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一番は君

作者: コウとフク

 

 早々と自転車を漕いでいると、体に当たる風が痛くて身震いした。今年は特に冷え込んでいて、今朝は最低マイナス一度らしい。

 俺は自転車を漕ぎながら肩を小さくすぼめた。中学校までの道のりは二十分。遅刻しそうなため、息はかなり乱れている。    

 学校到着まで、あと少しの距離に急な坂道がある。そこに差し掛かかると、いつものように立ち漕ぎした。俺はこの先、山の頂上にある(さん)(ごう)中学校に通っている。

「はあ」

 坂を登りきると、再びサドルに腰を落とした。ぐいっと片足を上げ、ぐっと押そうとした時だった。前の方に黒い影が見えたので、慌てて急ブレーキをかけた。「うわっ」と、思わず声が漏れる。

 よく見ると、茶色い上下のスーツ姿の人が道路の脇に倒れていた。自転車を道路の脇に止めて、駆け寄った。かがんで顔を窺うと、無精髭の生えた男だった。小奇麗なスーツ姿で浮浪者には見えない。不安がよぎった。寒さで凍死、それとも何らかの事件に巻き込まれた死なのか。周りには人は見当たらなかった。

 目はきつく閉ざされ、唇は紫色に変色し、ひどく荒れている。顔色は透き通るように白かった。三十代前半辺りだろうか。

「お……い、あんた」

 心臓が収縮して指先が震え出した。死体だったらと、息を詰めて軽く吐き出した。

 しばらくすると、何も聞こえなかった吐息が撫でるように俺の顔面に吹きかかった。白い煙に似たものが冷気と一緒に舞う。

 死んでいなかったと知って、ほっと肩の力を抜いた。必死に肩をゆさぶると、男はぼんやりと目を覚ます。「頭、痛い」と小さく呟き、ゆっくりと上半身を起こした。

「ここ、どこ……」

 擦れ声には覇気がなく、酒の臭いがした。

「山郷中学校の近くですよ。大丈夫ですか!救急車とか呼んだ方がいいですか?」

 倒れている人なんて、滅多に見たことがない。気が動転していて、体から冷や汗が噴き出てきた。男は目を閉じて、頭を抱えた。そして、俯いた後に手を差し出し、俺の腕を掴んできた。ぎょっとした。

「君はもしかして中学三年生? 名前は?」

 右胸についている名札を見て、学年がわかったようだ。俺は咄嗟に「晴島早人(はれじまはやと)」と答えた。答えた後に危険人物に教えるべきではなかったと後悔した。男は目を輝かせ、微笑んだ。

「申し訳ないが、家まで送ってくれないか」

 本当は学校もあるし、それ以上に見知らぬ男を家まで送るという行為が恐ろしかった。

 色々思ったが、仕方ないと腹をくくり、助けることにした。人助けをしたらきっといい事があるのではないか、と前向きに思い直す。 

 男の冷えきったマネキンのような体をようやく立ち上がらせた。その後、肩を組む形で自転車を引きずり、一緒に歩き出す。

 

 学校から、そう遠くはない道のりで徒歩十分くらいだろうか。男に案内されたのは掘っ建て小屋のように小さい平屋の一軒家だった。外壁は白いが黒いカビのようなものが付着していて、汚れていた。

「悪いね」

 玄関でよかったものの、無理やりリビングまで通された。室内は外観とは違い、よく片付いて、テレビやエアコンと電化製品は真新しい。黄色い革張りソファーに座ることを促される。鞄を横に置くと、男はお茶の入った白いカップをテーブルに置いた。

 ガラス製テーブルに出された温かいお茶を、「いただきます」と言って、口に運ぼうと手に取った。カップに指が触れると、火傷しそうなくらい熱くて「あちっ!」と声が漏れた。

「あ。ごめんね。もっと適温にしたらよかったね。本当、全てにおいて情けないよね」

「やあ、いいですよ。ところで具合は大丈夫ですか?」

湯気に息を吹きかけ、お茶を啜った。

 無精髭の男をまじまじ見ると、鼻が高く、大きな目が印象的で顔立ちが整っていた。男は短い薄茶色の髪を長い指ですいて、目尻に皺を寄せた。人の良さそうな笑顔だ。

「ありがとう。早人君だっけ? 君は優しいね。他の人は俺のことを気付かずいたようだけど、君は家まで送ってくれた」

「いえいえ、とんでもないです」

 登校中に見つけて、助けた人は野崎雅志(のざきまさし)と名乗り、目の前に座った。酒の臭いがいっきに鼻に流れ込んできた。不快になり、顔を背けた。あの場所にいた理由を問い正すと、頭をポリポリ掻いて、間をおいて答えた。

「仕事帰りに居酒屋に寄って、酒を少しだけ飲んだ後……の記憶があまりないんだ」

 困った表情を浮かべ、唸り声を上げた。温かな快適な室内だった。エアコンがついているため、体温が上昇して顔が火照ってきた。

 酔っ払いをわざわざ救い出し、身長一六七センチしかない俺の肩に一八〇センチ位ありそうな男の首を預けた姿が、滑稽だった。普段から通学路と化している道にも関わらず、誰にも見られなかったのが、幸いだ。

「やっぱり、人は冷たい人種なのかな」

「どうですかね。日本人は照れ屋が多くて、行動的ではないと、何かで読みましたけど。でも通報されなくってよかったですね」

 そういえば、登校中だった。時間が気になり、キョロキョロとリビングを見渡す。ちょうど、俺の家のものより一回り大きなテレビの上に真っ赤な置き時計を見つけた。手のひらサイズの置き時計の針は、ぴったり九時だった。三十分の遅刻だ。

「あの……そろそろ学校へ戻りますね」

「やあ、君に起こしてもらわなかったら、車に轢かれた可能性がある。それか、ツルンツルンにお肌が凍っていたかもしれない。お礼をしなければならないね」

「いや、いいです。今、時計みたら学校の始業時刻をとっくに過ぎていて遅刻です。すみませんが、もう行きます」

 俺の遅刻への焦りに気づいてないようだ。

 雅志さんは機嫌良く、鼻歌混じりで台所に行ってしまった。そのまま滝のように水を流し、食器の洗浄を開始した。俺の母なら節水しろと、怒られるほどだ。

「悪いね。本当……こんな若い子に助けてもらえるなんて。今日はありがとうね」

くどいくらいに、俺にお礼を投げかけた。

 お辞儀をしてからリビングのドアノブに手を伸ばすと、板一枚の向こうから軋む音が聞こえた。誰かがいるようだ。ドアノブが反対側から回り、目の前のドアが開く。前髪がふわりと舞うと共に、驚いて声が詰まった。

 知っている顔だった。眉間に皺を寄せて、俺の姿をねっとりと見た視線が、フイっと逸らされた。俺は切れ長の目を精いっぱい大きく見開いていた。

「の、野崎?」

 思わず、甲高い声が出てしまった。野崎とは中学二年生の時に同じクラスだった。下の名前は思い出せない。二年生の三学期から学校へ来なくなり、三年生で新しいクラスになっても登校拒否を続けている。全校生徒で数名の登校拒否生徒は毎年、増え続けている。

 野崎は俺の姿を見て、頬を赤くした。

「あれ? 進也の知り合いか?」

「あ、そうです。中二の時に同じクラスでした」

 洗い物を終えたのか、俺達に近づいて、腕を組む。雅志さんは満面の笑みで、白い歯が零れていた。

「進也は弟なんだ。たった一人の」

 そういえば、雅志さんと顔がよく似ている。雅志さんを幼くさせた感じだった。再び野崎と目が合うと、すぐに逸らされ、スリッパの音を大きく鳴らし、リビングから出ていってしまった。雅志さんはそんな野崎の姿を見て、深くため息をついた。

「進也は照れ屋だから許してくれよ」

 俺はその言葉を最後まで聞き終わらないうちに、声を上げた。

「野崎はどうして学校に来ないんですか?」

 唐突だった。けど、気になる。俺は正直な性格で嘘が嫌いだ。そのために人を傷つける。

「あ、それは。進也が……」

雅志さんは言葉を濁して言いづらそうだ。俺はその困惑した表情を見て、人には踏み込んではいけない境界線があることに気付いた。

「すみませんでした!」

 大声で謝った。俺の無神経な一言が聞こえただろうか。あいつに。

 雅志さんは大きく息を吸った。

「進也は人と話すと疲れるらしい」

 わかるだろう。雅志さんが目で言った気がした。その言葉は簡潔だったが、納得した。

 そういえば、クラスにあまり溶け込んでいなかった。野崎、いや野崎進也は優等生の部類だった。その中でも仲間に入ろうしないでいつも一人でいた。

 考えるのも面倒な気がしたので、雅志さんに「帰ります」と、伝えてドアに手をやった。

「これ俺からのプレゼント! 受け取って」

 また足止めをされて、首だけ振り返った。手渡されたのは、使用済みの茶色い一冊のノートだった。消しゴムのカスが表紙にうっすら付いていた。タイトルの項目には、『日記』と書いてある。

「あっ、家で見てね。今日はありがとう。またいつか会いましょう」

 そして家から閉め出された。出た途端、今まで部屋のエアコンによって暖まった体が急に冷えだした。ポケットから手袋を出してはめると、仄かに暖かいと感じた。

玄関に置いてあった自転車へ飛び乗った。ペダルを踏み、今更だから学校に行くのをやめようと、決心した。俺はそれを実行した。

 ゲームセンターにでも寄ろうとしたが、誰かに見られたらまずいと思い、真っ直ぐ家に帰った。母に散々と叱られたが、人助けをしたのに何が悪いのかわからなかった。軽いげんこつが頭に飛び込むと腹が立ち、部屋に閉じこもった。

 ベッドに鞄を叩きつける。鞄のファスナーから雅志さんにもらったノートが顔を覗かせた。そのまま取り出して、読むことにした。  

 ノートの内容を見て唖然とした。

『十一月一日。西形と富山にいじめられた。授業中、席についていると消しゴムや丸めたプリントを背中や頭に当てられた。担任は気付いている癖に何も言ってくれない。面白がって、笑っているクラスの連中。掃除時間には汚れた雑巾をムチのように打ち付けてきた。悔しい。消えてしまえ。死にたくなった』

 息を呑んだ。

「これってあの西形と富山のこと? ん、他は斉藤に梅原か。全部二年の時のクラスのやつらか。これを書いたのが野崎進也なのか」

 現実からかけ離れた、デジタル放送を見ているようだった。裏ではこんなに小さく、恐ろしい事が起こっていたのだ。俺の名前はどこを探しても見当たらなかった。そうだ。ろくに話したことがなかった。

 階段を降りて、リビングに行くと、電話のそばに置いてある掲示板を見た。母の姿はなかった。どうやらスーパーへ買い物に出かけたようだ。傍にいなくてよかった。近くにいると恥ずかしくて電話もかけられない。

 三年の連絡網をめくると、下には案の定、二年の連絡網が出てきた。連絡網から、『野崎進也』の自宅へ電話をかけた。

「あの……進也君いますか?」

 なぜ、俺はこんな行動を起こしたのか。それは助けたかったから。何もできない自分の小さな正義感からくるものだった。

『あれ? どうしたの?』

 電話越しで聞き覚えのある声が聞こえた。雅志さんだ。酒は抜けたようだが気だるい感じの声だった。

「や……えっと」

 言葉を濁していると、向こうが先に話しかけてきた。

『わかった! 助けたお礼をまだ貰っていないと、文句を言いにかけてきたんだろう』

 思わず、笑ってしまう。そういえば、今日のお礼をいつかすると言っていた。けれど、重要なことはそんなことではない。

「違いますよ。今日もらった『日記』の件です」

 沈黙した後、うって変って、聞こえるか聞こえないくらい小さな声を出してきた。

『どう? 早人君はこのこと知ってた?』

 その言葉が深く、耳に刺さった。

「知りませんでした」

『そうだよね。確か、君の名前は『日記』には書かれてなかった』

 俺は今まで野崎に対して、関心がなく、いじめに気付かずに、のうのうと学校へ行っていた。でも、家にずっと引きこもっている野崎を思うと、かわいそうに思えた。

「あの……よかったら進也君に一緒に学校へ行かないかって言ってもらえませんか?」

 知ってしまったから、何かしてあげたい。

『ありがとう』

 何度も言われる感謝の言葉は嬉しいが、俺の行動は偽善者ではないかと心配になる。


 翌日、単純な考えでさっそく野崎を学校に連れ出すことにした。制服に着替え、玄関からが野崎出てきた時は、正直驚いた。嫌な顔を一つもせずに現れた。

 俺は自転車を引きずり、野崎は歩き出した。

「大丈夫。誰もお前のこと、何とも思ってないよ。今は思春期突入時期で、女子の事ばかり考えているし、受験も二月だから、勉強を焦って取り組んでいるよ」

 「山下なんかは」と、野崎の顔を伺いながら話した。横顔は俯いていたが、和らいだ気がした。口元が上がると嬉しくなった。こんな俺でも、少しでも人の助けになっている。身に染みて、高揚感に満ちた。

 俺と野崎はあの坂道を登っていた。話す会話も段々と、絞られて途切れていく。無言の中で野崎のため息ばかりが耳についた。

 二人の乱れた息が重なり、俺が「疲れた」と、呟くと野崎は笑みを返した。自転車を引きずっていた俺は、野崎より疲れているように感じる。乗って快適な自転車がお荷物になっていた。途中で止まってしまえば転び落ちてしまいそうな気がした。

「なあ、代わってくれないか。二の腕がつりそうだ。荷物持つからお願い」

 野崎は黙々と俺の言葉通り、代わってくれた。生真面目さや潔癖みたいな雰囲気を感じて、自分とは正反対だと思った。自転車の引きずり方が、まず違う。

 俺の場合は、自転車より身体が後ろになり、尻が後ろ側に突き出てしまう。とてもかっこ悪い。その上に猫背なので間抜けである。それに比べ、野崎の背中はピンと上に伸び、自転車の引き方が丁寧に見えた。

「なあ、実は野崎の『日記』を見たんだよ」

 何気なく出た言葉に後悔したのは、坂道を登りきった後だった。

「あれを読んだの?」

 野崎は静かに振り返った。俺はその時、進也の握りしめる拳に気付かず、大きく頷いた。

「いじめられている時に助けられず、悪かったなと思ったんだ。俺が一緒に登校すれば、何とか行けるだろう?」

 笑い顔を作って言ってやった。対照的に野崎の表情は氷のように冷え切っていた。

「晴島君は不安とかないんだね」

 苦笑して、野崎は前を向いた。何となく俺は野崎から自転車を返してもらう。唇を噛みしめていたので、泣いているかと思ったが違った。俺に気づいた野崎は視線を絡ませた。

「何も分かっていない」

 擦れた囁き声が聞こえ、胸が震えた。

「俺が悩んで寂しかった事、知らなかっただろう。あんたとは違うんだよ。強くないし、自分の意見だって言えない。同情は買いたくないし、もう二度と俺に顔を見せないでくれ」

 俺は何も言い返せなかった。野崎の気迫に押されてしまっていた。

「本当は学校に行くつもりなんて、始めからなかったんだよ! それにあんたも俺の存在なんて今まで忘れていただろう」

 野崎は家へ引き返すために、きびすを返して、逆方向へ歩いて行ってしまった。あと少しで学校の校門に到着とするのに、坂道を下っていってしまう。俺はその態度に腹が立ち、自転車を置いて追いかけた。帰ろうとする野崎の前に立ちはばかり、剣幕を向けた。

「そうだよ。俺はお前のことを忘れていたよ。それは俺が何に対しても考えが軽いからだ。でもお前は違う。考えすぎなんだよ。言えよ。誰かにしっかり相談しろよ。我慢するなよ」

 耳のそばに近づいた。

「相談できる奴なんていない」

「友達に言えよ。友達がいないんなら作れよ。いないなら俺が友達になってやるよ」

 沈黙した野崎に対し、また責めてしまう。

「また黙る。自己防衛するなよ。両親や兄ちゃんに文句を言うか? お前が学校に来なくたって誰も迷惑しない。だけど家族を悲しませるなよ」

 野崎は手袋つきで思いっきり叩いた。鈍い音がした。頬の痛みと共に胸が痛かった。

「偉そうなこと言うな。俺はあんたみたいに社交的じゃないし、そう簡単には変われない」

 感情的で子供なのに大人に見られたい。そんな息苦しいほど、自分を変えたがっている。

 俺は野崎と言い合いになるうちに、自分は野崎を責めるほど偉くないと気付いた。

「悪かった。ごめん、じゃあね」

 自転車を置きっぱなしなので取りに行った。

 俺は後ろを振り返らなかった。そのまま乗って学校へ向かった。野崎が俺の姿を見送っていたのか、帰ったのかは知らない。俺は野崎の事を含めてだけど自分を問い詰めていた。 

 結局、何も変えることのできない弱い存在だと感じずにはいられなかった。

 俺と野崎の交流は終わった。相変わらず、学校では名前を聞くこともないし、野崎の不登校は中学卒業まで続いた。


 それから卒業式の日だった。前日は雨だったけれど、今日はからりと晴れていい天気だった。中学生活が一切終了して、同じクラスの連中と話をしている時に、同級生の女子に声を掛けられた。

「あの、第二ボタンもらえますか」

 告白でなかったが、この行為は告白と同じ効力力なのかと疑問に思いながらも、ボタンを引きちぎり、手渡した。他にも二人ぐらいの後輩から声を掛けられ、写真を一緒に撮ってほしいとも言われた。

 俺は女子に対して、まだ恋愛感情は湧かなかった。友人にもそうだが、深く接することはなかった。ただ一人、助けたいと思ったのは野崎進也だけだ。それは中学二年生の時に同じクラスで縁があっただけのこと。

 ふと視界に入ってきたのは、保護者のおばさん達に取り囲まれる若い女の先生だった。隣のクラスの担任で、冴えなくておとなしい人だ。保護者達は、何か訴えているようだ。その先生はハンカチで涙を拭いていた。

 その中で見知った姿が目に付いた。二つ分、頭が飛び出ていた。もしかしたらと、慌てて駆け寄った。

「雅志さん!」

 保護者一同が一斉に俺の方へ視線を向けた。 誰もが卒業式とは似つかない鬼のような形相だった。その視線に驚き、俯いていると目の前に雅志さんの方からきてくれた。

「早人くん、おめでとう!」

「ありがとうございます。進也君は来ましたか?」

 大きく首を振って、苦笑いした雅志さんは自分の髪の毛を長い指ですいてねじる。いつものスーツとは違い、礼服のように真っ黒い上下と、ストライプのネクタイを締めていた。 

 それに無精髭を剃っているせいか、映画に出てくる俳優のようだった。

「よかったら、時間あるかな?」

 雅志さんは爽やかに微笑んだ。微笑みの中で、酒の臭いがした。また酒を飲んできたようだった。俺は大きく頷いた。

 端正な顔立ちと一八〇センチ位の長身であるため、一緒にいると注目を浴びてしまう。  

 保護者の目が痛かった。

「みんなで何やっていたんですか?」

「ははは。抗議」

 その言葉に茫然とした。どんな抗議だろう。

 保護者のおばさん達を絶対に敵には回したくない。身震いしながら、抗議の理由は後で聞くことにした。その保護者達と比べたら、

俺の母なんて、あっけらかんとしている。

 卒業式が終わった途端、走るように家に帰ってしまった。好きな昼ドラを録画し忘れたらしい。息子より俳優を選ぶところが母だ。

「一緒に帰ろうか」

 雅志さんは俺の隣に来て、一緒に足を進めた。自転車を取りに行くため、待っていてもらい、出発した。帰りは坂道の下りである。「この坂を登ったり、下ったりする度に、雅志さんのことを思い出します」

 吹き出すように、笑う。雅志さんも、はははと声を立てた。

「恥ずかしい思い出だよ。本当にありがとう。おかげで、君と出会えたんだけどね」

 ウインクをして、俺の肩を掴む。急に掴まれたので、なんだろうと雅志さんを覗き込むと、今にも涙が零れそうな目とかち合った。慌てて、雅志さんは俺の肩から手を外した。  

 その後も手の甲で拭っていたけれど、次から次へと涙が溢れてくるようだった。

 ポケットから、まるまったハンカチを出して、差し出した。こんな汚いハンカチを渡すべきではなかった。一瞬思ったが、雅志さんは受け取ったハンカチで涙を拭いていた。

「どうしました? 感極まることでもありましたか? 卒業式でもらい泣きしたとか?」

 人に泣かれたことがないため、対応に困ってしまう。おどおどしていると、涙をぬぐった雅志さんは、たちまち笑顔を向けた。切り替えが早くて、驚いてしまう。

「ごめん、心配かけちゃったね。改めて、卒業おめでとう。同じく進也も、卒業式に出たらよかったけど、駄目だったよ」

「すみません。俺、この間、余計なことしました」

 あの時、もっとうまく学校に行けるように仕向ける力があればよかった。ただ、現状を悪くしたのではないか。後悔の念は続く。

「気に病むことないよ。君は関係ない。俺が悪いんだ。進也が不登校になってから、進也に対し、責めてばかりいた」

 俺は雅志さんの言葉を一つも逃さぬよう、耳を傾けた。

「でね、ある日進也が風呂に入っている時に、洗濯物を進也の部屋に置きに行ったんだ。偶然にも机置いてあった『日記』を見つけた。もしかしてこれは遺書替わりじゃないかとヒヤッとしたもんだよ」

「進也は雅志さんが『日記』を持ち出したことを知っているんですか?」

 雅志さんは頷いて、頭をぽりぽり掻いた。考えて話すときの癖なのだろう。

「その翌日に、進也の三年の担任にアポを取って、その『日記』を見せたんだ。どうにか現状を変えたくてね。その担任は、いじめの事実を公にせず、生徒達だけの面談で済まそうとした。進也は、面談に行くことを頑なに嫌がって断ったよ。あの担任には腹が立つ」

 眉間に皺を寄せて、暴言を吐くように舌うちをした。先生はこの事実が公になり、自分の評価が下がるとでも思ったのか。なんて教師失格……人間失格と言えよう。教育委員会にでも訴えて、クビにしてやれ。そう思うと、怒りでカッと体が燃えるように暑くなった。

「だから卒業式の後に、あの先生、保護者達に責め立てられていたんですか?」

 雅志さんは頷いたまま、その事にはもう触れなかった。野崎のことで揉めたのかなとちらりと思った。

 その後、雅志さんは大きく伸びをして、嘘みたいな愛想笑いをしてくれた。

「俺は何故こんなに笑い顔なのかな?」

 俺は首を横に傾けた。雅志さんは自分自身に言っているようだった。

「笑わないと不安定になるからだよ」

 雅志さんの話は続いた。坂道が終わり、平道から野崎家とはまた違う道に入っていく。どこにいくのかわからないが、少しだけ前に出た雅志さんに追って歩いていく。

「心が不安定なんですか?」

「うん。進也が中学に入学した時に」

 雅志さんは立ち止まった。その時の顔は無表情で、どこか悲しみに満ちていた。

「両親が借金を苦にして自殺したんだ」

 驚いて、見開いた目を閉じることができなかった。

「だから、俺たち兄弟の苦しみはとても深いよ。奈落の底に足一本突っ込んでいるようだ」

 何も言えなかった。何も言い返せなくて、そのまま雅志さんについていく。そういえば、やたら古い家に住んでいた。でも、家具や家電はちゃんとしていて、洗い物での節水やエアコンによる節電を全くしていなかった。

「生活は苦しくないんですか?」

「借金返済のために、実家は取られちゃったけど、遠い親戚の人が協力してくれて家を借りることができたんだよ。生活は苦しいけど、時給のいい所に働きに出ているから、それでも前よりはまともな生活ができるようになった」

 にこやかに答えた。

「もっと節電や節水を頑張ってください」

 俺は思ったことを口に出すと、雅志さんは、声を立てて笑った。

 しばらくすると、小さなお墓があった。そこには色とりどりに飾られた花が供えてあった。俺は何も聞かず、無言で雅志さんと一緒に手を合わせ、お参りした。

「ありがとう。君は俺達兄弟にとって光だ。俺が苦渋に強いられて、夜の仕事に行き、酒に溺れてしまうことが多かった。進也は献身的に家の事をしてくれた。いじめに気付かず、苦しかっただろう。不登校になった時、初めて進也と向き合った」

「大変でしたね……身勝手なことばかり言ってしまい、すみません」

 この兄弟には踏み込めない。苦労も知らずに生きてきた自分に何ができるのか。

「酒に酔って、つい眠りこけてしまった場所が君達の中学校で、救い出してくれたのは早人君。名前を聞いて、あの『日記』に書いているやつだったら首を絞めてやろうと思った。でも君の名前はなかったから、今の進也に会って欲しくて連れ出したんだ。何度も読み返して、覚えてしまった」

 雅志さんの進也に対する家族愛には、感動すら覚えてしまう。たった二人だけの家族ゆえに太い絆で結ばれている。目をぱっちり開けて、雅志さんは話し続けた。それを必死で聞く自分がいかに幸せなのか噛みしめていた。

「この偶然が重なったってことは、目に見えない何かが働いたんだよね」

 雅志さんはそう呟いて、「両親にお礼を言ったよ」と、小声で俺に囁いた。俺は頷いて、もう一度手を合わせる。雅志さんは満面の笑みを向けてくれた。


 中学を卒業して、数日たった春休みのことだった。一通の手紙が家の郵便受けに届いた。

「早人! 手紙だよ!」

 母が手紙を俺の方へ投げて寄こした。手紙は変化球に俺の頭上に落ちた。母の行動に舌打ちしながら、拾い上げて宛名を確認した。

 『野崎雅志』の宛名に対し、急いで封筒を中身と一緒に、ちぎった。

「なに。『早人君と会ってから、進也は少しずつ、変わったよ。よく話すし、素直になった。聞いた所、二人は口論したらしいね。あの日から「負けない」って、最近、空手を習い始めたんだよ』やべえ」

 その文の後に、『卒業式後に借りたハンカチは洗濯して、また返すよ。それと坂道でのお礼はいつすればいいかな?』と記してあった。そういえばお礼を何も貰っていない。思い出し、含み笑いが零れた。最後の行には野崎の字か分からないけれど、雅志さんとは別の字で『十日、昼に家に来てくれ』と、書いてある。

「なに、明日じゃん! もっと早く寄こせよ、まあ、いいか。たまには会ってやる」

少し開けてある窓から、暖かい風が流れ込んだ。草の青い匂いがした。もう冬はとっくに終わったのだと実感する。草花も芽を出して、そろそろ蛙も目を覚ます。春なんだ。  

 深い暗闇から明るい光が差し込み、野崎もその光と共に明るい方向に進み出している。

「二度寝しないように、叩き起こさないと」

 トロンと眠くなった目は、段々としぼむ。瞼の裏では野崎がとびっきりの笑顔で俺を迎えてくれた。そしたらあいつに、俺の方から言ってやる。

 ――なあ、友達になろうなって。

                                            終わり



私が初めて書いた小説です。15歳の時に書いた作品を改稿して、12年後、書き上げました。

まだまだ不出来ですが、感想やアドバイス頂けたら嬉しいです。

よろしくお願いします。

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