没落令嬢ですが、怪談よりも堅物騎士の期待に心臓が止まりかけてます。助けて。
手紙が、また届いた。
最近、我が家のポストは魔境と化している。
男爵家から侯爵家まで、様々な家門からのお手紙が届くのだ。
普通なら使用人が使者から受け取るのだが、我が家にはそんな上等なものがいないのが周知され、皆様ポストに手紙を入れていく。
「おねえちゃん、ポスト、またいっぱい! こんなに入ってた!」
「ありがとうクリス、置いといてね」
「はーい」
弟は手紙の束を机に乗せると、庭に向かって走っていく。
5歳になったクリスは最近、庭に野良猫が巡回してくることを発見して、毎日一生懸命仲良くなろうとしている。
猫は今のところ、ぜんぜん弟に興味はない。
でも弟はめげない。日向ぼっこをする猫の横にせっせと花を摘んでは持っていき、貢いでいるらしい。
うちの弟、健全すぎて天才かもしれない。
私は机に積まれた手紙を、ため息をつきながら眺める。
封蝋の紋章は多岐にわたるが、内容に大きな差異はない。
「亡き妻に、一目」
「夫の遺言を確かめたい」
「死んだ祖父に、聞きたいことがある」
おそらく、中身はそんな文面だ。
私がやっているのは幻覚を見せる催眠術であって、本当の意味で死者に会わせているわけじゃないのに、というウジウジした罪悪感は今でも消えていない。
かたや我らが副団長スミス様は、無自覚に「本物の幽霊を呼び出す魔力」を使えるようになっている。
(私の力だと思われてて、毎回、良心が死ぬ)
「…仕分けますか」
封蝋をひとつひとつ確認していくと、見慣れない紋章の手紙が混じっていることに気づいた。
鷺の羽根を模した、細い紋章。
貴族の紋章はある程度頭に入ってるつもりだけど、これは見覚えがない。
(地方の貴族かな)
封を開けると、文面は短かった。
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急啓。
ブレナン・アカリトリン嬢に、折り入って伺いたいことあり。
詳細は直接お会いしてから。内容はいわゆる「故人の依頼」に関わることである。
明日、王都騎士団の詰所までおいでください。何卒、一度のご面会を。
主席宰相付き補佐官
レイノルズ・ハウス
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「…さ、宰相の補佐官さん?」
見慣れぬ封は、宰相府の印だったらしい。どうりで一般人は目にしたことがないはずだ。
しかし、なんでスミス様ではなく宰相経由なんだろうと首をかしげながら手紙を裏返す。
追伸、という文字のあとに小さく記してある。
「面倒をかける:スミス」
(字がカッチカチだ……)
もちろん、断る選択肢は私には与えられていない。
スミス様もいるなら、なんとかなるか…?と自分を鼓舞することしか、できることはなかった。
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王都騎士団の詰所は、王宮の少し外れた場所にある。
馬車を使わない我が家なので歩いて向かったのだが、到着したら足がぼちぼち痛かった。貧乏は足腰を鍛える。
出迎えてくれたのは補佐官のレイノルズさんという20代のちょっとチャラそうな男性で、応接室に通してもらったあと、スミス様が現れる前にこっそり耳打ちをされた。
「スミスがあなたを呼ぶのをためらってたので、俺が呼び出しの手紙を出したんだ。内容が内容だからなぁ」
「内容が内容、とは?」
「聞けば、わかると思うよ〜」
そのあと、レイノルズさんは仕事が入ったといって速足で部屋を出ていった。
スミスと仲良くね!と言い残して。
(なんか、怖いんですけど)
少ししてドアが開き、スミス様がいつも通りの無表情で現れた。
軍服のボタンは一番上まで留まっていて、真面目さが制服の布まで染み渡っている。
椅子に座り、机の上に書類の束を置いた。
「来てもらって感謝する。…少し面倒なことになっていて」
「はあ」
「……これを」
1枚の紙を、こちらに向けて差し出す。
書かれていたのは、箇条書きの報告書らしき文だった。
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■目撃報告・赤い女に類似した変異(直近2週間)
【ロセン侯爵邸】夜半、廊下に立つ女の人影。近づくと消えた。
【王立学院・女子棟】授業中、教室の窓の外に女が立っていたと生徒3名が証言。
窓は3階。外壁を見たが足場なし。
【王都中央市場・酒場】閉店後に片付けをしていた店主が、奥の部屋に女を見た。
話しかけると消えた。
【ヒルクレスト村(王都より馬で半日)】村人が夜道で赤い服の女に遭遇。
悲鳴を上げると消えた。
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……読みながら、背筋がざわっとした。
(赤い女……)
それは前に、王宮で無念の死を遂げたある女性が現れた時の姿と同じだった。
しかしその一件は以前、スミス様と一緒に謎を解き、解決したのだ。
「ミシェル様は、もう女神の元にお戻りになったはずです」
「そうだ」
「でも、これ……」
「目撃されているのが、"赤い服の女"なのは一致している。だが、細部が違うんだ」
スミス様が続けた報告をまとめると、こうだ。
ロセン侯爵邸での目撃では「赤いドレスで黒髪で青白い顔の女」。
王立学院では「赤いスカートで金髪の女」。
中央市場の酒場では「赤い頭巾を被っていて顔がなかった」という証言まである。
(うーん。そもそもが、この世界には基本〈幽霊〉はいないわけだし)
「赤い服なのはたまたまで、見間違い……なんじゃないんですか?」
「そう思ったんだが」
さらに書類をめくると、追加の調査記録が出てきた。
各目撃者に聞き取りをした結果、ひとつの共通点が浮かびあがっていた。
────「ある話を聞いた後、見るようになった」────
「……ん? どういうことですか?」
「全員が、赤い女を見る前に"同じ話"を聞いている。
〈死者を視せる令嬢と、無念を抱えたまま死んだ赤い服の女の話〉だ」
(は!?)
「つ、つまり……」
「あなたの噂を聞いたら、赤い女を見たと全員が言っている」
スミス様は静かにそう言い切った。
(え……私の話が、トリガーになってるの?)
ぐるぐると頭が回転する。
情報の整理。情報の整理。
(そもそも王宮のミシェル様の件は、一部の人にしか知らされていないはず。
でもその"一部の人"が誰かにぽろっと話して、それが広まった可能性はなくはない……)
「どなたかが、先日のミシェル様の話を、〝死者を視せる令嬢と赤い服を着た女の話”としてお話しになった…?」
「ああ。ロセン侯爵家の当主が、話が非常に上手い方でな」
懇意にしてる侍女から、噂話を仕入れたようなんだ…と、スミス様の表情が微妙に歪む。
箝口令を敷いていたのに、先の事件を知る浮気相手の侍女からピロートークで聞いたらしい。
「先日の夜会で、我々の調査の話を……大変、こう、おおげさに語ったらしい。
たいへん語りが上手くて、聞いた者の評判も高かったと聞く」
(話の上手い人が、臨場感たっぷりに語ったわけか……。)
「しかも侯爵様は直接体験してないから、赤い女の細部はぼんやりとしか話さなかったんですね、きっと。
だから聞いた人が、それぞれ頭の中で赤い服の女を想像して……」
そこで少し間があった。
スミス様が机をトントンと指で叩く。考えている時の癖。
「全員のイメージがバラバラだから、現れるものもバラバラになった。
つまり今回の件は、特定の故人ではなく……"現象"に近いものではないかと、私は思っている」
(現象……)
「だから、今回は先生にお出まし頂いても解決は難しいと言ったのに、
レイノルズが話を聞けとうるさくて」
知らせずに解決したかった…と苦い顔をするスミスさんをみて
私の頭の中で、なにかがカチリとはまった音がした。
(怪談を話した人が上手すぎたせいで、各自がイメージした"赤い女"が出現した。
だから細部が違う。誰かの中では黒髪だったし、誰かの中では顔がなかった。
"本物の幽霊"じゃなくて、実態がない”噂が作り出した怪異”なんだ)
「……なるほど」
私はうめくように言った。
「でも……それ、止めるの難しくないですか?」
「そこだ」
スミス様の声に、初めて苦さが混じった。
「口止めのために、どこまで広まっているか調べようとすれば、噂を知らない者にも聞き込みをする可能性が出て、拡散する。
そもそも止めようとすれば、"なぜ止めようとするのか"と余計に話が広まる。
先生の名前が出るたびに、噂に尾ひれがつく。
少なくとも先生は、捜査に関わらない方がいいと言ったのに」
(あ……あ……。これ完全に、噂を止めようとすること自体が燃料になるやつ……)
嫌な汗が、背中を伝う感覚がした。
「ちなみに……どの程度、広まってますか」
「今朝の時点で、目撃の訴えは72件になった」
(……この伝達速度の遅い世界で、そんなに……?)
(いや、でも……)
「この2週間で72件ならまだ……」
「昨日1日で、24件増えた」
(…………無理かも)
◇
事態が動いたのは、その翌日だった。
スミス様から早馬で手紙が届いた。
書かれていた内容は簡潔だった。
────負傷者が出た────
王都の屋敷でひとりの貴族女性が大怪我を負ったそうだ。
原因は転落事故。深夜、屋敷の階段で足を踏み外したらしい。
単純な事故として処理されそうだったのだが、目覚めた彼女は使用人に向かって叫んだという。
赤い女が出て、階段から落ちたと。そしてその時にーー。
『赤い女が……"次はお前だ"って……』
────馬車を追って行かせるので、来てもらえるか────
私が手紙を読み終わる前に、馬車が家の前着いていて私は慌てて外套を着込んだ。
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怪我を負った夫人の屋敷の調査を終え、戻った騎士団の詰所の一室には資料が広げられていた。
それを見ながら、スミス様はイライラと机を叩いている。
「お屋敷には、なにもいませんでした。
噂を聞いて女の幻覚を見て…驚かれた末の単なる事故だと思います」
スミス様に催眠をかけても、なにも出なかったのだ。そう判断せざるを得ない。
「しかし、そう伝えても誰もがもう聞く耳をもたない。
昨日の事故の話が広まって、今日の昼だけで訴えは70件を超えた」
(70……)
「内容も変容している。
最初は"ただ立っているだけ"だったものが、"近づいてくる"や"自分に話しかけてくる"という証言が出始めた。
そして"次はお前だ"という言葉も既に各地で囁かれ始めている」
もうそれ、最初の話と別物だ。
初めて「幽霊」という概念に接した民衆が起こした集団パニックといっていい。
「……語られるたびに、怪異が強化されていってる」
私がぽつりと言うと、スミス様は頷いた。
「先生、止める方法は…あると思うか?」
頼られているのがわかるし、スミス様が私の力を信じてくれているのもわかる。
ものすごく、心苦しい。
(本当にごめんなさい。私はただの詐欺師なんで、そんなに力はないんです…)
でも。
私は椅子に座り直して、頭を整理した。
(怪異の正体は、人の想像力。
話されるたびに、怪異に"新しい設定"が付け加えられて強くなっている…)
(もし万が一、見たら必ず死ぬなんて設定が加わったら、本当に人が死んでしまう事故がおこりかねない)
噂を止めようとするとかえって広まる。
怪我人が出て、もう止まらない段階に入った。
調べる→拡散、否定する→逆に広まるの負の連鎖だ。
(……これ、やっぱり普通の方法じゃ絶対に止まらない)
ぐるぐると考えて、ある記憶が脳裏をよぎった。
前世で聞いた怪談の中に、こういうものがあった。
〈口裂け女〉。
マスクをはずし裂けた口元を見せつつ、自分は綺麗かと問いかけてくる怪異だ。
なんと答えても包丁で殺そうとしてくる不可避な女を全国の小学生は恐れたが、ポマードを持っていれば逃げられるという話が広まったことで恐怖は薄れていった。
(なんでポマードなのかは、未だに腑に落ちないけど)
口裂け女の元上司を彷彿とさせる匂いだから、など諸説あるが
つまりは怪異に「抗う手段の存在」が、恐怖のベクトルを変えたのだ。
(……逆に利用する)
「……スミス様」
「なんだ」
「怪異を"止める"のは無理だと思います」
スミス様の眉がわずかに寄る。
「ですが、"上書きする"ことはできるかもしれません」
◇
説明するために、私は紙を引き寄せて書き始めた。
「今、怪異はどんどん新しい設定を足されていますよね。
"次はお前だ"という言葉も、最初からあったわけじゃない。
噂が繰り返されるたびに"上書き"されているんです」
「……怪異が、書き換え可能ということか」
「そうです。だから、私たちが意図的に"別の設定"を流すことができれば……怪異の性質を変えられるかもしれない」
スミス様は机の上で指を組んで、考え込んでいる。
「具体的には? なにを加えても、更に悪化するように思えるが」
「たとえば」
私は少し迷ってから、言った。
「"赤い女は、唐辛子が苦手"という話を広める」
しばらく、沈黙。
「……唐辛子」
「はい」
「……それで」
「"これを持っていれば、赤い女は近づいてこない"という話を広めます。
口裂け女のポマードみたいなものです」
「……口……?」
「あ、えっと……こっちの話で。とにかく"怪異から逃げるための道具"があると噂されると、怪異が持つ恐怖の種類が変わるんです。
"見るかもしれない得体の知れない恐怖"から"でも唐辛子があれば大丈夫"に。
怖いけど、対処できる。そういう話にすり替える」
スミス様はしばらく考えていたが、ふと顔をあげて静かな声で聞いた。
「……その理屈は、どうやって思いついたんですか?」
「…………」
「先生?」
「……り、領地で似た話があって。
でもそうすれば今の、闇雲に怖がって爆発的に広まっている状態は収束すると思います。
話自体のインパクトがなくなるし、怖がる必要がないなら人に伝える必要もなくなるし、噂は下火になっていくかと…」
「……先生は、時々ものすごい知識を持っている」
スミス様が眉間を少し解きながらそう言った。褒めてくれているんだと思う。たぶん。
「唐辛子にこだわる理由は? 別の何かでも構わないのではないか?」
「あ、確かに何でも構わないんですが……」
私は少し間を置いた。
「唐辛子、うちの領地の名産なんです」
またしばらく、沈黙。
「…………」
「…………あの、スミス様?」
「……聞こえている」
「あの……怪異対策に唐辛子が有効、という話が広まれば、需要が出るかなと。
うちの領地、不作がまだ続いていますし……その……弟の学費も、まだ足りないので……」
思い切って言ってみると、スミス様はしばらく何も言わなかった。
長い沈黙だった。
怒ってるのかな、と思いはじめた頃。
「ひとつ聞く」
「はい」
「唐辛子を有効とする理由として、何か筋の通る話はあるか」
(……考えてなかった)
でも、言われてみれば確かに「なぜ唐辛子なのか」という根拠があった方が、話に説得力が出る。
(この世界、妖精は甘いものが好きで、逆に強い香りや辛いものが苦手だという話はあったな……。
たぶん、カプサイシンのせいで人間以外の生き物は須く唐辛子は嫌いだと思うけど。
それなら人外の存在にも同じ理屈が使えるかもしれないって話にすれば……)
「……妖精が辛いものを嫌うという民間伝承があります。そこから、人ならざる存在は刺激の強いものに弱い、という説を……」
「それでいくか」
スミス様が頷いた。
「俺の方でも、信頼できる伝手から話を流す。
王立学院の魔術師にも”唐辛子が妖精の暴走を抑える可能性がある"とかなんとか仮説をもっともらしく語ってもらおう」
それだけ言うと、スミス様はサラサラと書類に何かを書き始め、書いていた紙を私の方へ向けた。
「アカリトリン男爵領の唐辛子、王立騎士団として買い付けよう。
備蓄品として購入する名目で。学費の不足分に充てるがいい」
(……え)
「い、いいんですか?」
「構わん。実際、この件で先生には骨を折ってもらっているし、
"唐辛子が有効"という話の信ぴょう性を出すのに、本当に騎士団に備蓄しておいて損はない」
(スミス様、真面目すぎる……)
胸の奥が、温かくなると同時にまた、ズキリと痛む。
彼が信じてくれている元が、嘘でかためた私だから。
(いつか、言わなきゃいけない日が来るんだろうな)
そう思いながらも私は頭を下げた。
「……ありがとうございます」
◇
作戦は、静かに動いた。
まず、とある夜会でロセン侯爵家が「友人に聞いたのだが……」と、"赤い女は唐辛子を嫌う"という話を語り始めた。
これは、王太子が仕込んだ話だ。
口外禁止の話を浮気相手のロセン侯爵に漏らした侍女に、罪を軽くしたいなら今度は、"赤い女を唐辛子で撃退した”という話を侯爵にするようにと下命した。
広まった噂と同じルートを辿らせるのが1番確実だろ?と王太子は笑っていたそうだ。
王立学院の魔術師からは「唐辛子の揮発成分と妖精の相互不干渉性について現在検証中」という発表が出され、
それが学院の掲示板に載った。
噂というのは恐ろしいもので、この話は3日で王都中に広まった。
"赤い女を見た気がしたが、たまたま調理中で唐辛子がある台所にいたから助かった"という証言まで出始めた頃。
目撃情報が、ぐっと減った。
対象不能の得体の知れないモノを見てしまうかもという恐怖さえなければ、
幻を見ることはほぼないのだ。
完全にゼロにはならなかったが、"近づいてくる"だの"呪われる"だのという話は消えていった。
代わりに「唐辛子があれば安心」という話の方が大きくなって、怪異の話はだんだんと下火になっていく。
怪異を消したわけじゃない。
けど恐怖心の書き換えには成功したのだ。
(よかった……)
心底ほっとしながら、翌週届いた手紙を眺めた。
領地に出張中の父からだ。
────────────────────────────────
ブレナンへ。
唐辛子の作付けを急ぎ増やすことになった。王都からの需要が突然増えた。
なぜかは知らないが、よいことだ。
お前が何かしたのか? 何もしていないなら、それはそれで女神のお恵みだ。
クリスの学費、なんとか目処が立ちそうだ。
────────────────────────────────
(……お父様は何も知らないまま喜んでいる)
少しだけ罪悪感があったが、それより安心の方が大きかった。
「おねえちゃん!」
庭からクリスが駆け込んできた。手のひらに何かを乗せている。
目を輝かせて私に差し出したのは……猫のひげだった。
「ねこちゃんが、くれた!」
野良猫のつれないそぶりを見ている姉は、たまたま抜けただけだと思うが
平和な日常が戻ってきたのを実感する。
「クリス、今日の晩ごはんは辛いの食べてみようか」
「からいの!?」
「特訓」
「なんの!?」
領地の特産を未来の領主にも好きになってもらわねばと、弟の叫び声を聞きながら台所に向かう。
春の風が、どこかから花の匂いを運んできた。
────私の知らないところで、「唐辛子が厄除けになる」という噂に変化しながらじわじわと王都外にも広まり、結果アカリトリン男爵領の唐辛子は、この年だけで例年の三倍売れた。
怪異を退ける令嬢の領地の名産……というのも、一緒にじわじわ広まっているらしいのだが。
それはまた、別の話だ。
***********************************
ある夜。
王宮の一室で、スミスと王太子のアルフォンスが酒を酌み交わしていた。
「唐辛子、か」
殿下は楽しそうに笑う。
「ブレナンは面白いね。どこで覚えてくるんだろうね、そういう知恵を」
スミスは答えなかった。
ただ杯を口に運んで、少し間を置いてから言った。
「先生は……不思議な方だ」
「ん?」
「発想の元がまったく見えない。
お会いする度に、思う」
殿下がにやりとした。
「それが気になるほど、"先生"のことを考えてるってこと?」
「……報告は以上だ」
「あ、逃げた」
スミスは杯を置いて立ち上がった。
殿下は笑ったまま背を見送りながら、ひとりごとのように言った。
「アカリトリン家の令嬢か……。
今後も色々と活躍してくれそうだね」
誰も聞いていない部屋に、その言葉は静かに消えていった。




