第十八話「燃ゆる街、叫ぶ名は遠く」
──夜が、ひとつの街を、焼き尽くしていた。
黒煙が天を覆い、真紅の火柱が木造の街並みに牙をむく。
熱風が窓硝子を溶かし、悲鳴と怒号と赤ん坊の泣き声が、濁った空へ向かって千切れるように昇っていく。
雪乃の家も、例外ではなかった。
「雪乃……!!」
楓の叫び声が、風にかき消されかけながらも空気を裂く。
寝間着姿の雪乃は、ぼんやりと立ち尽くす両親の手を無理やり引いた。
「お父さん! お母さん! こっち!──急いで!」
屋根に火の粉が降る。
軒先がぱちぱちと音を立て、まるで木が泣いているようだった。
だが、その時だった。
父が、ふと顔を曇らせて呟いた。
「……向かいの寺の宗作さん。足が悪いでよ。ワシら、様子見てくるから」
「やめてッ! 一緒に行こう!」
雪乃の声は、熱と風に揺れて届かない。
「宗作さんはな、わしらにとって“家族”みたいなもんだ。いいか、川まで走れ…絶対に立ち止まるんじゃねーぞ!…それだけは、約束してくれな…雪乃」
「大丈夫…雪乃は、母さんの子なんだから……心配なんか、なーんもいらん……ね…」
父、そして母は笑った。
その目が、一瞬だけ何かを諦めたように細められて。──そして、二人は炎のほうへ走っていった。
「お父さん…………!お母さん…………!」
今の雪乃にとって、最後になる、父と母の背中だった。
「雪乃ッ! 急げ!早く!こっち!!」
楓が手を伸ばす。
雪乃の手を取り、がむしゃらに突き当たりを曲がり、走り抜ける。
──だが。
「わっ……!」
崩れ落ちる家屋。
土煙と木屑が唸りを上げ、二人の間を遮った。
「雪乃ッ!!」
「楓ッ!!」
伸ばした手は空を掴み、声だけが交錯する。
「走れッ! 後ろから火が来てる! 死にたくなきゃ、考えるな──マジで走れッ!!オレも、他のみち探して行くから!」
楓の絶叫が、焼けついた雪乃の鼓膜に突き刺さる。
「……くそっ…くそっ…くそっ…くそっ!──なんでだよ……!」
楓は歯を食いしばり、煙を裂いて走る。
後ろを振り返る余裕も、許されなかった。
そのころ──。
泉沢は憲兵本部の待機室で、制帽の影に顔を隠していた。
空襲警報が何度も鳴り響き、窓越しの夜空が、赤と黒の入り混じる不気味な色に染まる。
「……まさかなあ、ホンマにまた来よったか……今回ばっかりは、洒落にならへんで……」
制服の前を乱暴に正し、彼は立ち上がった。
「……みんな……無事でいれくれな…頼むで」
その瞬間、身体は勝手に動き……彼は、炎の夜に身を投げ出した。
城もまた、炎の夜を駆け抜けていた。
空を見上げれば、敵機が編隊を組み、無数の小さな影が舞っていた。
光る点が爆弾であることを知る者だけが、恐怖を飲み込める。
「雪乃……!」
煙を吸い、汗を垂らし、城は焼けつく地面を踏みしめて走った。
雪乃は、瓦礫と炎の迷路をさまよっていた。
膝から血が滲み、顔は煤で汚れ、唇は白く乾いていた。
《YUKINO SHIRO》
【……この先、右。暗渠の下をくぐって。まだ、生きられる。】
「でも、もう……わたし……」
喉が焼ける。
肺が…熱い。
呼吸するたび…鉄と灰の味がした。
──けれど。
【“生きる”って、諦めないこと。】
それは、かつて誰かがくれた、祈りのような声だった。
──その時。
ズシン、と大地が揺れ、遠くで火柱が上がる。
その衝撃が、近くの建物の倒壊させ、雪乃の上へと崩れさせた。
「──!!や……っ」
叫ぶ間もなく、視界は赤く、そして白く塗りつぶされ、世界が、傾いた。
時間が……静止していく。
「──雪乃っ!!…………ゆ、、き、」
倒壊した建物の下、一本の指先が、煤けた梁の隙間から覗いていた。
「雪乃っ!!……雪乃っ!」
建物が倒壊する直前──
しかし、間に合わなかった。
焼け跡に駆けつけた城の声が、夜を裂く。
彼は震える手で、瓦礫を必死にかき分けた。
崩れた木材、焼け焦げた畳、血のにじむ土壁。
その奥に、雪乃の手があった。
「……たのむ……目を開けてくれ……!」
泥と血で汚れた指を握ると、まるで命の火を繋ごうとするように、その手を何度も包んだ。
「──雪乃……おい、約束だろ……!」
(必ず、生きて、帰ってくる。)
その言葉が、胸の奥で重く、鋭く、突き刺さった。
「──雪乃っ……!!!」
燃え尽きていく東京の空に、名前を呼ぶ叫びだけが、いつまでも響いていた。
To be continued…