第十話「脈打つ光、導かれる声」
──燃えていた
すべてが、赤く、熱く、壊れていた。
軋む木材。
泣き叫ぶ声。
血と煤の匂いが、空気に溶けていた。
そして、崩れかけた屋根の影が、ゆっくりと雪乃に覆いかぶさってくる──
ぱちん、と何かが弾けた。
まるで水面に顔を出すように、意識が浮上する。
雪乃は畳に座り、荒く息を吐いた。
喉は焼けつき、襦袢は汗で湿り、背中にぴたりと貼りついている。
膝の上にあった“それ”──黒い板が、かすかに震えていた。
指先をそっと這わせると、黒い板の表面に、脈打つような光が浮かんだ。
──《HARUKA AOI》
その瞬間、耳の奥で──いや、もっと深く、心の奥底で──透明な“声”がささやいた。
【助けてあげて……あなたにとって、大切な人。とても、大切な】
視界に、映像が流れ込んでくる。
鉄格子。
誰もいない留置所の奥。
俯いた青年が、誰かに──呼ばれている。
「……かえで……?」
自分の口から零れたその名に、雪乃は驚いた。
知らないはずの名前。
けれど、確かに胸の奥に火のような熱を残していた。
(──この人を、助けなきゃ)
気づけば立ち上がっていた。
着替える間もなく、髪も結ばず、雪乃は黒い板を胸に抱きしめて、家を飛び出した。
街は、異様な熱気に包まれていた。
朝刊の号外が風に舞い、子どもたちが「勝った、勝った」と声をあげて駆けていく。
街角では軍服姿の男たちが興奮気味に語り合い、婦人たちが手ぬぐいを握りしめて立ち話に花を咲かせていた。
「聞いたか、真珠湾や! 八隻の戦艦が沈んだらしいぞ!」
「わしらの戦闘機が、全部やってくれたんや!」
「これで鬼畜米英も、終いや終いや!」
人々は誇らしげに空を見上げていた。
だがその喧騒を、雪乃はまるで別の世界の音のように感じながら、ただ前を見て走った。
胸の奥には、まだ“もう一つの世界”の熱が残っていた。
──楓。
その名を知っている理由などなかった。
けれど、心が、叫んでいた。
(この人に、会わなきゃ──)
──憲兵本部
灰色の建物の前に立つ憲兵が、ぴたりと雪乃の行く手を塞いだ。
「ここは立入禁止だ。すぐに立ち去れ。」
低く鋭い声。
普段の雪乃なら、怯んで引き返していたかもしれない。
だが、今の彼女は、ほんのわずかだが震える声で答えた。
「……“富神 楓”という方に……どうしても会いたいのです」
その名を口にした刹那、背後から陽気な声が飛んだ。
「──雪乃ちゃんやん!? え、どないしたん?」
制服の裾を翻して現れたのは、泉沢だった。
時代にそぐわぬ軽やかな笑顔と共に、この場の乾いた空気を一変させる。
「富神 楓て、もしかして、あの“ヘンテコな格好の奴”を探しに来たん?」
雪乃は、小さく頷いた。
「この子、オレの知り合いや。大丈夫や、通したって」
軽く手を上げると、憲兵が不満げに眉をひそめながらも門を開いた。
雪乃は深々に一礼し、胸に黒い板を抱いたまま建物の中へと駆けこんだ。
暗く細い廊下の先。
ひとつだけ開いた鉄格子の中に、一人、青年が座っていた。
膝を抱え、光の消えた目で、どこも見ていない。
けれど雪乃は、彼の姿を見た瞬間、なぜか涙がこぼれそうになった。
──この人。
初めて会うはずなのに、心が揺れる。
名前を呼びたくなる衝動。
何かが、確かに繋がっていた。
彼女はそっと、胸の板を強く抱きしめた。
すると、黒い板が、ふたたび脈打つように光を放つ。
──《YUKINO SHIRO》
その名と共に、静かに声が響く。
【あなたは、わたし?】
【わたしは、あなた?】
柔らかな光が、雪乃の胸と、楓の沈黙を、ゆっくりと包み込んでいく。
“もう一つの世界”から運ばれてきた光と声が、“この時代”で、ふたりの記憶をゆっくりと結びはじめていた。
To be continued…