第九話「“ユキノシロ”目覚め」
「……今や、誰も見とらへん。
今のうちやな」
泉沢は辺りを伺いながら、上着の内ポケットに指を滑らせた。
そして、慎重に取り出したのは──あの小さく、黒光りする異形の物体。
この時代には存在しない、異質な“かたち”だった。
「……おい、それ……!マジか!」
思わず立ち上がる楓に、泉沢が「しーっ」と口元に指を立てた。
「見つかってもうたら、ほんまに怒鳴られるっちゅうねん。
けどなぁ……どうしても知りたいねん。
なんか、気になってしゃあなかってな」
鉄格子越しに差し出されたスマートウォッチを、楓が恐る恐る手に取る。
指先が触れた瞬間、体中を微かな電流が走る。
冷たさとともに、忘れかけていた感覚が蘇る。
「……良かったあ……ハルカ」
ほとんど無意識の呟き。
それを聞いて、泉沢がにやりと笑う。
「ええもんやな、それ。
なんか、持っとるだけで絵になるわ。
城とか、雪乃ちゃんが見たら……どんな顔するんやろなぁ。
見せてやりたいわ、ほんまに」
その瞬間だった。
──ピピッ
沈黙を切り裂くような電子音。
二人の視線が、同時に小さな画面へと吸い寄せられる。
「…はっ、なに!?」
淡い光が、静かに立ち上がった。
やがて、その中央に──英語の文字が浮かび上がる。
《YUKINO SHIRO》
そして。
どこかで聞いた、けれど、確かに知らない少女の声が響いた。
【……こんにちは。わたしは、ユキノシロ】
その声は、雪乃の声だった。
泉沢は、その場にへたり込むように膝をついた。
「……う、うそやろ……? 雪乃ちゃん……? なんで、ここに……」
楓は呆然としながら、口元を強ばらせる。
「ハルカ……じゃ、ない……? いや、ちがう。おまえ……誰だよ……?」
画面には、静かな波紋が広がっていく。
まるで心臓が脈打つように、ゆっくりと、淡く、光が波を描いていた。
「……ユキノ……シロ……?」
その名が、記憶の奥底をノックするように響いた。
【……あなたは、“私”を知っている】
【……私は、“あなた”を知っている】
重なるように届いた声に、楓の喉がひくりと震える。
泉沢が、息を呑む音が空気を切った。
「なぁ……なんなん、これ……オレ、すごいもん見てもうた気がするんやけど」
その目は、恐怖よりも──圧倒的な好奇心に満ちていた。
「つうかな……声、間違いないわ。雪乃ちゃんや……絶対、雪乃ちゃんの声やわ……!」
楓は、ただじっと画面を見つめた。
いくら呼びかけても、何の応答もなかったあのスマートウォッチが──いま、初めて語り始めた。
それも、知らない名前で。知らない存在として。
「……ユキノシロ……おまえ……いったい、誰なんだよ……!」
しかし、問いへの答えはなかった。
ただ、画面が静かに脈打ち、まるで呼吸しているかのように光を放ち続けていた。
それは、記憶の目覚めだった。
眠っていた“何か”が、楓の意識と共鳴し、この時代の空気に揺さぶられながら、ゆっくりと姿を現そうとしていた。
──誰かのなかに残っていた“未来”。
──誰かの記憶が、過去と現在をつなごうとしていた。
それは、声にならない問いかけだった。
“あなたは、誰ですか──?”という。
To be continued…