第十五話「たったひとつの嘘」
──風が、妙にあたたかかった。
真珠湾から約一年。
十二月も半ばに差しかかった東京の午後。
空は鈍く霞み、雲の輪郭は溶けかけた鉛筆の線のように曖昧だった。
河原を渡る風には、微かに焦げたような匂いが混じっていた。
煤と鉄が入り混じった、今ではすっかり慣れてしまった匂い──それが、鼻の奥にまとわりついて離れなかった。
楓は、小ぶりな竹かごを片手に、紙に包まれた豆腐をぶら下げて歩いていた。
定食屋の使いで出たはずが、足はいつの間にか記憶に引かれるように、あの男を探していた。
──すると…その姿は、土手の先に…。
草むらの先、河原のなだらかな斜面。
城が、ひとり寝転んでいた。
白い軍服の袖をまくり、腕を枕にして、冬空を静かに仰いでいる。
まるで、何かを忘れたがっているように。
「……昼寝ですか?…英雄さん」
楓が声をかけると、城は目を細めて顔をこちらに向けた。
「おう、楓か!いい陽気だったから、ついな……空は、いいもんだなあ……どこまでも青い…」
乾いた声で笑うその表情は、あの夜と同じ。
完璧な笑顔の仮面だった。
楓は、そっと草の上に腰を下ろす。
風が背中を押してくる。
土の匂いが、ぬるく広がっていた。
「……城さん。オレ、話したいことがあるんです」
「ん?」
「信じてもらえなくていいんです。ただ、言葉にしないと、自分の中で何かがぶっ壊れそうで──」
城は何も言わず、ただ目を閉じて頷いた。
楓は深く息を吸い込み、言葉を選ぶこともせず話し出した。
──未来から来たこと。
──みんなに助けられたこと。
──ハルカアオイ、ユキノシロ、AIのこと。
──雪乃、そして──戦争のこと。
この時代で感じていることすべてを、言葉に変えて城にぶつけた。
少年のような声で、真っ直ぐに。
この空気の重さも、この冬のやさしさも、まるごと吐き出すように。
そして──
「……城さん。本当は……戦争なんか、いや…人殺しなんか、したくないですよね?」
風が、ふっと止んだ。
空が凍るような沈黙の中、城は黙っていた。
川の流れの音だけが、遠くでゆらゆらと響いている。
だが次の瞬間、寝転がりながら──
「──天皇陛下、万歳!!万歳!!万歳!!」
突如、城が叫んだ。
まるで突き動かされるように。
そして、楓の顔をじっと見つめ──
「楓…! おれたちは必ず勝つ! おまえ達のためにもな!……命を賭してでも……この大空に、おれたちの意志を刻むんだ!…そして、日の丸を盛大に掲げようじゃないか!」
声が震えていた。
笑っていた。
だけど、瞳の奥は……泣いていた。
楓は立ち尽くしたまま、言葉を失っていた。
風が戻る。
鳥の鳴き声が、遠くでひとつ響いた。
(嘘だ……)
誰にともなく心の中で呟いた。
けれど、それ以上の言霊は出てこなかった。
城はゆっくりと立ち上がり、軍服の裾についた草を払った。
「さて……今の話、忘れろ。……あんまり変なこと言ってると、憲兵に睨まれるぞ」
背を向け、土手をゆっくりと登ってゆく。
その背中に、楓はただただ呟いた。
「……たったひとつの嘘で…全部を守ろうとしてるんだな……」
──それが、痛いほどわかった。
彼は、誰よりも空を愛していた。
誰よりも、戦いたくなかった。
でもそれを知られることは、許されなかった。
いや、自分を許そうとしなかった。
「…そうだ、楓!これからは、城でいいからな…!また、話そう!」
空は青かった。
けれど、その青は、どこまでも重く、曇って見えた。
その夜。
机の上に置いたスマートウォッチが、小さく脈を打つように光った。
《HARUKA AOI:起動》
【ねえ、楓……】
「……どした…?」
【あの人も、楓と同じくらい、孤独だね】
楓は、答えなかった。
ただ、自分の胸の奥で、何かが静かに崩れ落ちていくのを感じていた。
To be continued…