悪しき友
彼は友人だ。屈託のない笑顔で気さくに何でも話してくれて、側にいるだけで心に火が灯り、温かくなる。そんな大切な友人だ。
それなのに、私は彼に対して邪な感情を抱いている。友情を壊してしまいかねないぐらいの、劣情を……。
* * *
「よお、土屋。まあ上がれよ」
マンションの扉が開き、甲斐が顔を出す。肩まで伸びた明るい茶髪はボサボサに乱れ、上は白いTシャツ、下は迷彩柄のカーゴパンツという寝起き丸出しの格好だ。
私は、お邪魔しますと一言口にしてから部屋へ上がった。
「今日お前を呼んだのは他でもない。この惨状を見よ」
甲斐は得意げに言って両手を広げてみせる。
「……酷いな。良い部屋が台無しだ」
私はぐるりと部屋の中を見渡す。実際は2LDKはあろう広さだが、雑多に散らかった物が空間を狭く感じさせていた。
「そういう訳だ。片付けるの手伝ってくれ」
甲斐は偉そうな口振りで私の肩を叩く。何がそういう訳だか分からなかったが、私は彼の思惑に乗る事にした。ショルダーバッグとコートを適当に床に置く。
「それにしても物が多いな」
足元には雑誌や写真集、服が散乱しており、部屋の隅には段ボール箱が積み上げられている。
「引っ越したばかりだからな。それに、手元に届くところに物を置いておきたい性分なんでね」
「じゃあまたすぐに散らかるんじゃないか?」
私の指摘に、甲斐は髪を後ろで一つに束ねながら眉根を寄せ、
「つべこべ言わずに動け。後で俺特製の美味しいコーヒーごちそうしてやるから」
と言って、私の背中を平手打ちした。その勢いで私の華奢な身体はつんのめる。
最近の甲斐は、こうして頻繁に私を外に連れ出す。一人でいると気分が塞ぐから、脳みそを空っぽにするには動くのが一番だと言って。
それは思うに、三ヶ月前に亡くなった由梨の事が起因しているのだろう。
由梨は私の恋人だった。大学の旅行サークルで知り合い、自然と付き合うようになった。
清楚でおっとりしたしゃべり方をする、あどけない少女のような笑顔が愛らしい女性――。
だが、ある日の夜、由梨は暴漢に襲われた。命に別状はなかったが、彼女は数日後、病院の屋上から飛び降りて自ら命を断った。
病室で顔中包帯が巻かれた痛々しい姿が、私が生きている由梨を見た最後だった。掛けるべき言葉が見つからず、会話も交わさずに別れたのを今でも後悔している。
それからしばらく私は大学を休みがちになり、アパートに一人籠もるようになった。
そんな私を、甲斐は無理矢理外に引っ張り出して、暗く沈み込む気持ちを明るく浮上させてくれた。甲斐の強引な優しさに触れる事で、私の心の重りは徐々に軽くなっていった。
甲斐は、同じ大学で生物学部に所属して最初に出来た友人だった。
これまで私は、他人と距離を取り、関係を築くのを疎ましく感じ、一人でいる方が気が安らぐと思って生きてきた。
でも、甲斐はお構いなしに壁を取っ払い、友人として私と接してくれた。
甲斐には感謝している。友人になってくれて。暗闇に飲まれそうになるのを救い上げてくれて。
彼は友人だ。彼が嬉しいと私も嬉しいし、彼が悲しいと私も悲しくなる。共に笑い、共に泣ける――友情の素晴らしさを、私は甲斐に出会って痛感した。
しかし、今は別の感情が浮き彫りになり、友人という形が歪みつつある。
もしかしたら、出会った頃から燻っていたのかもしれない……。
「懐かしいな、これ」
私は、無造作に床に積まれたアルバムの山から一冊を手に取って開き、呟く。そこには、春にサークル仲間で九州へ旅行に行った時の写真が貼られていた。
「一枚ぐらい由梨ちゃん撮っとくんだったな〜」
甲斐がアルバムを覗き込んで悔しそうな声を出す。彼はカメラサークルと旅行サークルを掛け持ちしており、旅行に行く時だけこちらに参加して写真係を務める。
「写ってるじゃないか、こんなに」
私はアルバムをめくり、仲間と一緒に笑顔で写る由梨を指で示す。
「いや、個人的に由梨ちゃん一人のさ。別に変な意味じゃないぞ。カメラマン志望としては燃える被写体だったからよ」
甲斐は戦場カメラマンになるのが夢で、アルバイトで貯めた金で戦地に赴いては写真を撮り、取材をしているらしい。
「僕は個人的に撮ってくれないのか?」
私が何気なく聞くと、甲斐は踏ん反り返って腕組みをする。
「撮ってやってもいいぜ。片付けが終わってコーヒーブレイクした後にでもな。地味な土屋を俺の腕でカッコイイ土屋に写してやるよ。何なら暗室も見せてしんぜよう」
「自宅に作ったのか?」
「俺の写真にかける情熱を甘くみてもらっちゃあ困る」
鼻息荒く語る甲斐に苦笑してから、私はアルバムに目線を戻す。
幸せそうに笑う由梨。彼女の笑顔を形作る唇は、口紅を塗る必要がないほど血色のいい桃色をしていた。グロスを引かなくても自然で美しい艶があり、ふっくらと柔らかく、取れたての果実のように瑞々しい。
由梨の唇の感触を思い出す。私は花の蜜を吸う蝶になった気分で由梨の唇を貪った。重ねる度に甘く蕩けるような感覚に包まれ、恍惚感に浸った。
自分だけのものにしたい――恋人であるにも関わらず、より強い独占欲が胸の内に渦巻いた。
足元から鳴き声が聞こえ、私の思考は途切れた。
顔を下にやると、猫がこちらを見上げている。灰色の短い毛並みで、ロシアンブルーという種類の猫だと、テレビで見た記憶が引っ張り出される。
「ランって名前だ。可愛いだろ。俺のオアシス」
甲斐が猫を抱き上げてにんまりと笑う。目を細めて愛おしそうに猫を見つめる姿に、私は軽い嫉妬を覚えた。
「何だよ土屋、険しい顔しちゃって。あ、もしかして猫嫌いとか?」
「いや、平気だよ」
甲斐に問われ、自分でも幼稚だと思うぐらい険のある声が出た。
「まあでも、今は片付けの邪魔になっからあっち行ってろ」
甲斐は、猫を別室に追いやってから片付けを再開する。
表明的にはごく普通の友人を振る舞いながら、私は内面で浅ましい欲望を滾らせていた。そんな事、甲斐は知る由もないだろう。知られたくない。私が何を目的にここへやって来たのかも、微塵たりとも感づかれてはならない。
それでも、甲斐に見つめられると心が躍ると同時に見透かされているのではないかという恐怖に襲われる。濁りのない純粋な眼差しで穢れを露わにされているような、居た堪れない気持ちになる。
このまま黙って何もしなければ、善き友好関係を築く事ができるのだろう。
だが、日に日に膨れ上がる欲望がそれを許さない。
甲斐を傷つけてはいけないと自制する一方で、甲斐の目が私を惑わせ、狂わせる。
一通り片付けが終わり、私達は休憩を取る事にした。
約束通りコーヒーをごちそうしてやると言って、甲斐はキッチンに向かった。少ししてから、手挽きミルで豆をガリガリと砕く音が聞こえてくる。
私は、ショルダーバッグからアンプルを取り出した。睡眠薬入りのアンプルを。
やがて、甲斐がコーヒーの香ばしい匂いを漂わせながら、湯気の立ったカップを二つ手にして戻って来た。
「ほれ、俺特製ブレンド」
ガラステーブルの上にカップを置き、一方を私の手前に寄せる。
「豆も自分で挽くなんて本格的だな」
私はアンプルを左手の中に忍ばせ、右手でカップに触れた。火傷しそうなぐらい熱い。
「ジーサンの影響かな。手挽きミルで豆を細挽きにして、サイフォンのガラス越しに抽出されてくのをガキの頃から見てたんだ。一度これで飲んだらインスタントなんて飲めたもんじゃねぇよ」
甲斐は熱湯のコーヒーを平気な顔で一口啜る。
彼の祖父はドイツ人というのを以前聞いた事がある。クォーターである為なのか、甲斐の瞳は色素が薄く、茶色い。アーモンド型で、吸い込まれそうな澄んだ目にブラウンに染まる瞳は、どこか蠱惑的な光りを放ち、私の目を捕らえて離さない。
「……どうした土屋。俺の顔に何かついてるか? とか、ありきたりな台詞を吐いてみる」
「あっ、いや……」
私は慌てて目を伏せた。無意識に凝視していたらしい。
「んな事より飲めよ。せっかく淹れたんだから」
「熱過ぎるよ。僕、猫舌なんだ。少し冷めてからいただくよ」
「情けねぇ奴だな。コーヒーは淹れたら早めに飲み切るもんだぞ。煮詰まってくるし、あっつあつのを飲まないと美味さが半減するだろ」
講釈を垂れてふて腐れる甲斐に苦笑いを返しながら、私は隙を窺っていた。甲斐に気づかれないように睡眠薬を入れる、そのタイミングを……。
頭で策を練っていると、突然甲高いケータイの着信音が鳴り響いた。
甲斐はコーヒーカップをテーブルに置き、パンツのポケットを探ってケータイを取り出す。
「バイト先からだ。ちょっと悪ぃ」
私に謝ってから、甲斐はケータイを手に席を立ち、ベランダに向かった。そして、こちらに背を向けて話し始める。
思わぬチャンスが訪れた。この機を逃す手はない。
窓越しに甲斐がいつ振り返るかも分からない状況の中、私は左手で握り締めていたアンプルの中身を急いで甲斐のコーヒーの中に入れた。白い粉が褐色に溶け消えていく。
その直後、甲斐は話しを終えて戻って来た。
「悪かったな土屋。店長が明日シフト入れないかって電話でさ……どうかしたか?」
動揺が顔に出ていたのか、甲斐は私の顔をまじまじと見据える。
「ち、ちょっとトイレ……借りてもいいか?」
「ああ、そこの奥行った右手にある。大丈夫か? 顔色悪いぞ」
心配そうに声を掛ける甲斐に何でもないと答え、足早にトイレへ向かう。
入って扉を閉めた途端腰から力が抜け、その場にへたり込んだ。 甲斐が睡眠薬入りのコーヒーを飲み、確実に寝入ったのを確認してからロープで手足を縛り、口をガムテープで塞ぎ、そして……。
そこまで考えて、私は頭を抱え込んだ。全身が小刻みに震える。心に蟠る醜悪な自分を吐き出すように、呻きに近い吐息を漏らす。
自分で自分が恐ろしい。泣きたくなるほどに。
理性的な私が説得したはずだった。それなのに、また感情的な私が剥き出しになり、強行手段で欲望を叶えようとしている。
由梨の唇が他人に向けて笑顔を作るのが許せないように、甲斐の目が誰かを映すのが耐えられない。
醜い支配欲で胸が焼き焦がされる――。
用を足した振りをする為に水を流し、トイレを出ると、すぐそこに甲斐が立っていた。
「平気か?」
甲斐の気遣う言葉に私は引き攣った笑顔を向けたが、心では罪悪感を覚えた。
そして罪悪感は、甲斐のコーヒーカップの中身が空になっているのを目にした事でますます強まった。
「……な〜んか、身体がダル重い……」
甲斐は瞼を重そうに何度も目をしばたたかせる。睡眠薬が効いてきたようだ。
「昨日、夜遅くまで写真の整理してたのが響いてんのかも……」
甲斐は、テーブルに置かれたノートパソコンを開き、マウスで操作して私の方に向ける。そこには、先月行ったと散々土産話を聞かされたアフリカの風景や子供の写真が写っていた。
「ちょっと横になったらどうだ?」
私が促すと、甲斐は「すまん」と呟き、素直に後ろのソファーに身体を横たえた。
「あ〜勝手にDVD見るなりCD聴くなりしていい……か、ら……」
その言葉を最後に甲斐は目を閉じて、寝息を立て始めた。
私は甲斐の様子を気にしながら、ショルダーバッグからロープを取り出し、テーブルを挟んだ向かい側に静かに移動する。
指先は冷えていく一方なのに、心臓が熱く鼓動を打ち始める。
強力な睡眠薬で昏睡状態にあると分かっていても、息が詰まりそうな緊張感で頭がおかしくなりそうだった。
私は心を静める努力をしつつ、甲斐の両手足を素早くロープで縛り付ける。それが終わると、今度はガムテープで口を塞ぐ。万が一目を覚まして暴れられたり、叫ばれたりしたら敵わない。
最後の作業に取り掛かる為、ショルダーバッグからアイスピックを取り出す。
木製の柄にステンレス鋼のニードルが細長く尖っている。本来なら氷を割る為の調理道具であって、人を傷つける凶器ではない。
鋭い切っ先を見つめながら考える。
私は、欲しい玩具が手に入らなくて駄々をこねる子供と同じだ。
いつからだろう……いつから私は、人間を部分的にしか見られなくなってしまったんだろう。人体のパーツに心惹かれ、執着するようになったのだろう。
あの日の夜、飲み会の帰り道で由梨を背後から襲い、クロロホルムを嗅がせ、人気のない公園のトイレへ連れ込んだ。
そして、私は由梨の唇をナイフで切り取った。
その刹那、堪らない興奮と甘い陶酔感に包まれ、新鮮で輝きのある内に手に入れる事ができたという満足感が身体中を貫いた。
しかし、その快感は由梨が自殺したと知った瞬間脆く砕け散った。
私が由梨を殺したのだ……。
激しい後悔と嫌悪感に襲われ、毎晩悪夢にうなされた。食事も喉を通らず、胃が空になっても嘔吐は止まらなかった。
もう絶対にこんな事をしてはいけない――。そう心に誓ったはずなのに、私はまた魅了された。
決して嗜虐的な行為を好んでいる訳じゃない。ただ、自分の物にしたい。側に置いておきたい。
人体パーツをコレクションしたいだなんて、自分は精神異常者なんだ――そうやって何度己を責め立て、言い聞かせても、親しい人間にだけ沸き上がるこの衝動は、相手を傷つけたくないという良心的な感情を遥かに凌駕してしまう。
一瞬の愉悦と引き換えに果てしない虚無が待ち受けていたとしても、甲斐の目を欲しがる自分に、私は突き動かされる。
私は床に膝立ちになり、ソファーで気持ち良さそうに眠る甲斐にアイスピックを構えた。喉の奥が渇きを訴えている。唇を舐めてわずかに潤わす。
ニャオ、と横から鳴き声が聞こえた。
視線を右に逸らすと、いつの間にか飼い猫であるランが戻って来ていた。灰色の瞳でじっと私を見つめている。
そちらに気を取られた瞬間、真下で甲斐が身じろいだ。
「ひっ……!」
私は短い悲鳴を上げ、反射的に背後に飛びのく。そのせいでテーブルに背がぶつかり、乗っていたコーヒーカップが倒れ、パソコンが床に落ちた。
痛みに顔をしかめつつ甲斐の様子を窺う。先程と変わらず規則正しく寝息を立てていた。
私は気を取り直してアイスピックを握り締める。心が張り詰めているせいか、手の平に汗をかいていた。滑って上手くくり抜けないと困ると思い、服で汗を拭う。
と、その時――。
後ろから奇妙に捻れた呻き声が上がった。
驚いて振り返ると、猫のランが床の上でのたうちまわっているのが目に映った。
何だ……?
訝しい思いで見入っていると、やがてランはピクンと痙攣した後、動かなくなった。
死んだ……のか?
よく見ると、猫の付近にコーヒーが零れて溜まっている。先程の衝撃で私のカップが倒れ、まだ手をつけていなかったコーヒーがガラステーブルだけでなく床まで垂れ落ちたようだ。
まさか、これを舐めて……?
それが何を意味するのか、咄嗟には理解できなかった。しかし、床に落ちた拍子に切り替わったらしいパソコンの画面を目にした事で、その意味を悟った。
私は目を見張った。俄かには信じられなくて、落ちたパソコンをテーブルに置き、画面に目を凝らす。
そこには人間の顔が写っていた。飛び出さんばかりに目を剥き、苦悶に満ちた表情で固まった、若い女性の青白い死に顔が――。
そんな……嘘だろ……。
違うフォルダをクリックしてみるが、何度クリックしても次から次へと溢れ出る光景は変わらなかった。
老若男女の人間の顔顔顔――そのどれもが生命力を失い、凄惨をきわめた終焉を語っている。
素晴らしい夢を持った尊敬すべき友人。その隠された素顔を目の当たりにした私は、堪えるように口を手で押さえたが、
「ははっ」
我慢しきれず、乾ききった口内から掠れた笑い声が漏れた。
たちまち緊張が解け、全身が弛緩していく。
類は友を呼ぶ――そんなことわざが頭に浮かんだ。
甲斐もまた、私をコレクションに加えたくてうずうずしていたらしい。
「僕らは友人になるべくしてなったんだな」
私は一人納得してからソファーに向き直り、甲斐の閉じた瞼に触れ、押し上げる。
もう気兼ねする必要などない。
「君ならきっと、僕の趣味を理解してくれただろうね。残念だ、語り合えなくて」
そう言って私は、アイスピックを慎重に甲斐の目の淵から潜り込ませた。




