寓話と神話
月明かりが静かに庭を照らし、風が枝葉を揺らす。夜気は冷たく、けれど肌を刺すほどではない。
砡は、行灯を提げた蒼龍に連れられ居所で最も広い庭に来ていた。足元に敷かれた白砂が、ぼんやりと夜の光を反射している。
自分の屋敷故か、砡と蒼龍だけいるこの空間は、どこか寂しい。
「砡、始祖が五龍を討伐したという話を知っているか?」
「?はい。『五龍討伐』なら、この国に住んでいる者なら、誰でも知っています。」
『五龍討伐』龍山國始祖の建国神話だ。始祖による龍退治。まだ普通の子供だった頃、寝物語に母から聞かされた。大抵の者がそうであるだろう。
蒼龍は静かに首を縦に振った。
「二十八宮は、かつて始祖が倒した五龍が一つ。天門族が住んでいた場所だ」
「天門族……?龍は、群れをなしていたのですか?」
砡は、幼い頃に聞かされた伝承を思い起こす。五つの龍を討伐し、龍山國を築いた始祖の偉業。それはあくまで神話のように語られていた。しかし蒼龍の言葉には、神話の幻想を打ち砕くような響きがあった。
「違う。龍とは、当時敵対していた異民族の暗喩だ」
「!」
砡は息をのんだ。そんな話は、今まで聞いたことがない。
蒼龍は庭の奥へと足を進め、その中央で立ち止まる。
「その証拠は、宮殿の倉院に残されている。だが、民間に流布された伝承は、禁忌を破った理由を正当化するために脚色されたものだ。異民族を弒し、彼らの土地を奪い、国を築いた——それが事実だと知れたら反感を買うからな」
「なぜ、そんなことを……?」
砡の問いに、蒼龍は黙って庭の片隅へと歩み寄った。そして、石碑の前で膝をつき、行灯の灯りを翳した。
そこに刻まれた文字が、淡い光に浮かび上がる。
【天門殿】とある。
「……これは?」
「その答えだ。負けた異民族の娘を、側室に召し上げたんだ」
「負けた異民族を……?取引、ですか?」
蒼龍は静かに頷いた。
「天門族は龍山に眠る龍への信仰が篤かった。彼らの民を迂闊に迫害すれば、信仰を利用した大きな反乱が起こる可能性があった。だから、始祖は異民族の娘を側室として迎え入れた。懐柔のためにな」
「……その方は、どうなったのです?」
「始祖の子を身籠もり、女児を産んだ」
「!」
「始祖は、この石碑を建て、ここに公主を住まわせた。しかし、その子は『九帝』には数えられなかった」
その言葉を聞き、砡は胸の奥に冷たいものが流れ込むのを感じた。
(でも、そうするとどうして蒼龍はここに?)
「つまり……始祖は、自らの血を引く娘を王族として認めなかったのですか?」
「そうだ。血筋の正当性を疑われるのを避けるためだろう」
蒼龍は立ち上がり、行灯をかざす。その光に照らされた彼の横顔は、まるで石像のように無機質だった。
「——その末裔が、俺だ」
「……!!」
砡の胸がざわめいた。
(そう、なのか。やはり)
異民族である公主は敬遠されていた。そこにわざわざ居を構えているのだ根深い事情があるのだと思った。
蒼龍の目が、夜の闇の中で金色に輝いていた。その色を見た瞬間、砡は理解した。夜に猛禽の如く光る黄玉の瞳——かつては異民族の証とされたその色。
「俺は、九帝一族である父と公主の血を継ぐとされる母から産まれた。とはいえ、その成り行きから、前王には敬遠されていた。異民族の血が台頭することを恐れたのだろう。しかし、前王は崩御し、その皇太子もいない」
砡は、蒼龍の言葉を静かに噛み締めた。
「……なぜ、私にこの話を?」
しばらくの沈黙の後、砡はそう問いかけた。歴史の真実を知ることは、国家において時に重すぎる荷となる。ましてや、砡は王位争奪戦において何者でもない——はずだった。
「お前は、俺が妻にしたからな」
蒼龍の声が微かに揺れたように聞こえる。
覇気を纏った普段の姿からは、想像できない孤独を背負う男がそこにいた。
「納得できないか」
「いえ、その意外だったものでしたから」
急に胸元が熱くなり、砡は上衣の衿を引き寄せた。
この男でも、そんな感情をもつことがあるのか。
「九帝に数えられようと、俺とて若輩者の人であることに変わらない」
蒼龍は、行灯を握り直し、ゆるりと背を向けた。
「冷える前に戻るぞ」
「はい」
再び静寂が訪れた庭を後にすると、寝室に戻る途中、蒼龍の言葉を反芻しながら彼の後ろを歩いた。行灯の灯りが揺れ、蒼龍の長い影が廊下に伸びる。
彼は九帝一族でありながら、異民族の血を引いている。だからこそ、前王から敬遠されていた。
その告白を受けた今も、蒼龍は変わらず堂々とした背を見せている。自分の道を生きることに揺るぎないのだろう。
政変に巻き込まれ、家族を失い奴隷へ落ちた自分。そんな自分は、ふってわいた【妻】という立場に乗り、前の主人と関わりあいのある人間が現れただけで動転してしまうぐらい卑小だ。
(どうすれば、こんな風になれる?)
「貴方は、今の自分をどう思いますか」
「なんだ、問答か」
そうだな、と一言おき。
「どうもしない。母方から受け継いだ血があるからといって、忌むことも称賛することもない。俺は民のため、己のためやるべきことをやる。――ただそれだけだ」
迷いのない声で、答えはすぐに返された。だが、と蒼龍は続ける。
「お前は、どうなのか知りたい。砡よ。【妻】は苦しいか」
「……いいえ。私は……貴方の横に立ちたい」
その言葉は、夜の闇の中に静かに溶けていった。
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