第十四話「笑顔の影、夜空の悲鳴」
──東京の空に、星はなかった。
冬の風が屋根瓦をなで、街の片隅にわずかな熱を残して過ぎていく。
すでに日も落ち、橙色の街灯がぽつりぽつりと灯り始める頃、古びた暖簾が静かに揺れた。
「ただいま、戻りました」
その声に、厨房で飯を盛っていた楓が顔を上げた。
白く凛々しい士官服。
日焼けの残る肌と整った輪郭には、少年の面影がわずかに残っている。
背筋を伸ばし、誰よりも静かに空気を変える存在。
──それが、城だった。
「おかえりなさい」
雪乃の声が微かに震えた。
けれど、その震えを悟られまいとするように、柔らかな笑みをたたえて立ち尽くす。
「雪乃……変わってないな」
城は照れくさそうに笑った。
彼の目線が、雪乃の隣に立つ青年に向かう。
「……そちらは?」
「あ、富神 楓と申します。一年前から、こちらでお世話になっていて……」
「そうか。不思議だな。初対面なのに……なぜか、とても懐かしい気がする」
その言葉に、楓も目を細めた。
胸の奥で、何かが確かに震えた。
名も知らぬ記憶の底で──「この男を知っている」と告げる何かが、確かにあった。
「……オレも。前に会ったような、ずっと近くにいたような……気がします」
わずかな間が、二人の間に流れた。
その静寂を破るように、泉沢が顔を出した。
「はいはーい! 盛り上がっとるとこ悪いけどな、今日は“白き閃光”の凱旋や! 宴の準備せんと!」
夜。
店の座敷には、湯気と笑い声が渦巻いていた。
湯呑みが交わされ、焼酎が回る。
「でな、その時ちょうど、敵機が三機編隊で迫ってきて……わざと一機だけ見逃してさ…それがこっちに背を向けた瞬間──バババッ! 撃ち抜いてやったわけよ」
城が身振り手振りを交えて語るたびに、客たちから歓声が上がる。
「おぉ、流石!」
「海軍の誇り!」
「空の騎士に、乾杯!」
「万歳! 万歳!」
誰かが声を上げると、座敷にいた者たちが一斉に手を挙げる。
空間が熱を帯び、まるで一夜の夢のように浮かれていた。
雪乃の両親も微笑み、客に酒を注いで回っていた。
けれど、雪乃の目だけは──城の“奥”をじっと見つめていた。
──笑っている。
でも、瞳は笑っていない。
楓も、それに気づいていた。
話す内容も、抑揚も、見事なまでに完璧だ。
けれど、それはまるで、戦争が作った舞台の上で“英雄”を演じる役者のようだった。
「新聞、見たで」
泉沢がぽつりと呟く。
「“白き閃光”──空の騎士やてな…でっかい英雄になっとるんやな」
城は一瞬だけ視線を落とした。
飲めない湯呑みに口をつけ、ゴクリ…そして顔を上げた。
「……皆がそう呼んでるだけさ…おれは何も変わってない」
「なにを照れてんねんて」
それきり、誰も深く踏み込もうとはしなかった。
いや、踏み込めなかった。
なぜなら──彼が本当は何を想い、何を抱えているのか。
誰もが、うすうすと感じ取っていたからだ。
──なぜ、おれだけが生き残っている。
──なぜ、名ばかりが残り、死んだ仲間の声は誰にも届かない。
──なぜ、それを誰も問わないのか。
夜更け。
宴の熱も次第に静まり、客たちが一人、また一人と暖簾をくぐって消えてゆく。
「ありがとう、皆。……しばしの帰省、少しだけ、休ませてもらう」
城がそう言って立ち上がると、誰かが声をかけた。
「また、帰ったら話を聞かせてくれよ!」
その言葉に、城は笑った。
──帰れるだろうか。
その想いだけを胸に秘め、彼は誰にも背を見せず、静かに暖簾をくぐった。
深夜。
楓の部屋の片隅で、スマートウォッチがぼんやりと灯った。
《HARUKA AOI:起動》
【楓、さっきの人……“城”って言ったね。記憶に該当する複数のフラグメントを確認。おそらく、あなたと彼は──】
「…そっかあ……やっぱりな…」
楓はつぶやいた。
納得と、何か言い知れぬ寂しさを込めて。
同じころ──
雪乃の部屋の暗がりで、黒い板が小さく瞬いていた。
《YUKINOSHIRO:起動》
【……彼は、笑っていたけれど、泣いていた。わたしには、わかる】
その言葉に、雪乃の胸が締めつけられた。
──この国は、まだ“笑っている”。
けれどそれは、ほんとうの顔ではない。
そして──
夜空の向こう、星が見えないのは、
誰かの涙が、光を覆っているからかもしれなかった。
To be continued…