第十三話「沈む陽、逃れられぬ影」
──陽が、落ちていく。
瓦屋根のあいだからこぼれる夕陽は、まるで燃え尽きた記憶を引きずるように、静かに沈んでいった。
空の端には、赤錆びた雲がちぎれた絵の具のように漂い、湿り気を帯びた風が、肌にそっと貼りつく。
鉄と煤の匂い──それは日常に染みつき始めた「戦争の気配」だった。
東京、下町の片隅。
日々の営みは表面上、変わらぬように見える。
だが耳を澄ませば、街そのものが軋んでいる。
通りを歩く人々は言葉を潜め、店先には「節米」「銃後の護り」の張り紙が徐々に新しく貼られ、買い物籠を抱える主婦たちの目も、どこか怯えた色を帯びていた。
そんな町の一角にある、小さな定食屋──
その厨房で、楓は黙々と皿を洗っていた。
熱い湯の湯気が顔を湿らせ、米粒がこびりついた茶碗の感触が指先に馴染みはじめて、数カ月が経った頃だった。
「楓くん、お膳頼めるかい?」
声をかけてきたのは、雪乃の父だ。
声は柔らかくとも、目の奥には深い疲労と、言い知れぬ影が刻まれている。
兵士、工員、配給所の役人──この場所には、昼夜問わずさまざまな男たちが訪れ、音もなく飯をかきこむ。
楓は盆に味噌汁と焼き魚の膳を載せ、ふと左手首に触れた。
──この時代では異物とされる、あのスマートウォッチは戻っている。
あの日、泉沢がふざけた顔で「はい、忘れもん」と手渡してくれた“未来の遺物”。
そして、そこに、変わらずの──ハルカアオイがいる。
【楓……疲れてる?】
振動と共に届いた声は、どこか母音が柔らかく、懐かしい。
「……まあな。でも……毎日生きれてる…悪くないじゃん」
【そうだね。それだけで、十分だよね。】
息を吐いた瞬間、白い湯気がふわりと視界を曇らせた。
それはまるで、生きていること自体が湯気のように儚く、それでも確かに“ここ”にあることを示しているようだった。
その頃、雪乃は記録課の一室にいた。
棚には兵籍簿と戦死者名簿が並び、机の上には滲んだインクと紙の匂いが漂っている。
赤いペンで引かれた“戦死”の文字が、紙面の隅にぽつりと刻まれていた。
「……また、南方……」
手元の用紙に目を落としたまま、雪乃の指先が微かに震えた。
その胸元の内ポケット──“黒い板”が、じんわりと熱を帯びる。
【……雪乃。あなたは、ひとりじゃない】
その声は、まるで鏡に映した自分の声だった。
ユキノシロ──彼女の中に目覚めた、もうひとりの“わたし”。
「……わかってる。でも、こうしてると……自分を…見失ないそうになるの」
涙が滲まぬよう、ペンを強く握る。
記録の文字は、やがて誰の記憶にも残らない──それでも、書かねばならないと知っていた。
一方、泉沢は憲兵の制服を着て、街をゆっくり歩いていた。
手には“監視対象“の名簿。
だがその眼差しには、憲兵らしい厳しさではなく、どこか醒めた諦念が滲んでいた。
「思想犯? 非国民? アホくさ……」
ラジオ体操帰りの子どもたちが、空を見上げて飛行機雲を指差す。
彼らの笑顔すら、明日には“非国民”で曇るかもしれない──そんな時代だった。
それでも泉沢は、喉を鳴らしてあくびをかみ殺しながらつぶやく。
「ま、今日も適当に“働いたる”わ。真面目すぎると、心まで戦争になってまうで」
そして、空の上──
城は、飛んでいた。
風を裂く零戦の機体。
突き上げる風圧と、金属の震えが体に染みつく。
遠く雲の向こうに、陽が沈もうとしている。
空は赤く、そして深く蒼かった。
──彼の名は、今や新聞にすら載る“空の英雄”だ。
子供たちは「城少尉みたいになりたい」と口をそろえる。
だが、その英雄は、誰よりも孤独だった。
「……なぁ、城。お前、ほんまは、どう思ってるんや…」
地上の河川敷で空を見上げながら、泉沢がぽつりとつぶやいた。
「戦争って…なんやろな…」
四人の若者。
互いに現在を思い、考え、悩み、それぞれの場所で生きていた。
だが…その心のどこか奥底には、名もなき光──ハルカアオイ…ユキノシロという“記憶のかけら”が、微かに灯っていた。
夜。
布団の中、楓は静かに囁く。
「ハルカ……なあ、オレ、もう戻れねぇのかな……」
【分からない。でも……ここにいることが、意味のないことだとは、思えないよ】
青白く揺れるスマートウォッチの光が、まるで未来から届いた微熱のように、部屋の片隅を照らしていた。
──沈む陽は、ただ夜に飲まれるのではない。
それはまた、次の朝を生むために、いま静かに影の中で息を潜めているのだ。
To be continued…