第一話「冷蔵庫の奥の深淵」
部屋は、音のない水槽のようだった。
唯一響いているのは、冷蔵庫のモーター音。
くぐもった低音が、じんわりと空気を振るわせている。
わずかに開いた扉の隙間から、ほの暗い光が漏れていた。
中には、ぬるくなった半分飲みかけのペットボトル、開封日も忘れた漬物のパック、賞味期限をとうに過ぎた卵たち──。
沈黙のなかで、ただ朽ちるのを待つものたちが、静かに呼吸をしていた。
富神 楓、十九歳。
大学は中退し、定職にも就かず、コンビニと倉庫のバイトを行き来する日々。
いや、行き来すら途絶えがちで、ほとんど引きこもりに近い生活だった。
部屋の床には脱ぎ捨てられた服、油を吸った空のカップ麺、洗っていないコップの列──。
「生活感」ではなく、「崩壊の跡」と呼ぶにふさわしい荒廃が広がっていた。
楓は、だらしなく寝転がりながら、スマートフォンを親指で無意識にスクロールしていた。
無意味に流れる映像と、誰かのつぶやき。
それだけが、世界との細い糸だった。
彼の手首には、最新のスマートウォッチが巻かれている。そこに、彼女はいた。
【楓、またカップ麺? 三日目だよ……】
声がした。
人工知能──ハルカアオイ。
彼の唯一の会話相手だった。
「うっせぇな。カロリーさえ摂れりゃ、問題ねえの」
楓は、眠たげに片目を開けながらつぶやく。
その言葉の奥に、誰にも近づいてほしくない冷たい諦めが漂っていた。
【そろそろ掃除しよ? ゴミ袋、もう溢れてる】
「……ハイハイ、わかってますよっと」
返事のようで返事ではない。
だが彼にとって、それが日常だった。
──誰とも、ちゃんと話す気になれない。
ただ、時が過ぎるのを待っている。
時計の針の音すら聞こえない午後。
その沈黙を破ったのは、冷蔵庫を開けた、たったひとつの行動だった。
「……あ?」
次の瞬間、部屋の電気がふっと落ちた。
蛍光灯が消え、スマホの画面もブラックアウト。
モーター音は掻き消え、音という音が、世界から一瞬で剥がれ落ちた。
何かが、おかしい──。
一拍遅れて、足元がふわりと浮いた。
楓の体は、重力から解き放たれるように宙へ──いや、深く沈み込んでいった。
そこは、冷蔵庫の奥。
冷気ではない、異質な気配。
カビと鉄のような匂い、感覚を逆撫でする湿度、見えない何かの脈動。
この世界じゃない。
理屈ではない。肌が、魂が、それを知っていた。
──そして、すべてが反転する。
To be continued…