乱れる感情
砡は息を呑んだ。
引き寄せられた腕の力強さに、身体が跳ねる。唐突な動きに抗う間もなく、引かれた先には、蒼龍の冷ややかな眼差しがあった。
「……っ」
胸の奥がざわめく。何かを言おうとした唇は、かすかに震えて言葉にならなかった。
「怖いのか?」
「いえ、私はそんな」
声が揺れる。何も、ただ本当に下男と話していただけのはずなのに、動揺してしまう。
蒼龍は、偽りは許さないとばかりに、左手を痛い位握り、砡の腰をしっかりと抱きしめている。その腕の力強さに加えて、彼の声は低く恫喝した。
「逃げるのか」
蒼龍の唇が、耳元に触れる。砡は反射的に首を横に振った。怖いわけではない。だが、それ以上の何かが胸を締めつけていた。
「なら、なぜ震えている?」
二言目の問いが突き立てられる。
蒼龍の指が、そっと砡の顎を持ち上げる。視線が絡むと、鋭い琥珀色の瞳がまっすぐに砡を捉えた。
「あ……や……わ、私、は」
砡の言葉は掠れ、うまく続かなかった。
蒼龍は微かに目を細める。逃げないと口にした砡の肩に力がこもるのを感じたのか、その腕をさらに引き寄せた。
「なら、答えろ」
問う声は低く、静かだった。けれど、それがかえって砡の心を乱した。
「何を話していた?」
背筋を撫でるような響きが、容赦なく砡を追い詰める。
「……別に、何でも……」
「なら、今ここでその言葉を繰り返してみろ」
砡の喉が詰まる。言う通りに下男との話を伝える。たったそれだけのことが、今はどうしようもなく難しい。
蒼龍は、砡の顎を軽く持ち上げたまま、ほんのわずかに顔を近づけた。
「……できないか?」
至近距離で交わされる問い。黄玉の瞳がじっと砡を覗き込む。
「それとも、俺の目を見て話せないほど、やましいことでもあるのか?」
威圧された言葉を振り払うように、砡は叫んだ。
「ただ、ただ書物について話しただけです!そこまで疑われるなら何でもお調べになってください」
「はっ、何も隠し事はないと言えるのか。俺は武人だ。調べると言ったら生温いことはしないぞ」
瞳を大きくさせ、固まる砡を角の寝台へと連れていき蒼龍は押し倒した。傷ついた顔をした砡であったが何かを諦めたように力を抜く。
「蒼龍様が武人とおっしゃるなら、私は奴隷です。貴方の所有物であるのですから、どうかご自由に」
「……っ、砡!」
蒼龍の顔が歪んだ。押さえ付けられた砡の手首が軋む。
「……お前は、そう言えば俺が手を引くとでも思ったか?」
低く絞り出された声が、砡の耳元で響く。
「違いますか?」
砡は、寝台の上からまっすぐに蒼龍を見上げた。
「所有物が何を思おうと、貴方には関係ないはずです。私はただ、言われるままに従うだけの存在で」
言い切る前に、蒼龍の手が砡の顎を強く引いた。
蒼龍の瞳にギラギラと怒りの炎が見えている。
「……それが、お前の本心か」
怒っている。でも、何にそんな怒ることがあるのだ。出会ったばかりの自分たちに一体何があると。
砡は薄く唇を開くが、言葉にならなかった。
「ならば、言ってみろ」
蒼龍の指が砡の喉元をなぞる。
「俺に抱かれることが、何の意味もないと」
「!」
砡は喉が絞まり息苦しくなるのを感じた。
「どうした? 言葉が出ないのか?」
静かに、蒼龍が顔を近づける。
彼の動きは、獲物を仕留める獣のようにゆっくりと、しかし確実だった。影の落ちる頬の稜線は鋭く、それでいてどこか陶器のような滑らかさを持つ。長く端正な眉は吊り上がり苛立ちが見える。 息をするたびに、彼の逞しい肩がわずかに揺れ、戦士の身体に刻まれた硬い肉が、薄い砡の身体を潰してしまいそうだった。
「ならば、俺が教えてやる――お前は俺の所有物ではない」
「……っ」
砡の瞳が揺れる。
「だがそんなに柵が欲しいなら縛り付けてやる。二度と、そんな言葉を吐けないようにな」
そうして蒼龍は、強引に砡の唇を塞いだ。それは口付けと呼ぶには余りにも一方的で暴力的な行為だった。何かから身を守るように、ぐっとつぶった睫毛が震えていたことを、蒼龍は見ていた。
息を継ぐ間も与えず蒼龍が舌をねじ込むと、苦しそうな声が喉奥から漏れる。瞬間、大きな乾いた音が室内に響いた。
乾いた音を立てたのは、砡の振りかぶった右手だった。蒼龍の頬が、微かに赤く染まる。
「……ほう?」
荒く息を吐き出す砡を、蒼龍はじっと見下ろしていた。怒るでもなく、驚くでもなく――ただ、値踏みするような目だ。
「今のは……どういうつもりだ?」
「……っ」
砡は震える掌を見つめた。無意識に振り上げた手のひらは、じんじんと痛む。
「貴方は、私を弄ぶおつもりなのですか」
唇を噛み、震える声で問う。
「いいや?」
蒼龍はゆっくりと顔を傾けると、まるでその言葉が理解できないとでも言うように否定した。 のし掛かっていた身体を退け、立ち上がる。
「俺はただ……試してみたまでだ」
「……試す?」
砡の眉が寄る。
「所有物だと言うなら、それを否定したらどうなるのか」
蒼龍の指先が砡を射す。
「まさか、そんな目をするとはな」
ゆっくりと顔を近付ける蒼龍に、砡の肩がびくりと震える。
「私は一体何を…」
家主を叩いたことに気付き、我に返った砡は、青ざめる。
「お前の本音が聞けて嬉しいよ」
蒼龍が、口元を崩した。それは冷笑とも嘲笑ともつかない、どこか楽しげで余裕を含んだ表情だった。目の奥には探るような色が浮かび、砡の反応をじっくりと観察するかのように、ゆっくりと瞬きをする。その仕草すら計算されたように流麗で、圧倒的な自信を感じさせた。
(悔しい)
砡は唇を噛んだまま、ぎゅっと拳を握りしめる。
この余裕、この貫禄。同じ男として悔しかった。
「それで、何を話したんだ?」
また同じ問いを繰り返す。その声には、もはや冷えた怒りもない。ただ、試すような、愉しむような――そんな色が混じっていた。