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29話:酷い目に遭いました



 残る問題は竜の加護だったが、その解決方法としてユリアスから提案があった。

「アウリアと魔塔の竜学者と共同研究をさせる。それも直ちに開始せよ」

 大魔道士はあっさり受け入れた。

「竜学者というても、魔塔も大した蓄積はないのじゃ。行き詰まっておる。アウリア嬢が新しい視点をもたらしてくれたら、王家のためにもなろう」

 アウリアは()()だと思った。

 兄とレティシアの件が置き去りにされているが、はっきりさせる必要があった。


 アウリアは立ち上がると、深く膝を折った。

 貴族女性が目上の者や格上の者に何かを頼むときにとる姿勢だった。

(太腿がぷるぷるなのです)

「殿下、取引をさせてください」

「待て」

 ユリアスは立ち上がった。

 アウリアはハッと口をつぐむ。まずは王太子にだけ。筆頭補佐官にも内容を聞かせないということだ。

 レンも心得ている顔だった。

 ユリアスは他の者に会話を遮断することもできたが、目の前でそれをやられた者たちの所在なさげな空気と言ったら、そこはマナーとしてやらなかった。


 ユリアスが岸辺のほうへ歩き出した。

 独身男女が二人きりというのはよろしくなかったが、オープンな視界の湖畔とあって、レンとサラはテーブルで待つことになった。


 エメラルドの美しい湖面を見ながら、アウリアは背伸びした。

 モグラさんではなく、王太子のユリアスと肩を並べて歩く不思議さを感じながら。

(まさか、エメラルド宮殿の話にしか知らなかった湖を眺めるなんて。堪能できるうちに眺めるのです)

 水の匂いが殊の外爽やかだった。

 湖はふつう藻やプランクトンのせいで青くささが漂う。

 それに湖底の泥。

 水の出入りが少ないので有機物が底にたまりやすい。湿った土の匂いもあって、湖特有の匂いがあるものだが、空気が澄んでいる。


「ひょっとして、浄化的なことがされているのですか?」

「パレス全体に、オレの有り余った魔力が巡っている。浄化作用があるらしい」

「すごいですね」

「まあな、国境も同じ装置を置いたところ、魔獣も寄りつかぬようになった」

(さすがパールシアの主人公。チートなのです)


「先に申しておくが、軽々に取引などと口にしてはならぬ」

 ユリアスはさすがに王太子だった。賢くても若い貴族令嬢を窘めるくらいはするのだった。目くじらを立てるほどでもないが、と微笑んでくれる余裕を見せられて、なおアウリアはしょんぼりした。

 これがアレンヴィクに頭ごなしに言われようものなら、一触即発、自分が悪くても腹を立てたことだろう。


「申し訳ありません。浅慮な行いでした」

(そうなのです。そもそも取引というのは、対等な立場の者がすることなのです。今がチャンスなどと思うことがあっても、王太子に対して失礼極まりないのです。この方はもう、モグラさんではないのですよ)

「言いたいことはわかるが、申してみよ」

「はい。わたくしが竜の加護を明らかにしたあかつきには、兄とレティシア嬢の無条件解放、お咎めなしということで、お願いしたいのです)


 少し、ユリアスの返事に間があった。

 アウリアが顔を向けると、ユリアスが意外そうにしていた。

 それにはアウリアが驚いた。

「竜の加護の口伝を失ったは王家の失態。それを取り返してなお、お許しいただけないのでしょうか」


 ユリアスのエメラルドの瞳が不敵な光を讃えて、アウリアを見据えた。

(う、美しい)

 湖面がキラキラして、それを背にした王太子の美貌は暴力的で、アウリアを殴りにかかる。

(うぅ、この方、見た目だけはよいのです。モグラさんのような親しみは失われましたが)

「そなたは勘違いしている」

「勘違い?」

「オレの望みはなんだ?」

「世継ぎを得ることです」

 アウリアは溜息が出た。


(そうなのです。竜の加護がわからずとも、子は得られる可能性があるのです。ただわたしが竜の加護を不確定要素とするだけで……世継ぎを望む者たちからすれば、お妃はどうなっても、世継ぎさえ産まれたらよいと考える。恐ろしいことに、それが現実なのです)

「相手が誰でもかまわぬことはわかったが、であれば、レティシア嬢で何の問題がある?」


 ユリアスの言葉に、アウリアは答えをもたなかった。

 

「また、王太子がドレイヴェン公爵家との婚姻を望まぬとした場合、妃候補の選定からやり直すことになる」

(荒れるのです、確実に)

「それに」とアウリアは呟いた。

「レティシア嬢が命の危機感から逃げたのだとすれば、半分は解決したとも言えます。残りはレティシア嬢の度胸。お二人が腹を割って話すという選択もありますか?」

「それはない」

 ユリアスはかぶせ気味に素っ気なく応えた。

「そうなのですか?」


 ユリアスは少し悩ましげにアウリアを見た。

「女性にこんなことは言いたくないが、臭いのだ。耐えられぬ」

「臭いとは?」

 ユリアスは大真面目に、かつ苦渋の色を浮かべた。

「舞踏会で踊ることがあるだろう」

「ええ」

「女どもが臭くてやりきれぬ。鼻にだけ結界を施すが、特にドレイヴェン公女のときは念入りにしている」

「香水が苦手なのですか?」

「そうではない。公女などはそばに来るだけで吐き気がする」

「・・・」

 ユリアスの様子からして切実に見えたが、言い方がひどくて眉がひそまった。

「だから言いたくなかったのだ。レンにも絶対口にするなと言われている」

 ユリアスもアウリアに明かすかギリギリまで悩んだのだった。


「ドレイヴェン公女だけですか?」

「一番嫌悪感があるのはそうだ。一つオレの言い訳をすると、馬なみの嗅覚がある」

「う……それは大変ですね。犬よりも優れているなんて」

 犬は麻薬犬や警察犬として活躍するほど優れた嗅覚をもつが、馬はそれ以上。

 遠くの岸辺に打ち上げられて腐った魚の臭いとか、人の視界に入らない場所にひそむ動物の糞が嗅ぎ分けられるのでしょうか。

 ドレイヴェン小公爵の私兵隊が我が家の前に残した馬糞、あれを常に感じるようなものだとしたら――

 アウリアは想像して、鼻が曲がりそうになった。


「今も嗅覚を抑制していますか?」

「少しな。自然の中だと紛れる。自然や動植物の臭いはむしろ好ましい。嫌悪感を引き出すのはいつでも人だ」

 人は一日の中でも匂いが変わる生き物だ。

 緊張すれば汗の質が変わり、恐怖があれば体が先に反応して、それ特有の匂いを出す。動物や虫も匂いで危険を共有し警戒を示す。人だって様々な匂いを発する。落ち着いた状態の匂いは長く続かないのだ。


「殿下に接する方は緊張もしますから、匂いも複雑になる……でも、レティシア嬢が常に緊張しているとは思えないのです」

「おそらく向こうもオレのことが嫌いだろう。理屈抜きで合わぬ。陛下の手前、いやがるわけにはいかぬが」

(なんでしょうか。お互いに理屈抜きで嫌悪するとなると、気になるのです)


「浄化? というようなことも、人には効かないのですか?」

「効かぬな。人の匂いはどうこうできぬものだ。そなたにいずれ聞こうと思っていた。説明がつくならよし。レンなどは、オレの気持ちの問題だと言いだしてな。根性で乗り切れと言いやがる」

(あははははまさかの根性論)

 アウリアはツボに入りそうになって、必死にお腹を叩いた。

 笑うわけにもいかないので、一つ思い当たる説を伝えることにした。


「人は本能的に、HLAという遺伝子の型が違う異性に惹かれるそうです。その遺伝子の異なる相手は、体臭で嗅ぎ分けることができます」

「体臭で?」

「はい。女性と会っているときに、いい匂いだと感じることはありますか?」

 聞きたいのはズバリ、性的魅力に感じる匂いがあるかどうかだが、言葉は濁しておいた。

「いい匂い? 若い女か?」

「はい。お妃候補が絞られる前は、いろんな方と接してらっしゃいますよね?」

「わからぬ。舞踏会で嗅覚を解放するとひどい頭痛を感じる。今は舞踏会の類いでは、嗅覚を遮断している」

「そうですか。でも一度がんばって解放してみてください。五感、直感は重要です。もし好みの匂いがあれば、その方とは相性がいいといえるのですが。逆に相性が悪い人の匂いは好きになれません」

「だったら、オレとドレイヴェン公女は最悪の相性だな」


 ──と、ユリアスとアウリアは目が合った。

「よいか?」

「はい」

 アウリアはユリアスに近づいて、首筋の辺りを嗅ぐように告げた。

「そなたはもっと……」

 ユリアスは苦笑しながら、アウリアの首筋に顔を寄せる。


(ふおぉ……)

 自分で匂いの濃い場所を突き出しておいて、アウリアは恥ずかしくなった。

 そわそわしながら、ユリアスの吐息が触れて脈動が早まるのを堪えた。


「匂いがせぬ」

「嗅覚は解放しましたか」

「したぞ。オレもドキドキしている」

「でも匂いがないと?」

「ない」

「おかしいですね。わたしにだって体臭はあります。香水だって、今日は嗜みとしてつけています」

 

 アウリアは自分の手首に鼻を当てた。かすかに香る。

 再びユリアスが顔を近づけた。

 スンスン、と嗅がれる首筋がくすぐったい。


 ──ペロン

 いきなり舐められた。


「ひひゃあっ」

 思わぬ行為に、飛び上がって逃げようとした。

「あ、待て」

「イヤです! 舐めるのは反則です! マナー違反ただのエロオヤジ!」

 ところがユリアスも必死だった。

 何かわかりかけているという顔で、アウリアの肩を押さえ込んだユリアスは、アウリアのほっそりとした白い首筋に、パクリ、噛みついたのだった。

「っ!」

 ビクンと飛び上がる。

「舐めると良い匂いがする」

 と言って、再度舐める。


 アウリアの目に涙の珠が浮かんだ。

「酷いのです。殿下は何をしても許されると?」

「ふむ。酷いついでによいか」

「はい?」

「そなたを妃に迎える」





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