3月10日
昨夜設定した七時の起床アラームが鳴り響く。瞼を持ち上げずに手探りでスマートフォンを見つけやっとの思いで停止させる。実に憂鬱だ。もう少し眠りたかったというのもあるが、今日は大学入試の合格発表がある。今の時代これだけネットが普及しているのだからネットで見れば良いというのに親父は現地で見ることに意味があると言ってきかない。そもそもそんなに張り切らなくても結果は分かりきっているというのに。
受験生本人よりも緊張している様子の父親は既にスーツに着替えソファーに腰掛けて、いや正座している。
「母さん、そろそろ出たほうがいいんじゃないかな」
「朝から何度目よ…まだあと一時間はあるからそこで待ってて頂戴」
いつも通り朝の挨拶を済ませ、朝食を摂る。今朝は目玉焼きにコールスローサラダ、バタートーストといった素晴らしきモーニングセットだ。テレビではニュースが流れている。特段これと言って興味を惹かれる内容のものは無さそうだ。
「ゆう、食べたら出るぞ。道中何があるか分からないからな」
「だからまだあと五十五分もあるでしょう!座ってテレビでも観ててくださいな!」
結局このやり取りは家を出る直前まで合計8回も繰り返された。お母さんも放っておけばいいのに律義に毎度対応するからいい夫婦だなと思う。最寄り駅までは徒歩で向かい、二駅乗り継いで目的の駅に到着。親父の言う道中で不測の事態に巻き込まれることは当然と言えば当然だが無かった。駅からは徒歩2分の好立地な大学なのですぐに門に辿り着く。構内を誘導員の指示に従いくねくねと進むと合格発表地点まで到着した。
「くそ!ほらやっぱり遅かったじゃないか!これじゃあ見えない!」
「いや…別に早く見ないと番号がなくなるわけじゃないんだからさ。それにネットでも見れるし」
「いいや分かってない。ゆうは分かってない。親になれば分かる」
なら分かるわけないだろう。親じゃないのだから。そもそもだが俺は見える。視力は両目ともに1.5だ。この距離なら何の問題もなく自分の受験番号を見つけられる。
「だが、これがあれば全て解決さ…良かったなゆう。できる父親を持って。誇りなさい」
そうだった。そもそも奇天烈すぎる人だからこの人のことを真の意味で理解できる日は間違いなく訪れない。世界にこの人くらいだろう息子の合格発表に双眼鏡持ってくるなんて。そんなやりとりをしている間に時刻は進み係の人がボードを覆っていた布地を外す。ジャスト九時、発表の時間だ。
あちらこちらで歓声が上がる。その中には悲鳴も混じっているのかもしれないが。この世の終わりのように絶望した表情で背中を丸めて帰路につく人、飛び上がり喜びを噛みしめる人。
A31055 俺の受験番号はボードに記載してあった。喜んでいないわけではない。だがこれといって何か特別な勉強をしたわけでも必死に予備校に通ったわけでもないのだから他人よりは感動が薄かっただけだと思う。
「ゆう!あああばばばばばあったぞ!凄い!凄いな!!」
若干引いてしまう程の喜びようだが、父親のリアクションとしては世間一般はこうなのだろうか。顔面が原型を留めない程崩れ汁という汁を垂れ流し俺の肩を強く揺さぶる。
「あああああああああありがと」
とてもではないがこの状態の人間を連れて合格者案内窓口に行こうとは思えない。一服して落ち着いてくることを提案し構内の喫煙所へ案内する。その隙に窓口へと向かい合格者が受け取る封筒を入手した俺は煙により落ち着きを取り戻した親父を回収する。駅についてからは合否報告の為俺は上り、親父は職場で自慢してくると満面の笑みで下りの電車に乗った為ここからは別行動だ。
「失礼します。三年四組、佐原ゆうです」
水を打ったように静まり返った職員室の奥から担任の古峠先生がキラキラした目で歩み寄る。そんなに期待している顔で…もしも不合格だったら学生側も傷つくだろうに。
「佐原くん、どうでしたか!」
「合格しました」
一拍置いて先生方が悲鳴とも取れる歓声をあげる。高校も大学も自宅からの距離で選んだ。お世辞にも進学校とは言えない当校において最高学府である東京大学合格者が出たことは創設以来俺が初めてということでそれはそれは喜んでくれている。
「清林の誇りだ!おめでとう!」
謹んでお礼申し上げるが勝手に誇りにされても困ってしまう。まあ、人に喜んでもらえるのは嬉しいと思えるから良いとするか。
ようやく家に帰れる。人混みは苦手だ。元々インドア派なこともあり全身の疲労が凄まじい。インターホンを鳴らすと出てきたお母さんから熱烈なハグを受ける。されるがままの状態を貫き、解放されたところで自室へと戻る。実に大変だった。まだ正午だというのに丸一日動き回ったかのような疲労感。封を開け、一番手前に入っている入学式の案内にざっと目を通し、残りは机に放り投げる。昼飯までの半刻ばかり昼寝に費やすことを誓い相棒の枕へと顔を埋める。すぐに眠りに落ちる感覚があった。机の上の封筒が何やら擦れるような音がしたがそれを確認する前に意識は底へと沈んでいった。
父親が帰宅した際に発した奇声がアラームとなり目を覚ます。昼寝をしてから大凡二十分が経過していた。全く、あの親父を制御しなければならないのだから会社の人たちも大変だろう。俺の上司があの人なら申し訳ないが耐えられる気がしない。
昼飯の焼きそばを食べ終えて自室に戻り先ほど放り投げた書類を一つずつ確認する。中には入学までに行わなければならない手続き等々が記載された紙がこれでもかと重なっている。十分ほどで一通り読み終え、書類を一纏めにしようと持ち上げた時に違和感を覚えた。目を通した書類は何れもA4サイズのプリントであった筈なのだが明らかに一回り大きな紙がある。書類の束の中程に位置しているそれを引っ張り出し中身を確認すると、その紙には充分なスペースがあるにも関わらず小さな字で左上に一文のみが記載されていた。
元いた世界と違うところを見つけるまであなたは前に進めません。




