第十七話「尊く──そして儚き夜」
──静寂のなかで、何かが、終わろうとしていた。
昭和二十年、三月。
風は鈍く湿り、灰色の雲が瓦屋根を重く押し潰すように垂れ込めていた。
燃料も灯も乏しい東京の町に、月は姿を隠し、淡い闇だけが降りていた。
定食屋の暖簾がふわりと揺れ、店の空気が微かに変わった。
「……ただいま…戻りました……」
振り返った楓は、言葉を喉に飲み込んだ。
そこに立っていたのは、確かに“城”の姿。
──だがその影は、まるで戦場で削り落とされた彫像のように見えた。
浅く被った軍帽。
頬に沈む無精髭。
虚ろな目の奥に沈む、深い深い空虚。
かつて太陽のように笑っていた青年の面影は、戦火と喪失の渦のなかで、どこか崩れ落ちていた。
「……城…」
震える声で名を呼んだ雪乃もまた、呼吸を一つためてからようやく言葉を紡いだ。
「…おかえりなさい」
「帰ってきたよ。でも、生きてるだけさ」
城は乾いた声で笑い、湯呑みの緑茶をひと口すすった。
その瞳は何も映していないようで、すべてを見透かしているようでもあった。
「英雄のご帰還やでえ!また、閃光のごとく、派手にバババーンって、飛び回ってたんやろ?」
泉沢の問いかけは、彼なりの気遣いだった。
場の空気を和らげたかったのだ。
けれど──
「地獄だったよ」
その一言が、城の全てを物語っていた。
「…そかあ……まあ…とりあえず城がいれば、日本は負けへんて」
その晩、雪乃の実家の座敷で、ささやかな帰省祝いの膳が囲まれた。
だが、城の沈黙がじわりと空間を浸してゆく。
酒も、肴も、言葉を引き出すには至らなかった。
「城……なんか……変わったな」
楓がぽつりと漏らすと、雪乃も静かに頷いた。
「……」
城はわずかに目を細め、畳の目を見つめながら呟いた。
「……生きてるだけでいい……誰が言った言葉か…もう忘れてしまったけど……今なら少し、わかる気がするよ…」
「そうだよ…生きててくれて……本当に、よかった」
雪乃のその言葉に、城はようやく、ほんの一瞬だけ──微笑んだ。
夜更け。
月もない空を、楓は縁側から仰いでいた。
冷えた空気のなか、手首のスマートウォッチが静かに光る。
《HARUKA AOI:起動》
【ねぇ、楓。……私の名前の由来、知りたい?】
「……名前の由来?」
【“ハルカ、アオイ”──遥か遠く、青い空を目指して飛んでゆく…その言葉は、ある人が残した希望の記録…
それが、“ハルカアオイ”という名の起源──そして…わたしの宝物……その名をくれたのは……あなたなの。楓】
「…ん、オレが……?」
瞬間、時間の糸がねじれたような錯覚が走る。
過去に言葉を刻み、未来に名を与える──そんな因果の交差。
【あなたはこの時代に想いを託す。その言葉が、未来へ、過去へ、連なっていくの】
「…うーーん……まぁ、よく分からんし、いいや」
楓は肩をすくめ、笑った。
「城も帰ってきたしさ。なんとかなるって気がする。
未来も、過去も、なんか全部さ、オレ──もうちょい、この時代を信じてみてようかなって」
その言葉は夜風に紛れるほど軽やかで、それでいて、芯のあるあたたかさを孕んでいた。
一方、雪乃の部屋。
闇の中で、黒い板の画面がうっすらと光を放っていた。
《YUKINO SHIRO》
(……空が泣いてる。火の海の中、逃げて、叫んで……名前を呼ぶ声…瓦礫の音…視界がうすれていく…)
雪乃は、またあの夢を見ていた。
ユキノシロが毎晩のように送り込んでくる“未来の断片”。
あの黒煙。
崩れ落ちた屋根。
炎に焼かれる人の声。
胸が痛い。
息が苦しい。
(……でも、まだ、間に合うかもしれない)
その声が誰のものかは、わからなかった。
けれど雪乃の胸の奥で、確かに何かが囁いていた。
深夜零時。
東京の空が、不意に赤く染まった。
サイレンが鳴り…空襲警報が夜を裂く。
風がうねりをあげ、遠くの空に炎が立ち上る。
(……この光景、夢で見た……)
雪乃は目を見開いた。
未来の幻と、現実の東京が、ぴたりと重なった。
火の手…轟音…破壊と悲鳴。
あの夜が、始まった──。
「雪乃…………!!」
To be continued…