30話:甘い甘い甘い!
「──は?」
「さっき申したではないか。相性がよいと」
アウリアは両目をまん丸に見開くと、獲物を仕留めにかかるオスの眼に見据えられて、竦み上がったのだった。
(噛まれた首が、ジンジンするのです)
ユリアスの背後で、湖が噴水のように吹き上がり、辺りに水飛沫を散らした。
爽やかイオンに包まれて、湖の上空に七色の虹が浮かび上がった。
アウリアは身を翻すなり猛ダッシュで逃げた。
ユリアスは虚を衝かれ、出遅れた。
「なっ、アウリア!」
「ルール違反です! わたしは対象外なのですよ!」
「誰が決めた」
水の珠が弾け、アウリアの靴が脱げた。
空を振り仰げば水柱のように高く噴き上がった湖水が、アウリアの頭から襲ってくる。
「ひゃああ」
「逃げるな」
「獣ですか!」
水が滴るほどに髪が濡れてしまった。
ユリアスが声をあげて笑い、虚空に手を突っ込むとタオルを取り出した。
「そなたは男をわかっておらぬ」
「はひ!?」
「逃げたら追いかけたくなるのだぞ」
「怖い怖い怖い」
ユリアスはタオルをアウリアの頭に置いて、軽く息をついた。
「許せ、やりすぎた」
アウリアの美しく結われた髪の雫を拭い始める。
「ユリアスさまなら、一瞬で乾かすことができるのでは?」
濡れたドレスが気持ち悪くて、アウリアは恨めしそうに言った。
ユリアスも少しは反省していて、言い訳をした。
「魔力を出すか出さぬかの、微妙な、微妙すぎる加減が苦手なのだ。そもそもオレは勝手に魔力が溢れるからな。極限まで抑えつつの加減になる。これまで考えたこともなかったゆえ、練習がいる」
と言って、ユリアスは今まさに練習したのだった。
その結果、温風とともにアウリアの髪がバアーンと解け、眼鏡が飛んでいった。
「ゆ、ユリアスさま!」
「ふむ、自分に施すのとはわけが違うのだ。ほんとうに、ちょっとも出してはいけないのだ」
真剣な物言いはかわいらしくもあった。
アウリアは機嫌を直しながら、ユリアスが黒猫の足をコケさせたことを脳裏に浮かべ、
「大魔道士さまをコケさせたときのアレ、ピンポイントで見事でしたよ」
「人間がアレを食らったら、即死だ」
「え……」
ドン引きした。
そして、不安になった。
「そんな様子だと、実は身体強化も難しいのでは」
「一度はそなたにできたではないか! すぐ習得できる!」
ユリアスは剥きになったが、アウリアは心底難しい気がした。
(まさかのまぐれだったとは。さもいつでもできるような顔をされていたのに)
アウリアは悩ましげに、タオルの隙間からユリアスを上目遣いした。
ユリアスはアウリアの顎に指をかけると、蜂蜜色の瞳を覗き込む。
アウリアもまた、澄んだエメラルドの双眸の、焼け付くように迫る眼差しに身震いした。
「オレを信じろ」
「・・・」
冷風になったり温風になったりして、ユリアスはがんばってアウリアを乾かすことに成功した。
乾燥機の中で、ふぉふぉふぉされているような心地で、他人のために操るにはまだ時間がかかりそうだった。
「では、交渉するとしよう」
「ふぅん、交渉なのですね」
交渉とは条件を探って動かす途中のやりとり。取引は条件を決めて実行する約束。
そうつまり交渉は「まだ変えられる」余地がある段階で、取引は「もう確定」となる。
「そなたは今、オレの他の者を身体強化する魔力操作に不安を抱いた。まったく信じた様子もない」
「ええ、まぐれではとても、わたしの説は使えません」
「そこでだ。オレは魔力操作を完璧にする。そして19日に、陛下にそなたを妃内定者として報告する」
「ユリアスさま!」
「最後まで聞け」
アウリアは心臓が破裂しそうな心地だった。
バクバク高鳴りが収まらない。
「なぜ19日かというと、レティシアが姿を消した日から2週間後、陛下は軍を動かすと内々に通知した。レティシア失踪日とされているのが6日だ。指示書撤回最終ラインが19日の夕刻18時。軍事宮は6の倍数で動くためだ」
ユリアスは説明しなかったが、軍事宮は動かす軍の大きさで2、4、6の倍数で指示書が動く。小隊は2時間、中隊は4時間、大隊は6時間で編成が完了するからだ。
陛下が20日に軍を出せと命じ、軍事宮は事案に応じて大隊を動かすことを決定した。
準備を始めるのが6時間前。
身内が関わる事案からは外される原則に基づき、アレンヴィクには通知されない。
アウリアは激しく思考を揺らした。
(探すだけなら魔道部隊で簡単なはずなのです。でも陛下が軍を動かすのは……)
「征討と判断されたのですか?」
アウリアの声が震えた。
王に叛意を抱いた者を、正義の名のもとに討つという意味だ。
反逆者であるという判断が下っている前提なので、かなり強い。
(大ごとなのです。国王は王太子の子が産める唯一の令嬢と思っているレティシア嬢を逃がす気はなく、お兄さまを許さないのです)
「オレはレティシアが逃げるまで、のらりくらり婚姻の話を避けていた。彼女が承諾しないことをいいことに。今回のことは、対応を誤ったオレの責任だ」
「まったくです」
「おいこら、そこはオレを庇うところだぞ」
「ふぅん」
アウリアはユリアスにはまったく怒っていなかった。
むしろユリアスが王太子だからこそ、陛下にレティシア以外の妃案を出す余地が生まれているのだ。
「ユリアスさま、陛下は婚姻も急かしておいでなのですか? それともレティシア嬢に変わる案があれば、婚姻は急がないのですか?」
「言いたいことはわかる。婚姻を急がぬなら、オレも急いで魔力操作を習得する必要はない」
「そうなのです」
「では思い出せ。過去の竜の加護を持った王子たちはどうだったか」
アウリアは眉根をよせた。
(そういえば、成人することもままならなかったのです。魔力抑制の方法が確立されてから成人できるようになったものの、ユリアスさまの魔力は尋常ではない。国を浄化? 人の力ではありえないのです)
「反動で、ぽっくりお亡くなりになることを恐れているのですね?」
「そうだ」
(はぁ、やはり、陛下が望んでいるのは世継ぎだけ。だから軍を動かすなどという発想になるのです)
「ユリアスさま、最初の話に戻りますが」
「ああ」
「ユリアスさまが身体強化を施す魔力操作が完璧にできたとしても、陛下のお心は、レティシア嬢が最有力候補のままですか?」
「そうだな。オレたちの相性など端から気にかけぬ、未知数の方法にも関心は持たぬだろう。世継ぎができたかできなかったか。求められるのは結果だけだ」
「すると陛下に納得していただくには、レティシア嬢より確実に子が為せる妃候補を提案しなくてはいけないのですね?」
「身も蓋もないが、そうだ」
「それ、アホな提案だとおわかりですよね?」
アウリアは皮肉げに言い、ユリアスは沈黙で返した。
「誰であろうと、確実に子が為せる妃候補など提案できるはずもない。そんなこと、神さまにだってわからないのですよ!」
アウリアの怒りにユリアスの表情が翳った。
アウリアは自分の顔をユリアスに向けた。
彼のエメラルドの眼に、おのれの金の眼が映り込むほどに見ひらかせた。
「新たな妃候補に、陛下の関心を引くものが一つあればいい。それで今回は幕引きですよね?」
燃えるように光る金の瞳と向き合いながら、ユリアスの眼が揺らいだ。
「そうだ」
「兄とレティシア嬢は解放されますか? 陛下のお咎めなしで?」
「約束する」
「ありがとうございます」
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公務に追われた後、エメラルド宮の執務室には王太子と筆頭補佐官が顔を合わせていた。
ユリアスは王太子のマントを脱ぎ、小姓が用意した軽食のテーブルにつき、レンは少しも減らない執務箱を持って、ユリアスの前に陣取った。
先に口を開いたのはユリアスだった。
「陛下の様子は?」
「探らせているが、ユリアスの動きを待っている感じだ。軍事宮への出動命令はそのままだ」
ユリアスは頷くと、ワインの瓶を掴んでグラスに注いだ。
「本気なのか?」
「ん?」
「婚姻だ」
ユリアスはむっとした。
「冗談で妃に迎えるなどというわけないだろう」
「しかしなあ、最年少老師にまでのぼりつめたのに、妃の器に収まろうとするか?」
レンは妃に賢さは必要ないと考えていた。パレスには優秀な人材が集まっており、良くも悪くもグレーに物事が進む。聡明な若い女が物事の本質をついてまわり、正論で横やりを入れたらどうなるか。
「アウリアしかいらぬ」
きっぱりしたユリアスの応えに、レンは目を瞠った。
「腹を括るか」
レンはクッションを抱えてソファに身を沈めた。
「アウリア嬢を見ていると、大賢者を見ているような気分になるがな」
レンの言うとおりだと、ユリアスも思った。
アウリアの表情はくるくる変化する。感情豊かだ。
それでも彼女の目の奥にあるのは達観した孤独で、陽が届かぬ湖の底のように昏く、静かだった。
不思議なことだ。
滅多に姿を見せない大賢者デュオクロス12世の眼差しが、21歳のアウリアに重なるとは。
「大賢者とは人生を三度繰り返した者のことを言う―――」
そんな格言がパールシアにはあった。
ユリアスはくすっと笑い、レンをぞっとさせた。
「甘い甘い甘い」
「なにが?」
「その顔だ。せめて私の前では出がらしティーパックでいてくれ」
「失礼なやつだな」
と言って、ユリアスはチョコ菓子を口にした。そのチョコは筆頭補佐官のために用意されるもので、ユリアスは甘い物は口にしなかった。
「ひぃぃ、この空気が耐えられない」
「おかしなやつだ」
気心知れた二人は幼なじみでもあった。
だが、そんな二人でも一度も話題にしないことがあった。
それはアウリアの目の色のことだった。
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同じころ、貴族街のアルテ侯爵邸では、アウリアがくしゃみをしていた。
「今日は水浴びをされたようですから、早くお休みください」
サラが言い、隣からメイド・ピオニーが温かいハーブティーを差し出した。
「ノメ、リィ」
「ありがとう」
ピオニーはエメラルド湖でアキトに連れて行かれた後、メイド姿に戻ってアキトを困らせていた。
アキトは涙ながらにアウリアに訴えた。
「私の言うことを聞いてくれないのです。せめて竜の姿で会えるようにしてください」
ピオニーはぷいっと顔を背けていた。
「アウリアさま、よろしいでしょうか」
「はい」
サラは少し言いにくそうにした。その視線はアウリアの赤くなった首に向けられていて、アウリアはハッと手で隠した。
「これは、違うのです」
「ええ、わかっております」
「何を!?」
「殿下は王太子。逆らえないのは重々承知しておりますが、決して、婚姻前になし崩し的な過ちを犯されませんように」
サラの目が据わっていた。
(ひぃっ、婚姻前の過ちって、サラさん?)
王家に忠誠を誓うサラの目にも、、王太子に襲われている初心な貴族令嬢にしか映らなかったのだ。
「だ、大丈夫です! ただの、そう、ただの実験なのです」
「どうぞ、御身を大切になさってください」
「はい! そうします!」




