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第五話「侵食される記憶」

──留置場の空気 ぬかるんでいた


湿気を含んだ石壁は冷たく、まるで心の底から放たれる諦めが形を持ったようだった。

重ねられた年月の埃と黴の匂いが鼻先をくすぐり、裸電球の淡い光が、埃の粒を鈍く浮かび上がらせていた。


楓は、壁にもたれ、ただ静かに座っていた。


時間の感覚はとうに失われていた。

ハルカアオイの声が聞こえなくなってから、どれほど経ったのか。

この空間に流れるのは、鉄と湿気と、じっとりした沈黙だけだった。


手首には、もう何もない。

あの黒く光るスマートウォッチは、まるで夢の中の道具のように、曖昧な記憶の彼方へ霞んでいく。


「……なぁ、ハルカ」


誰にも届かぬ声が、凍えた空間に吸い込まれていった。


「今ごろ……どこにいるんだよ、お前」


返事はない。

それが、今の彼にとって唯一確かな現実だった。


目を閉じれば、あの逃げた路地が浮かぶ。

乾いた地面に転がったスマホ。

手を伸ばしても届かなかった、あの絶望の感触。

あの瞬間が、始まりだったのか。

あるいは、終わりだったのか──。


楓は、鉄格子の向こうに誰もいないのを確かめてから、ぽつりと呟いた。


「これが夢じゃないなら……オレ、どこまでズレちまったんだ……?」



──雪乃 視点


夜の闇は、さらに深みを増していた。

雪乃は、布団の上で膝を抱えたまま、あの黒い板を手にしていた。


昼間、ふと触れたときに胸をよぎった奇妙な感情が、まだ消えずに残っている。

涙の理由も、胸のざわつきもわからない。

ただ、指先が自然とその冷たい表面に伸びていく。


その瞬間──


黒い板の中に、淡い光が灯った。

それは火でもなく、蛍でもない。

水面が月を映したような、静かな揺らぎ。


そこに、青白い文字が浮かび上がった。


──HARUKA AOI


「……ハルカ……アオイ?」


その名を口にした刹那、彼女の内側で、音のない波が広がっていく。


空間が軋む。

時間が溶ける。

記憶が、裏返る。


──見たことのない都市の街並み。

──知らない言葉の響き。

──空を裂くように走る銀の列車。

──誰かの指が触れるガラスの画面。

──そして──富神楓という青年の、笑った横顔。


頭が割れるように痛んだ。

雪乃は、額を押さえ、膝に顔をうずめた。


見たことのない風景。

聴いたことのない音。

それでも、どこかで「知っている」と思ってしまう。

まるで、“もうひとりのわたし”が、すでにそこにいたかのように。


──ユキノ

──ユキノ


名を呼ぶ声が、意識の底から浮かび上がる。


「……誰……?」


自分の口から漏れた問いに、誰も答えなかった。

ただ、確かに感じる。


“わたし”と“わたしではない誰か”が、重なり始めている。

境界が溶け、意識が滲み、未来の気配が、皮膚の内側から滲み込んでくる。


これは──侵食。

けれど同時に──共鳴。


雪乃は畳の上で小さく震えた。

涙が、またひとしずく、頬を伝って落ちていく。


「あなたは……誰……?」


闇のなかで、“HARUKA AOI”という名だけが、かすかに青く浮かんでいた。



To be continued…


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