ロンドンはドラゴンを赦すのか 前編
生活圏を逸脱した上空の空気は、あまりに澄んでいて気持ちがいい。
緊張の糸がプツリと切れたからか、はたまた逃避行の疲れからか、いつの間にかリチャードは眠ってしまっていたが、今目を覚ました。
目覚ましの効果を発揮したのは、プロの急降下だった。
「プロ、どうしたの?」
プロは何も言わない。だが、どこかに向かおうとしていて、その場所がこの直下近辺なのを感じ取ったのだろう。
「うわあぁあぁ!」
雲を抜けて地上が見えるようになると、リチャードはまたしても絶景に息を飲むことになる。
どこまでも広がるような草原とその奥で深い青に染まるイギリス海峡。そして、その二つの境界線を白くなぞったようなチョークの崖。
イースト・サセックス屈指の絶景・ビーチー岬付近に二人は降り立ち、プロはここで人間の姿にもどる。
「こんな綺麗な景色、写真でしか見た事がない。絵の中にいるみたいだ。そう思うだろ?プロ」
だが、プロの表情は芳しくない。
「多分向こうに灯台があるはずだよ。海に浮かんでるみたいで、とても綺麗なのを、写真で見たことがある。一緒に、見に行こう──」
「リチャード。違うの」
海風が彼女の髪を靡かせる。
プロの芳しくない表情は、まるでリチャードを哀れんでいるようだった。オレンジ色に染まり始めた空が、逆光になってプロの表情をより暗く見せる。
「違うって……なにが?」
「リチャード、わかってる。ずっと逃げる……できない」
悔しかった。そんなことはわかっていた。だが、現実を見れなかった──見たくなかった。
だが、最も悔しかったのは、プロにそれを気づかせる責任を負わせてしまったことだった。
「……」
リチャードの表情は萎れていく。もう無理をして笑顔を作らなくてもいい。ここでプロや自分の本当の気持ちと向き合わないのは不誠実だ。
「あのさ……プロといたいのは本当なんだ。わかるだろ?じゃなきゃここまでしな──」
「プロ、わかってた。リチャード……プロのせいで、痛い、辛い」
「それは違うよ、プロがいなきゃ……俺、ここまで頑張れなかったんだ」
「でも、リチャード……が、お家、出ていく。寒いのくる、全部、プロ、が、悪い」
「プロ!」
「リチャード、ごめん……ね……」
次の瞬間、リチャードはプロを抱きしめる。
「リチャード……」
「……俺はプロと一緒にいたいんだ。だから、逃げたんだ。一緒にいられるなら、それ以外の全部がどうでもいい。俺は、プロと生きることを選ぶ。」
「リチャード……」
少しプロの声が上擦る。
「プロ……リチャード……痛いのやだ……でも……一緒にいたい」
「それでいい」
「プロ……一緒にいる、いいの?」
「いいんだよ。ずっと、一緒にいよう」
お互いに目を閉じて、抱きしめ合う。そこには、誰の干渉も許されない。
──ただし、一人を除いて。
リチャードの背に、切っ先が向けられる。
「無作法とは存じているが、生憎作法より任務が優先だ」
コーディーは、もう背後に立っていた。まるで、最初からそこにいたかのように、気配の一つすら感じさせなかった。
だが、リチャードは動じない。
「ロイヤーくんは、生きていますか?」
「話す義理はない」
「この質問に答えてくれたら、俺は自首します」
「交渉に意味はない。既に君は制圧されている」
コーディーは見抜いていた。逆にリチャードもそうなるとわかっていた。
リチャードとプロの"それぞれと一緒なら捕まってもいい"というささやかな想いと、コーディーの使命。
その利害が初めて一致した瞬間だった。
リチャードとプロは、そのまま輸送される。
周りの情報は何も無い。
魔法か魔術かで二人には著しい情報遮断が行われていて、体感時間が過ぎることが唯一の情報と言ってよかった。
どこに送られているのかはまだ分からないが、王立ドラゴン討伐院が国家機関であることを考えるに、ロンドンの中心、ウェストミンスター近辺が目的地なのだろう。
魔法使いに輸送されてから、初めてリチャードとプロが得た情報は、自分たちが豪華な装飾の施された部屋にいるということだった。
紅蓮に金縁のカーテンや絨毯に大理石でできた壁や床、そして彫刻があしらわれた演壇。そのどれもが重厚感を感じさせる。
手足には水晶のように透き通った枷がつけられている。
「裁判を始める」
それまで、静寂だった部屋に一声が放たれる。
その言葉を発したのは、他でもないコーディーだった。
部屋には二人とコーディーだけ。静寂はこのせいだった。
「変異のドラゴンから事情聴取が可能ならば、事情を聞けと言われている。そして、ドラゴンの逃亡を幇助したリチャード・オブライエン。お前からもだ」
そしてコーディーは質問を投げかけ始める。まずはプロに質問をした。
「ドラゴン……お前はなぜ、人間に化けて生きていた」
「プロ、リチャード……好き。リチャード、優しい」
「ほう……やはり、随分と懐いているようだな。では、リチャード・オブライエン。お前はなぜ、魔法使いという身でありながら、ドラゴンを匿った」
「プロと初めて会った時、この子は深手を負っていたんです。もう、長くないかもって思ったんです」
「そうか。ならば……討伐してしまえばよかったのでは?なぜそうしなかった」
「……言わなきゃ、いけませんか?」
「ああ」
プロの顔を横目で見るとより一層言い出せなかった。だが、しばらくしてリチャードは口を開いた。
「……あの頃の俺は、ドラゴンを討伐するのが……怖かったんです。プロに思い入れがあるとか、そんな綺麗事じゃ……ありませんでした」
「ドラゴンを倒すのが怖いか」
「今は違う……んです」
「なにが、違う?」
リチャードは次にくる質問がわかっていた。故に彼の答えはボヤけていた。
「ドラゴンを殺すことには、だいぶ抵抗が無くなったんです。でも……俺がドラゴンを殺せるようになったのは、色んな人との出会いのおかげで……その最初の人がプロだったんです」
「……」
「プロは、よく食べる子です。女の子だから……きっと、洋服とかも好きになるかもしれません。大人になったら、化粧品やバッグにもこだわると思います。そのためには……お金がかかります」
「では、討伐すればいいだろう。金はかからない」
コーディーは心なく告げる。その声は乾いていてとても冷淡だ。
「かかっていいんです。ドラゴンだとしても、人並みの生き方をさせてあげたいって……間違ってますか?」
「人なら間違いではない。だがドラゴンにその権利はない」
「俺は、プロだって人だと思っています」
「ドラゴンだ」
「人ですよ……人としてご飯を食べたり、遊んだり、怒ったり、笑ったり、種族がどうかじゃない。人として生きたいかが判断基準じゃないですか?」
「ならない」
コーディーは断言した。
「それは、人だから許される。実際のドラゴンは意図せず街に超常現象を引き起こし、ダメージを与える。実際、この間ハンプシャーやウェスト・サセックス、ロンドンを襲った大型のアトランティックサンダーフライは、一般市民三十八人、魔法使い百六十三人が犠牲になった。類例を見ないレベルの大災害だ」
「それでも、プロは」
「今は安定してるかもしれない。だが、感情が制御できない時、こいつはどうする。その上、変身するドラゴンだ。警戒態勢を敷く隙すらなく、街中で大災害を起こす可能性がある」
「……」
「ドラゴンになって、街や人を殺すんじゃないか」
「それは違いますよ!」
だが、根拠は提示できない。部屋は静けさに包まれた。
「ドラゴンを匿うというのはそういうことだ。ましてや魔法使いがな。消防士がタバコの不始末を正当化しているようなもの。これで、リチャード・オブライエン。お前のやった事の重大さがわかるはずだ」
「……それでも──」
「お前は、命を守ったんじゃない。災害を防がなかったんだ」
リチャードは何も返す言葉がなかった。
ドラゴンが災害である以上、プロだけが違うという論が通じない。
「決まりだな」
コーディーは無慈悲に告げた。
「いや……プロだけは違う……違っ──」
次の瞬間、リチャードの腹部を鈍痛が襲う。
コーディーが蹴りを彼の腹部に命中させていた。
「リチャード!」
「な……なにを……」
リチャードはうずくまりながら、コーディーの顔を見上げる。
なにも感情を感じ取れない固まった表情だが、その瞳はどこまでも冷たく凍てつくような視線だった。
「私は国王様から、判決から処刑方法まですべて一任されている」
続けざまにコーディーはリチャードを蹴る。
「これは、魔法使いという職務に泥を塗った分だ」
そして、また蹴りを入れる。コーディーはその都度、彼と縁のある組織や概念、そして街の名を出して、大義にした。
その時、プロの枷が外される。
枷が外されたものの、プロは力が抜けてしまって動こうにも動けない。
「どうした。守らないのか?」
コーディーの冬の山の空気のように透明感のある声が、冷淡にプロに問いかける。
「リ、リチャードを痛いしないで!」
「お前は勘違いしてる。お前がいなければこいつはこんな目に遭わなかった。こいつはお前のせいで罰を受ける。お前もじきに細切れにする」
そう言いつつ、コーディーはさらにリチャードに蹴りを入れる。
「やめて!」
プロの脚は力を取り戻し、リチャードに駆け寄る。
幸いリチャードは死んでいない。
「どけ。その男を再起不能にする方が先だ」
プロは怒りに燃える。
体内のエネルギーが増幅されるのは肌が感じる。
「ダメだ…………プロ…………」
激痛に震えながらも、リチャードは声を絞り出した。
だが、プロの耳には届かない。
目に一筋の赤い光が点った。
爪は伸び出し、表皮もざわめいて少しだけ人体とは違う、艶のある赤みを帯び始める。
コーディーはその様子を表情こそ崩れずとも、観察するように見ていた。
彼女はドラゴンに変身──しなかった。
変身は止まってしまった。艶のある赤色が引いていき、爪も元に戻る。彼女はドラゴンに変身しなかった。
「なぜ、変身しない」
「プロ、リチャード、と、一緒。プロ、リチャード、一緒なら、ドラゴン、いらない」
「いらないではない。お前はドラゴンだ」
「いらない!ならない!リチャードといる!」
プロは両手を広げて立ち塞がった。声は震えていた。
「だから……リチャード……に……痛いしないで……お願い……」
不意に、涙が溢れ出てしまう。彼の冷たい視線や、恐怖に立ち向かうことは、プレッシャーとなっていた。もしかしたら、自分は殺されてしまうかもしれない。そう思うと、立ち上がっただけでもプロは立派だった。
「変異進行……強制停止。外部刺激による暴走、確認されず。精神的にも安定。要因は……それが、制御因子か」
ボソッとコーディーが呟く。
目の前では自らの蹴りによりズタボロになったリチャードと、恐怖に震えて涙を流しながらも、両手を広げてリチャードを守ろうとするプロの姿。
彼の中で、判断は決まった。
「判決を下す。件のドラゴンを討伐対象から除外し、それに伴いリチャード・オブライエンも、今回の一件に関しては条件付きで無罪とする」
二人は唖然とした。
その間、コーディーはなんの変哲もなさそうにリチャードの枷を解く。枷から解かれ自由の身になったにも関わらず、二人は唖然としたままだ。
「……なんだ、反応が薄いな」
「いや、その……本当に、いいんですか?」
「そう判断した。それだけだ。もちろん条件付きなので、それは後々書面で送る」
コーディーの業務的な態度は相変わらずだった。
「いえ、その、えっと……あ、ありがとうこざいま──おぼふっ!」
「リチャード!リチャードォ!」
リチャードがコーディーに感謝を述べようとした時、プロが思いっきり抱きついてきた。
「いてて……」
「リチャード!リチャード!」
リチャードの胸に顔を埋める。声が服に吸収されて籠る。まるで枕に気持ちを吐き出すように。
そのくらいプロは、リチャードと一緒にいられることが嬉しかった。
「ちょっ、プロ、やめろよ!アハハ」
そうだ。プロはこういう明るい子だった。
逃避行の間、彼女を曇らせていたのは、自分がリチャードを苦しめてしまうという自責の念からだったのだろう。
解き放たれた今の彼女は、顔を埋めていて表情は見えないが、とても嬉しくて、ホッとしているはずだ。
リチャードも安心すると、涙がじわりと溢れてくる。
この時リチャードは"生きててよかった"と思うのだった。
そしてコーディーはただ彼らを見つめるだけだった。
「よかったのか?処刑しなくて」
剣が語りかける。マウンダーだった。
「ああ。私は、彼らを処刑する理由を見つけられなかった」
コーディーはそう述べる。表情は一切崩れない。だが、その裏で拳が力を込めて握られていた。
「親父は悲しむだろうな。あの人は『正義に従え』という家訓を、どこまでも重んじた人だった」
マウンダーの言葉はコーディーの心にも深く刺さった。だが──
「……承知の上だ」
コーディーはそれでも、自分の決断に後悔はしない。
「そうか…………やっと、らしくなったな」
「……らしく?」
コーディーはその言葉の真意がわからなかった。
「三百年、このフロストベルの家に仕えて、色んな剣士を見てきた。そして、中にはお前みたいに、家と衝突したやつだっていた」
それを聞いてコーディーはピクリと驚いた。
「そうやって、家の正義は少しずつ変わっていった。変わることを恐れなかったやつほど、立派な剣士になったもんだ。コーディー、お前はやっと、変わることの大切さを知ったんだ」
その言葉を聞くと、彼の拳は少しだけ力を緩めた。




