玉座の周り
たった1日で、目まぐるしく周囲が変化したのは、7年前以来だろうか。部屋が橙に染まる頃、蒼龍はこの部屋を出ていった。何事もなかったように、あの涼しげな顔のままで。
蒼龍が出ていった部屋。砡は、寝台の上で仰向けに転がっていた。
(自分があんな風に逆らうと思わなかった)
彼の頬を叩いた右手を翳す。過重な労働と栄養不足で節くれだった手だ。かつて鍛冶屋の跡取りとして坊っちゃん等と呼ばれた面影はない。それが蒼龍の頬を打った。
「笑ってたけど」
ぽつりと零した言葉は、部屋の静けさに吸い込まれた。蒼龍は、叩かれた瞬間、ほんのわずかに目を細めた。驚きだったのか、それとも別の感情だったのか。だが、すぐに、楽しむような微笑を浮かべた。
叩いてから時間を置いたはずなのに、蒼龍に触れた手の熱が消えない。蒼龍はどうだろうか。
(争いに関わることの多い武官にとっては、大したことのない痛みなのかな)
自分の小さな手のひらなど、蚊が刺した程度にも思わなかったのかもしれない。
けれど、それでも——
——あの瞬間、何かが、決定的に変わった気がする。蒼龍は部屋にいる間じっと、砡を見詰めていたのだから。
砡はゆっくりと寝台の上で身を起こした。壁に掛けられた燭台が、小さく揺れている。
(何を考えているんだ私は...)
蒼龍の言葉が、微笑が、視線が、まとわりつくように頭の中に残っている。
空気は冷たいはずなのに、なぜか胸が熱い。
砡は乱暴に髪をかきあげた。
「……違う。やめろ、こんな」
そう呟くと、まるで逃げるように、寝台の端へと身を寄せた。心臓の鼓動が妙に耳に障る。まるで、足場が崩れていくような不安定な感覚。
奴隷になってから、ずっと恐怖心と警戒心だけで過ごしてきた。だが今は、別の感情が胸の奥をざわつかせる。
砡は思わず、拳を握りしめた。
(あんなもの……信じるな)
――期待すれば裏切られる。人は裏切るものだと、家が滅んだ時わかったじゃないか。
砡は、余計な期待を押し殺すように、ぎゅっと目を閉じ、寝台に顔を埋めた。
夜の帳が完全に降りる頃、砡は寝台の上で目を開いた。
眠れそうになかった。
体の奥に重く溜まった疲れは確かにあるのに、意識は妙に冴えている。心臓の鼓動だけが耳に響く静かな部屋。ほんの少しでも眠ってしまえば、この熱が引いてくれるかもしれないと思ったが、無駄だった。
(考えるな)
蒼龍の言葉が、視線が、笑みがこびりついて離れない。頭を振っても、拳を握りしめても、どうにもならなかった。
——コン。
唐突に、部屋の扉を軽く叩く音がした。
砡は息を詰め、寝台の上で身を固くする。こんな時間に誰が?
再び、コン、と控えめな音。
誰かが入るつもりはないらしい。様子を窺うような遠慮がちさがあった。砡は慎重に起き上がり、そっと扉へと歩み寄る。
「……誰だ」
低く問いかけると、わずかな沈黙の後、意外な声が返ってきた。
「私だよ」
思わず眉をひそめる。女の声。それも、どこか聞き覚えのあるものだった。
——いや、間違えようがない。
砡は躊躇いがちに扉を開く。
そこに立っていたのは、見慣れた装いの女人だった。
「……あんたは」
女人は一歩、砡の方へ近づいた。深く被った頭巾の奥から、朱い唇が覗く。
「久しいね」
懐かしげなその声音に、砡は息をのんだ。
「——どうして、ここに?」
女人は答えず、代わりに小さな包みを差し出した。深緑の絹に金の刺繍が入っている。前主人の家紋だった。
「……受け取れ。詳しい話はあとだ。これを開ければ、わかる」
砡は無意識に震える手で、それを受け取った。
胸の奥で、ざわめきがいっそう強くなるのを感じながら。
遠く、廊下の奥で足音がした。女人はそれを聞きつけると、低く囁く。
「また来る」
そして影のように素早く姿を消した。
包みを見つめながら、砡はじっと考える。左手につけられた奴隷紋が疼く気がした。
砡は慎重に包みを開いた。
中から現れたのは、一枚の書状。そして、見覚えのある装飾の施された小さな鍵。
「これは……」
僅かに震える指で書状を広げる。そこに記されていた言葉を目にした瞬間、砡の血の気が引いた。
——これが王座争いか!
◇◇◇◇◇◇
一方、蒼龍は別室で玄鴉と向き合っていた。蒼龍にとって面倒な相手は、砡の部屋で時間を潰した後も待っていたらしい。
「……それで? 俺をからかって楽しんだだけじゃないだろう。わざわざ来た理由は何だ」
蒼龍は静かに問いかけた。
燭台の淡い光が、彼の横顔に陰影を落とす。表情は微動だにせず、冷静そのものだった。まるで玄鴉の挑発など取るに足らないものだと言わんばかりに。
一方の玄鴉は、薄く笑みを浮かべながら、指先で漆塗りの卓を弾いた。カン、と小気味よい音が響く。
「はは、そんなに警戒しなくてもいい。俺はただ、お前の出方を見に来ただけさ」
盃を軽く回し、琥珀色の酒が揺れる。玄鴉は楽しげにそれを口に含むと、蒼龍を値踏みするような視線を向けた。
「俺より他の候補者を見ろ。炎煌、煌烈など後ろ楯が大きい。最近は特に派手に動いてるじゃないか」
「あの二人はわかりやすいのさ。他人事だが蒼龍、お前もその一人だろう?」
玄鴉は、揺れる燭台の明かりの中で薄く笑う。
「俺は貴族の支持も持たず、宮中のしがらみにも興味はない。ただ、成すべきことを成しているだけだ」
蒼龍は淡々と答えた。
「ふむ……。では、成すべきことの先に、王座はないと?」
「……どうだろうな」
蒼龍は視線を伏せ、杯を揺らした。淡く波打つ酒の表面に、微かな迷いが映る。
玄鴉は、その瞬間を見逃さない。
「お前は狙っていないつもりでも、周囲はそうは見ないぞ。特に、龍命石の行方を追っていたことは——」
「俺が動けば、そういう目で見られるのはわかっている」
蒼龍は言葉を切り、杯を置いた。
「だが、俺が王座を狙うかどうかは、俺が決めることだ」
玄鴉は口元を歪めた。
「——本当にそうか?」
静寂が落ちる。燭台の灯りが、二人の影を長く伸ばしていた。
「それとも……砡のために、王座を狙う気になったか?」
蒼龍の指が、僅かに杯の縁を擦る。
「……くだらない」
「そうは見えないぞ、蒼龍」
玄鴉は目を細め、ゆっくりと酒を飲んだ。
その瞳の奥には、ただの政争ではない、別の興味が光っていた。