第八話「鉄格子の外の影」
空は、濁った鉛色をしていた。
錆た鉄格子の窓の隙間から差し込む光は冷たく、湿気と黴の匂いが、薄汚れた床の上に重く沈んでいた。
楓は膝を抱えたまま、ほとんど動かなかった。
昨夜は一睡もできず、心の奥では「スパイ」「売国奴」と投げつけられた罵声が、まだ鈍く響いていた。
「……くそ……」
乾いた吐息とともに手首を見下ろす。
そこには、もう“あれ”はなかった。
黒く光るスマートウォッチ。
ハルカアオイの声を運んでくれた、あの奇妙な絆。
──今や、自分は完全に孤立していた。
そのとき、鉄格子の外から足音が近づいてきた。
コツ、コツ──乾いた靴音が、やけに小気味よく響いていた。
「よう、おはようさん」
現れたのは、年若い憲兵だった。
制帽も制服もきちんと着てはいたが、どこかその雰囲気には、戦時の張りつめた緊張感がなかった。
「名前、楓って言うんやろ。
お前の手首に付いてた……あの道具、あれなんなん?」
「……は?」
「だからな、あの……黒うて光っとったやつやって。
あんなモン、うちの街じゃ売ってへんし。
間違いなく異国のもんやろ?」
その目は、好奇心の塊だった。
これまでの尋問官たちとは違い、威圧も怒号もなく、どこか拍子抜けするほどに軽い。
「おまえ、どこの誰だよ」
「オレか?
兵庫出身でな。
十三のときに親の都合でこっち来たけどな。
……で、あれ、未来の品か?」
「……知らねぇよ。拾ったんだ、たまたま……未来でな」
「──ふぅん、やっぱりそういう感じか」
「なんで納得してんだよ! 意味わかんねえだろ普通!」
青年はくしゃっと笑った。
憲兵らしからぬ、どこか飄々とした笑み。
「泉沢言うねん、オレ。
正直な話、憲兵は性に合わん。
杓子定規とか無理やし、取り調べなんて冗談やで。
せやけど、しゃあなしで制服着とるだけや」
「……じゃあ、何のつもりでここに来たんだよ」
「んー、なんとなく。
お前、気になってしもうた。
ああいうの、持っとる奴見たん初めてやしな」
楓は、泉沢の顔をじっと見つめた。
敵意も、警戒も感じなかった。
ただ、妙な人間臭さがそこにあった。
「オレの同級に、城っておもろい奴おってな。
なんとなく、お前……アイツに似てんねん」
その名前に、楓のまぶたがわずかに動いた。
「城……?」
「知り合いか?」
「……いや。けど、なんか……聞いたことがあるような……」
「アイツ、今頃は大空の上や。
海の向こうで、でっかいことしてるでえ。
昔から、どこか浮いとる奴でな。
……ああいう、よお分からん奴が、あんな機械とか見たら、どんな顔するんやろなあ、って思ってな」
泉沢の声は、妙にあたたかかった。
「そうや。
雪乃ちゃんもおったな。
凛としたええ顔したべっぴんさんやで。
……あの子も、お前の機械見たら、どんなん思うやろな」
「雪乃……?」
胸の奥が、ざわついた。
なぜか、その名前が、どこかで響いた気がした。
──雪乃 視点
「……雪乃ちゃん、起きてる?」
障子の外から母の声がしたが、雪乃は返事をしなかった。
布団のなか、膝の上には、あの黒く冷たい板がある。
昨夜から、ずっと手放せずにいた。
指先で表面をなぞると、ふいに──黒い板が、かすかに震えた。
その中央に、青白く浮かぶ文字。
──HARUKA AOI
意味は分からない。
だが、名を口にした瞬間、脳の奥に波のような衝撃が走った。
「ハルカ……?」
女性の声、遠くから聞こえる都市の喧騒。
高層ビル、煌めく電光掲示板、黒い板を握る後ろ姿の女性、そして──
──楓。
──AI。
──ユキノ……? わたし?
雪乃は頭を抱えた。
耳鳴りのように、言葉や映像が脳内をかき乱す。
(誰……これ、誰の記憶……?)
──視界が暗転する。
気づくと、真紅の空。
燃え盛る家屋。
逃げ惑う人々。
自分は、誰かに手を引っ張られ必死に走っていた。
叫び。
火の手。
崩れゆく瓦礫。
──空襲。
「──あっ……!」
雪乃は息を呑み、現実に戻った。
額は汗に濡れ、手には黒い板。
まだ、静かに光っている。
(わたしは……何を見たの?)
そのとき、どこからか声が聞こえた気がした。
【あなたが、わたし? ……わたしが、あなた?】
心臓が、音もなく震えた。
言葉は消えたが、その余韻だけが、胸に残った。
(わたしは……誰?)
To be continued…