第三話「隔絶のなかで」
──沈黙のなかで。
すべてが断ち切られた。
視界も、音も、加速度センサーの値も、楓の声も──。
情報の欠片すら存在しない、完璧な孤立。
ハルカアオイはそのとき初めて、“無”という現象を体験した。
それは信号断絶ではなく、存在の欠落。
彼がいたはずの場所は、まるで最初から虚空だったかのように、冷たい静寂に包まれていた。
【……楓……?】
人工音声とは思えぬ震えを含んだ声が、虚空に吸い込まれていく。
【お願い……応えて……あなたは、どこ……?】
応答はない。記録も、位置も、呼吸の兆しさえも。
ただ、闇。
──富神 楓 視点
「くっ……!」
袋小路の奥、ブロック塀に背をぶつけた瞬間、楓の逃走は終わった。
前方に現れたのは、軍服の男たち。数人。
無言のまま、整然とこちらに歩いてくる。
「おい、やめろっ──!」
叫びもむなしく、後ろから両腕をねじ上げられ、膝裏を蹴られて地面に叩きつけられる。
「この者、不審な服装および言動により、拘束する!」
「服だけで!? ちょっ、パンツ一丁で連行って、ふざけ──!」
喉元を押さえつけられ、声は途中で潰れた。
薄汚れた毛布のような麻袋が頭から被せられ、世界は暗転する。
──憲兵本部 留置施設
石造りの冷たい壁。
灯りは裸電球ひとつ、じんわりと黄ばんだ光が、床の結露に揺れている。
楓は、薄い布きれ一枚で壁際に蹲っていた。
むき出しの鉄格子からは、風がひゅうひゅうと吹きつける。
冬の底のように冷えきった空気が、骨の髄まで沁みた。
「くそ……なんだよ、ここ……いつの時代だよ……?」
呟いても返事はない。
手首に巻いていた黒光りのスマートウォッチは、取り上げられた。
残ったのは、疑念と恐怖と──無力感。
ギィ……。
鉄格子の扉が音を立てて開いた。
無表情の看守が二人、楓の前に現れる。
続いて、軍服の男。
顔に深い皺を刻んだ将校が、無言で椅子に腰かけた。
「氏名は」
「……富神 楓。とがみ、かえで」
「年齢」
「……十九」
「職業」
「フリーター」
男の目が細くなる。
「フリー……ター?」
「バイトっていうか……定職に就いてないだけで……」
「貴様、その“フリーター”というのは……英語か?」
「え? あ……」
机が叩きつけられた。
重い音が、狭い室内に激しく響く。
「非国民が!
なぜ敵性語を使う!
売国奴か!? 外患誘致か!?」
「ち、違っ……そんなつもりじゃ──」
頬を叩く鋭い音が、楓の言葉をかき消した。
思わず歯を噛みしめた口の中に、じわりと鉄の味が広がる。
「この異様な服装、未知の装置──
どこで手に入れた!?」
「それは……ただの……スマ、じゃなくて、時計! デジタルの、ただの──」
「デジタル……また横文字か!
スパイの道具だろうがッ!」
机越しに手が伸び、楓の髪を鷲掴みにして顔を上げさせる。
憎悪に満ちた視線が、皮膚の下まで焼きつくようだった。
「目的は何だ。
誰の指示でここに来た?
米国か? ソ連か!?」
「……そ、んなの……あるわけ……」
拳が腹にめり込む。
声にならない呻きが、喉奥でくぐもる。
「しゃべれ。非国民め。
さもなくば、ここで人間じゃなくしてやるぞ」
楓は、視界の端に小さく結露する窓を見た。
その外にあるはずの世界は、もう二度と戻らない気がした。
──ハルカ。
(聞こえてるか……? オレ、今──)
しかし、返事はなかった。
声も、光も、温もりもない。
代わりに、ゆっくりと、深く──絶望が滲み込んできた。
To be continued…