第十六話「命の空、祈りの地」
──空が、またひとりを連れていく。
十二月の港町に吹く風は、鉄の匂いを運んでいた。
朝霧がまだ地表に薄く漂い、遠くの艦橋もかすむほど。
軍港の片隅、鉄条網奥の海上にずらりと並ぶ艦載機の影は、無機質で、まるで死神の鎌が列をなしているようだった。
その中へ、城はまた、ゆっくりと戻っていく。
白い軍帽のつばに指を添え、淡く笑うその表情に、どこか少年の面影が残っていた。
「……じゃあ、またな」
その笑顔は、あまりに静かで、あまりに優しかった。
けれど、楓も、雪乃も、泉沢も、知っていた。
それが、“演技”であることを。
それが、どれほど残酷な強がりかを。
「……城!また、戻ってこいよ……必ずだから…」
楓の声は、喉の奥から滲み出たような掠れ声だった。
「生きて……戻ってきて」
雪乃が袖をぎゅっと握りしめ、潤んだ目で言葉を絞り出す。
「みんな、何言うてんのや……オレが見張っとるさかいな。勝手に死んだら怒鳴りに行くで」
泉沢は冗談めかして笑ったが、まぶたは赤く腫れていた。
城は何も言わず、三人に背を向けて歩き出す。
その背中に、誰も「さよなら」を言えなかった。
なぜなら、その言葉を口にした瞬間、すべてが終わってしまいそうで──
それでも。
彼は振り返り、最後、凛とした振る舞いで、敬礼をした。
その姿は、非情なまでに悲しく、そして、美しかった。
まるで自らを英雄として、大空に差し出す儀式のように見えた。
──あの空へ、もう一度。
1942年6月、ミッドウェー沖。
半年前の出来事である。
赤く染まった水平線の向こうに、巨大な爆煙が立ち上る。
艦隊無線は乱れ、士官の怒号が飛び交う中、城の零戦は、冷え切った機体で空を裂いていた。
あの戦いで、日本は空母四隻を喪失した。
歴史的敗北だった。
だが、大本営は言った──「勝利である」と。
新聞も、ラジオも、街も、そう伝えた。
だが、前線にいた者たちは、感じ取っている。
城もまさしく当事者として。
この国は…静かに、確実に、敗北へと突き進んでいることを。
やがて始まる、特攻という死への栄光。
そして、二年後の日本。
爆弾を抱えて飛び立ち、戻ることのない若者たち。
「神風特別攻撃隊」──
その言葉だけで、兵舎の空気が凍った。
そして、城は。
選ばれなかった。
──いや、「選ばれぬように」されていた。
歴戦の操縦士として、彼は若き隊員たちを訓練し、送り出す側に立たされた。
つまり──見送る者…生き残る者。
朝露がまだ滑走路に残るある日、ひとりの教え子が、城に向かって敬礼をした。
「城教官! 行きます!ありがとうございました!」
「…… 君たちの勇気は、必ずや、日本を勝利に導く」
それだけを、絞り出すように言う。
青年が乗り込んだ機体が、滑走路を滑り、そして──空へ、消えていく。
遠く、遥か遠く遠く、爆音と共に…海が波打ち、空が割れ泣く。
それでも、大空は澄んだままだった。
まるで何事もなかったかのように。
城はただ、腰の横で、強くさらに強く拳を握りしめた。
──何人目だ?
──あと何人、おれは見送ればいい?
──なぜ、おれは生きている?
誰にも聞けなかった。
誰にも、縋れなかった。
指導教官たるもの、涙など決して許されない。
感情を捨て、教本通りに微笑み、若者を死へと送り出す。
それが──「生き残った者」の責務だった。
その頃、雪乃は。
薄暗い部屋の隅、膝を抱えて黒い板を見つめていた。
《YUKINO SHIRO》
黒い画面は何も語らない。
ただ、時折──
炎に焼かれる街、血のように赤い空、逃げ惑う影たち。
そんな断片が、頭の奥にじんわりと流れ込んでくる。
(……怖い……怖い……)
それはユキノシロの声なのか。
それとも、雪乃自身の、心の奥の叫びなのか。
もう彼女には、区別がつかなかった。
──未来で、何が起こるの?
──この先に、光はあるの?
雪乃はそっと画面に手を当て、目を閉じる。
「……あの空が見たい…遥か先の」
ふと、出た言葉は、知らない記憶の断片の景色だった。
誰も傷つけず、誰も失わずに済む、やさしい大空へ。
けれど、彼女は地に足をつけたまま、この現実を生きねばならなかった。
戦争は、より一層強く足音をたて、続いていた。
命は絶え、記録は増え、悲鳴は風に消えていく。
To be continued…