぱり親友というものは唯一無二だと僕はこの時に思った。
「そうか、橙山はこれから勉強かい」と粕谷は夕陽を見ながら呟く。粕谷は独特の話し口調だ。なんといのか、少しおじさんみたいに感じる時もある。
「うん」僕は石ころを蹴りながら歩く。
「勉強できるだろう? 橙山は?」
「うん、まあそこそこ」
「学年で一桁の順位に入ってるんだろう?」
「毎回じゃないけどね」
「いや、十分だ。すごいことだよ」
「別にすごくなんか」
「いやいや俺を見ろって。知ってるだろうが、俺がテスト毎回赤点ギリギリ回避に苦しんでるのをよ」
「確かにそうだけど」
僕は石ころを遠くまで蹴飛ばした。
確かに粕谷は勉強ができない。いや正確にはしていないだけだ。というかする必要がない。なぜなら彼は将来的にサッカーで飯を食っていくことを目標としているからだ。つまり高校にもサッカーの推薦で行くつもりなのだ。そしてそれは実際可能なようである。彼を見るために高校から先生がやってくるくらいなのだ。
僕たちはいつもの道を通って帰った。
学校を出て踏切をわたり、橋に向かって河川敷を歩く。周りにはほんの少しの家と細い車道とずっと向こうまで広がる田んぼしかない。まさに田舎と呼ぶにふさわしい場所だ。
あたり一面をオレンジに染め上げる太陽は今にも山と山の谷間にすっぽりと消えそうだ。空はそこだけ赤く、東側の空は紺色になっていてとても綺麗に見える。そよ風が頬をなでていて心地がいい。
それでも、いつもの帰り道なのにどこか違和感を感じる。久しぶりに粕谷が隣にいることだろうか、それともいつもは持っていたテニス用の鞄を持っていないことか、はたまた珍しくジャージではなく制服で下校していることが原因なのか。
そのどれでもない。
僕は原因が別にあることを心の奥ではわかっている。
僕がだんまりになったので粕谷は「おい?」と聞いてくる。僕は適当に「あ、いや」と返事をしてもう一度石ころを大きく蹴飛ばした。
「あれ?」
首をかしげて粕谷が言った。「ほれあそこ、あれは青木さんではないか?」
「え?」
僕は粕谷が指差す先を見た。川の向こう側、河川敷の階段のところに一人の少女が座って読書をしている。間違いなく青木さんだった。
「本当だ」
僕は胸の高鳴りを感じた。まだこれだけの距離があるのに、そこに青木さんがいるというだけでどうして体は反応するのだろうか。これはやっぱり「好き」ということなのか。
僕は粕谷に聞くことがあったことを思い出した。
僕が口を開くより先に粕谷が先に喋りだした。
「あの子は何であそこで本読んどるんだろうな」
「本が好きらしいよ。前に聞いた」
「それでもあそこで読むことはないだろう?」
確かにそのとおりだ。僕は彼女があそこで本を読んでいるのが満足だったから、あそこに座って読書をしている理由を訊いたことがなかった。
「確かに」
「なんだ? 毎日隣にいて知らないのか? 俺はてっきり橙山は知ってるのかと」
「それは訊いたことがない」
「それはいかんなあ」
「なにがいかんのさ?」
「そりゃあさ、だってお前さんは……」
粕谷はそこで言葉を濁して「まあ、いいかあ」と続けた。何がいいのかわからないけど僕は追及しなかった。
僕は青木さんを見ていた。彼女は活字に夢中でこちらに気づいている様子は微塵もない。
これだけ離れていても、青木さんの栗毛色の髪はよくわかる。よく手入れされた綺麗な髪の毛は陽の光を規則正しく反射している。こうして見ている今もその髪が風になびくたびに心が弾む気がする。それだけで僕の気分は晴れやかになる。
僕が青木さんを見ていると、またも「おい?」と粕谷は声をかけてきた。
「いつまで見とる」
あまりにぶっきらぼうに問うてきたので僕はうろたえた。
「べ、べつに見てないさ」
「嘘をつけ。しっかり見ていただろう」
「嘘じゃない」
「まあいいよ。それより橙山よ」
「なに?」
「そろそろ席替えする頃だけど、お前さん、このままで大丈夫なのか?」
「席替え? ああ、そろそろだね」
中学生は席替えをしたがる。だいだいひと月かふた月に一度はするものだ。僕はそんなに頻繁に席替えをする必要はないと思っている。どうせ授業中は仲のいいやつと話すことができないわけだから席なんてどこだっていい。
それに今回に限っては僕は今の席を非常に気に入っている。一番後ろは先生の監視が行き届かないし、窓際だからすぐそばを走る電車を眺めることだって、空眺めることだってできる。それに今は何より僕は青木さんの隣の……。
「あ、そうか」僕は気がついた。
隣で粕谷がうむと頷く。
僕は阿呆だ。いつまでも青木さんの隣の席に居れると思っていたのだから。
途端に風が冷たくなった感じがした。胸のところがすうすうとする。僕はどうしてか慌てて青木さんの方を見た。彼女は先ほどとなんら変わらず読書を楽しんでいるように見える。
僕と青木さんがいつも些細なお喋りするのはいつもあの窓際の席でだ。寧ろそこ以外で話したことなどほとんどない。廊下ですれ違った時などに軽い挨拶を交わす程度だ。もし今度の席替えでまったくの離れ離れになってしまったら僕は青木さんと話す機会を失ってしまうのか。
気分が沈む。ずぶずぶと泥沼にはまっていくように足取りが重くなっていった。
「席替えか、考えてなかった」
「これだからお前さんは。それより布石は打っておいたのか?」
「布石? 何の?」
僕が答えると粕谷は「こりゃだめだ」と言わんばかりに頭に手をあてた。
「お前さんと青木さんが結ばれるための布石に決まっとるだろう」
「は? 結ばれる?」
僕は赤面した。結ばれるということはつまりはアレということだ。僕が青木さんとデートをしたりその他いろいろするということだ。そんなことはこれまで考えたこともなかった。僕は昨日まで自分が青木さんのことが好きだということが分かっていなかった分際なのだ。考えるはずもない。
「わかり易いやつだのう」と粕谷と言ってはニヤニヤ笑った。その時僕は既視感を覚えた。そしてすぐに思い出した。昨日、内藤にも同じことを言われたことを。
僕はさっき、粕谷に対して「僕が青木さんのことが好きだということをわかってた?」と訊こうとした。だが、粕谷のこの感じからするに、内藤同様分かっているようである。だとすると二人以外の奴らもわかっているのだろうか。
僕の顔はますます赤くなった。なんとか口を開こうとするのだがもごもごとしてしまって上手く言葉にできない。粕谷はますます愉快そうにした。
「……僕が青木さんのこと好きだってこと、そんなに分かる?」
僕は白状して訊いた。訊いた瞬間に「もちろん」と返事がかえってきて僕の顔はもうトマトとか林檎のようになってしまった。
「俺はお前さんと一年の時からずっと一緒にいたからの。青木さんと喋ってるお前さんを見てすぐにわかったぞ」
「そうかあ」
それは恐れ入った。つまり粕谷は僕が僕自身の気持ちに気づく前に僕の気持ちに気づいていたのだ。だてに長いこと一緒にいたわけじゃないなと思った。
「それってほかの奴らもわかってるかな?」
「いや、そんなことはないと思うぞ。気づいてたとしてもお前さんと同じテニス部の内藤くらいのものだろう」
僕はそれを聞いて安心した。根拠はないけれど粕谷が堂々と言うのだからきっとそうなのだろう。僕には粕谷の言うことを信用しすぎる節があるのだがここは流しておく。
○
しばらくして僕たちは河川敷を歩ききって川にかかる橋に移行していた。
「それはそうとして橙山よ。これからどうする?」
「どうするって言ったって……」
「まさか何もせんつもりか?」
「席替えはどうにもならないし……」
「席が離れる前にすればいいではないか」
「そんなこと言ったって……」
僕は言葉に詰まった。何をすればいいのかわからないし、それを思いついたところで実行する気持ちがあるのかもわからない。
橋を渡っていると少しずつ青木さんとの距離が近づいてくる。ずっと姿勢を変えないで、たまに風に吹かれた髪を手でといでいる。この時はなんだか青木さんを見ているとさみしい気持ちになった。それもこれも席替えが原因だ。
「確かに、好きな子との距離を縮めるのは難しいなあ」
粕谷はのんびりと言った。まるで何かを思い出している風だ。僕は思いついたことをそのまま訊いてみることにした。
「粕谷には好きな子いないの?」
「ん? 俺か? 俺はなあ…」
粕谷は視線をそらして頭をかいた。そして「いや、今は俺のことはいいのだ」とはぐらかした。
「今は橙山の一大事だからな。俺のことはどうでもいい」
「ずるいぞ自分だけ」
「なにもずるくないぞ。俺は何も言ってなかっただろう。そっちから自分が青木さんが好きだって言ったのだから、俺が言わなくてもずるくない」
「くそう」
「橙山も俺に好きな子がいるのかいないのか、いるとしたら誰なのか当ててみるといい」
そういって粕谷はかかかと笑った。まったく、小憎らしいやつだ。
そうして僕たちは橋を越えた。
青木さんはもう振り返らないと見えない。最後にちらりと見た青木さんは相変わらず活字に夢中だった。それがなんだか僕には嬉しくもあったし悲しくもあった。
家の近くまでやってきて粕谷と別れるとき、彼は突然妙なことを言った。
「橙山よ、明日、神社に行かんか?」
「神社?」
「あるだろう? この田んぼの道をずっと行ったところに」
「ああ、あそこか。でもなんで?」
「まあまあ、それは明日行くときにでも話そう。明日も今日と同じ時間にな、それじゃあ」
粕谷はそう言ってこちらの返事も待たずにとっとと行ってしまった。僕は何か気になりながらも取り敢えず家に帰った。
帰る途中に見上げた空はもう随分と暗くなっていて、「この暗さじゃ、青木さんも本を読むのやめて帰ったかな」と思った。




