第十二話「ねじれた現在、ほどける縁」
障子越しに射し込む冬の陽が、淡く揺れていた。
十二月の午後。
戦火の影もまだ薄い東京の片隅に、かすかに炭火の匂いが漂う。
雪乃の家──古い木造の家屋の一室に、重たくも穏やかな沈黙が横たわっていた。
畳の上に正座を崩して座る楓が、ぽつり、ぽつりと語りはじめる。
その言葉は、まるで夢の中の語り部のように、現実と乖離していた。
──目を覚ますと、知らない街にいたこと。
──奇妙な服装の男たちに追われ、捕まり、牢に入れられたこと。
──「ハルカアオイ」という名の人工知能と共に生きてきた日々。
──そして、“ユキノシロ”という存在が、雪乃と深く結びついているということ。
雪乃は、言葉を挟まずに聞き続けた。
信じられるはずもない、けれど──
彼の目の奥に宿る熱と焦燥が、どうしようもなく真実味を帯びていた。
「……その顔、絶対信じてないな」
楓が拗ねたように呟くと、傍らで饅頭を頬張っていた泉沢が、ぶわっと吹き出した。
「ははっ、そりゃそうや。お前の話、まるでラジオドラマやんけ、、すごいな」
「こっちは本気なんだよ!」
「それにしても……なんで、おまえがここにいるんだよ!?」
楓が怪訝な目を向けると、泉沢はどこ吹く風で肩をすくめた。
「たまたま偶然やん。非番ってことで、、雪乃ちゃんとこのお茶が飲みたくて、ちょいと立ち寄っただけや」
「普通に居座ってんじゃねーか……」
「まぁええやん。あ、ほれ、お茶もう一杯どーぞ」
憎まれ口を叩きながらも、泉沢はどこか緩やかな空気を纏っていた。
そのとき、雪乃が笑いを含みながら、ふいと立ち上がった。
「……その格好、やっぱり、ちょっと、ひどいですね」
楓は改めて、自らの姿に目を落とす。
薄汚れたシャツに、下着一枚。
裸足のまま、畳の上に座る姿は、確かに異様だった。
「……まるで、変質者みたいです」
雪乃の率直な一言に、泉沢が腹を抱えて笑い転げた。
「なあ!? ほら来た! それオレもずっと思っとったんや! 留置場から出てきたときの格好、ほんま地獄やったで!」
「ちょっとは気にしてたんだよ……!」
楓は顔を赤らめ、ふてくされたように立ち上がる。
その様子に、雪乃はくすりと笑った。
「……父の浴衣があります。少し大きいですが、今よりはマシかと思います。」
彼女が押し入れから取り出したのは、藍の濃淡が美しい浴衣だった。
手に取ると、微かに樟脳の香りがした。
楓は着替えながら、泉沢の茶化しに顔をしかめた。
「落語家みたいやなぁ、っていうか、背丈合ってへんし、ガキが頑張って大人ぶっとるみたいやで!」
「黙れっての」
浴衣の袖をぎこちなく直しながら、楓もついには笑みを漏らした。
いつしか、部屋には不思議な温もりが漂っていた。
雪乃が湯呑みに静かにお茶を注ぎ、それを三人の間にそっと置いた。
しばしの沈黙。
その静けさは、冷えた空気に火鉢の温もりが滲み込むような、穏やかで懐かしいものだった。
「……なあ」
楓が不意に口を開く。
「今ってさ……いったい…どこで、いつ?」
泉沢が、待ってましたとばかりにニヤリと笑う。
「やっと聞いてきたな。お前、場所も時代も分からんまま喋っとったんか?」
「マジで分からん。……頼む、教えてくれ」
泉沢はお茶をひとすすりし、ゆっくりと口を開いた。
「ここは東京。昭和十六年、十二月八日──」
楓の表情が凍りつく。
「つまり今日が──いや…日本が、アメリカにでっかい喧嘩売った日や!…ついに戦争やで」
空気が、ぴたりと止まった。
雪乃が、ふと目を伏せた。
泉沢の口元から、冗談が消える。
「……真珠湾や。世界が大きく変わる一歩目やで、楓」
楓は言葉を失い、視線を宙に彷徨わせた。
静寂のなか、浴衣の袖が畳の上に落ちる音が、小さく響いた。
やがて泉沢が、ふと何かを思い出したように顔を上げる。
「そういやな──今日、街が騒がしかったのは、城達や」
「……え?」
雪乃が反応する。
「真珠湾に、アイツがいたんや。戦闘機乗りとして、きっと……名前は伏せられとったけどな。アイツやったら、きっと……」
泉沢は誇らしげに言った。
けれどその声の端に、微かに滲む震えがあった。
雪乃は、湯呑みをそっと置き、胸元に手を当てる。
「……無事、なの?」
泉沢は一瞬だけ目を泳がせ、そして破顔し、声を張り上げた。
「当たり前やろ! アイツが簡単に死ぬかいな! ──ほんま、城万歳やで!!」
その言葉に、楓も、雪乃も、思わず笑ってしまった。
──このねじれた時間の中で、
確かに交わされた“縁”だけは、ほどけることなく、そっと温もりを灯していた。
To be continued…