The little evil of the underground waterway 前編
「うわぁ!…ハァ…ハァ…」
飛び起きると、いつも通りの天井が広がっていた。
「ハァ…なんだ…夢か…」
ホッとしてリチャードは時計を見る。まだ五時五十分。随分と早く起きてしまった。
「…水でも飲んで落ち着こう」
リチャードはキッチンに行くため、ベッドから出る。その時、なにかにぶつかった。暗くてよく見えてなかったが、形からして家具ではない。
「いてっ!な、なににぶつけた〜?」
リチャードが振り返る。そこには角があった。
「うえぇええ!?」
リチャードの目はすっかり覚めた。いや、まだ夢の中だと錯覚してしまうだろうか?
だが、手のズキズキとした痛みが強い存在感を放つ。間違いなく夢ではない。
ここでリチャードはプロになにかしらの異変が起きたことを悟り、慌ててプロの様子を見る。
目の下にはとても深いクマがあり、肌も普段からは考えられないほどに色が悪い。唇も紫になっていて、魘されている様子だ。これではちゃんと寝つけていないだろう。極めつけはドラゴンの姿に戻ってしまった左手や、頭から角が生えてしまっているなど、所々変身を維持できていない。
そのような姿のプロを見て、リチャードが動揺しないわけもなかった。
「プ、プロ!どうしちゃったの!?」
プロは眠れているかも怪しい浅い眠りから覚めると、今の自身の体調を訴えた。
「リチャードォ…プロ…寒い…」
「寒いだって?」
リチャードはプロを持ち上げて、さっきまで自分の寝ていたベッドに寝かせてあげることにした。おでこに手を当てると、体温が人間と比べると遥かに低い。
「くさいぃ…プロ…これいやぁ…」
「臭いか…。なにか香りの強いものをあげればなんとかならないかな…。プロ、美味しいものは食べられそうか?」
「ん…食べる…」
食べるとは言っているものの、いつもみたいに元気に食べるとは言ってこない。本当に体調が悪いらしい。
冷蔵庫の中を見てみるが、ほとんど何もなかった。
所々荒らされた形跡がある。リチャードはプロの仕業ということを察するが、今はそれどころではないので、とりあえずリチャードは、プロをベッドに寝かせ、コンビニに向かうことにした。
家の外に出ると、あたりは濃い霧に包まれていた。霧の都と言えど、ここまで深いのは珍しい。その上まだ九月だと言うのに、外は妙に肌寒く感じた。
だが、それよりも不思議なのが、街に人の気配がないことだ。
この時間なら、普段はジョギングをする人や、早朝から仕事に向かう人、新聞や牛乳の配達などがいてもおかしくないのだが…。
そうこうしているうちにコンビニに着くのだが、コンビニは閉まっていた。
「あれ?二十四時間やってるはずなのに…」
そう言いながらリチャードが扉前まで近寄る。
扉には張り紙が一つ。
"感染症の流行により本日休業"
「感染症の流行…って、そんな病気なんてあったか?あぁ…どうしよう…。こっちはプロが大変だって言うのに〜」
リチャードは途方に暮れる。
その時、どこからともなく「ドサッ」という音が聞こえた。
「なんの音!?」
街の異様な静けさも相まって、リチャードはその異音に少し怯えてしまった。
コンビニの裏手を見ると、ゴミ袋がなにかにかじられたように破られていて中のゴミが散乱していた。
生ゴミの腐敗臭がして、とても酷い気分になる。
「おえぇっ、最悪だ」
リチャードは他に空いてる店がないかを探す。
ここで何も持って帰れないとなると、プロの回復の糸口を掴めない。
リチャードは使命感に駆られ、さらにモヤのかかったロンドンを散策する。
しばらくすると、今度は町の側溝から小さな生物が走っていくような音が聞こえてきた。
「…ネズミか?」
リチャードは訝しんだ。この辺りを担当している清掃屋は、融通の効かないお堅い人間で仕事にプライドを持つタイプだ。ネズミが走るほどの不衛生を見逃すのは考えにくい。
しかし、今はそんなことを考えている場合ではない。なんとかしてプロにご飯を買ってきてあげなければならない。
リチャードは空いている店を探した。
またしばらくコンビニを探していると、リチャードは今日になって初めて人に出くわした。その人は二十代から三十代程度のマスク姿の男性で、なにか考え事をしているような素振りだった。
「すみません。うちの家族が病気になってしまって…。近くで空いてるコンビニかなにかを見かけませんでしたか?」
「コンビニ?やってるわけないだろ。昨日から何人の人がバッタリ倒れてると思ってるんだ?」
「ちょっと待ってください。一体何が起きてるって言うんですか?」
「え?お兄さん知らないの?この地区は昨日から病人が出まくってるんだ。医者にも原因が分からないから、みんな病気にならないように外に出ないんだ」
「そんな…でも、なんでそんないきなり…」
「俺にも分からん。みんな黒ずんだクマが出て寝込んじまってるみたいだ。それじゃあ、俺はもう行くぞ。くれぐれも感染症には気をつけろよ」
「…ありがとうございます」
男は去っていく。男の言っていた症状はプロの症状と合致する。リチャードの焦りがより一層掻き立てられる。
そして、リチャードの嗅覚が、異常を察知する。
「なんか…この辺り変な匂いがするな。この感じは…カビくさい?」
男との会話に気を取られて気づかなかったが、周辺は奇妙な特有の匂いが立ち込めていた。曇った雰囲気で、鼻に刺すようで、強くはないがどことなく刺激臭。そんな、嫌な気分になる匂いだ。
テチテチ
その瞬間、彼の足元をなにかが過ぎ去った。サイズ的にネズミだろうか。それは奥の路地裏に入っていった。しかし、シルエットはずんぐりむっくりとしているものの、どこか決定的に、シルエットがおかしかった。
「…」
リチャードは気になってその路地裏を覗いてみる。
しかし、そこには目視ではなにもいない。
「なんだったんだ…あれ。霧も濃いし、見間違いか?」
リチャードがボヤいて、路地裏を離れようとした時だった。
「キュピ」
なにかが聞こえ、リチャードは再び路地裏に引き寄せられる。
しかし…
「ウッ…」
路地裏の奥へ進むほどに、鼻を刺す匂いは強烈になっていき、リチャードは一度撤退する。
「プハァ…ハァ…ハァ…。なんだここ…酷い匂いだ…まるで、カビの生えた生ゴ…ミ…」
刹那、リチャードの中で点と点が繋がった。
「プロの言ってた匂い。かじられた生ゴミ。ネズミのような足音。ドラゴン災害は、生理現象。もしかして…この病気は…」
リチャードがなにかに気がつくと、足音が聞こえてくる。
テチ…テチ…
しかも一つの方向からではない。路地裏だけでなく、側溝やすぐ近くのゴミ捨て場の中からもだ。
テチ…テチ…テチ…
リチャードは路地裏の方向を見る。
足音が止まる。
濃霧がそれを覆い隠すが、なにかがそこにいるのは明白だった。
そして、それは鳴き声をあげる。
『キュピィ』
シルエットはこじんまりとしていたが、複数方向からの足跡、重なって聞こえてくる鳴き声から、複数匹の生命体であることが伺える。
「こいつらが…病原体か!」
リチャードは杖を構え、光線を発射する。
しかし、光線を察知するや否や、シルエットは散り散りになってしまい、次々と霧の中に姿をくらましてしまった。
「待て!」
リチャードは、彼らを追おうとしたものの、体が止まる。今のリチャードには、他にやることがあるのではないだろうか。
「クソっ!この病気はあのドラゴンがなにかしら関与しているんだ!でも…このままだと…プロが…」
リチャードは彼らの追跡を諦めた。しかし、必ず奴らを捉えてやると、リチャードの中で明確な決意が生まれた。
リチャードは、空いてる飲食物を買える店を探して、街を歩き回った。
しばらくすると、店を開け始める灯りが見えた。
「す、すいません!なにか…なにか食べ物を売ってませんか?」
リチャードは、店の開店作業をしている中年の男性に尋ねた。
「お兄さん。バカ言っちゃいけないよ?見りゃ分かるだろ。ここは本屋だぞ」
息を切らしたリチャードが見上げると、看板には間違いなく「Bookshop」と書いてあった。
リチャードは明かりの少なすぎる街を彷徨い続けたことで、混乱してしまっていた。
「…すみません。早とちり…でした…」
リチャードは俯いて、歩いてゆく。一瞬、救いの光のように輝いて見えた店の明かりも、今は皮肉めいて見えた。
「…待ちな」
中年がリチャードを呼び止める。
「中入れ。うちのモーニングをやるよ」
中年がそう言うと、リチャードは込み上げるように涙がこぼれた。
店の奥は住居になっていて、奥のキッチンには男性と同じような年齢と思われる女性がいた。
「おい、メリッサ。いつものサンドイッチをもう一人分作ってくれ」
「どうしたんですあなた」
「客人だ。食べ物が欲しいらしい」
「あら…そんな大層なものは出せませんよ?」
「なんでもいいと言っとる」
「それなら、気持ちだけでもお客様に出して恥じないものを出さなきゃいけませんねぇ」
「あ、あの…実は…ご飯が欲しいのは、うちにいる別の子なんです。朝起きたら体調を崩していて…何か食べさせてあげたいんですが…」
「あれまぁ。だったらこれ持ってって。作り置きだけど元気出るはずよ」
メリッサと呼ばれたその人は、冷蔵庫から鍋を取りだし、その鍋を強火で熱し始める。
しばらくすると、トーストが焼けて、キッチンでは二つのコンロがフル稼働する。メリッサはスープを保温ポッドに入れる。フライパンの上でこんがりと仕上がったスクランブルエッグとベーコンもトーストに挟まれると、すぐ様紙袋に包まれてリチャードの元に渡された。
「すみません…ここまでしてもらって。あの子も喜ぶと思います。近々なにかお礼させてください」
「いいのよ。その子が待ってるんでしょ?早く食べさせてあげて」
「お礼待っとるぞ〜」
「あんたは開店作業早くしてきな」
「あー…あいあい」
リチャードは苦笑いしながらも、その場を後にする。
このサンドイッチとスープが少しでも冷めないうちに、プロに届けてあげようと、その一心で足を動かした。
「ただいま!遅くなってごめん!」
「リチャード…」
「いいものを貰ってきたんだ…お食べ」
リチャードは包み紙を開けて、中のサンドイッチをプロに食べさせる。
元気がないといえど、プロの一口は相変わらず、ドラゴンであることを思い出させるように大きい。
「美味しいか?」
「うん…美味しい」
「元気、出そうか?」
「頑張る…」
スープやサンドイッチを食べきると、プロはスっと寝てしまう。
よく寝れてなかったせいでとても疲れていたんだろうとリチャードは察した。
プロが眠ったのを確認すると、リチャードは家を出る。一度は逃がした。だが二度はない。あの小さな悪魔を必ず始末する。強い決意が、彼を霧の都の街へと繰り出させた。
第三話【完】




