前触れ
「いずれお前自身が答えを見つけるだろう」
蒼龍の言葉を反芻しながら、砡はため息を吐いた。意味深な言葉を残していく人だ。
気晴らしにと歩み出た内坪には、小さな桜の木が植えられている。もう少し暖かくなれば、美しい花を咲かせるのだろうかとぼんやり考えていたところ、小石を詰めた道を踏みしめるざりざりとした音が聞こえた。振り返ると、自分の頭より高く書籍を積み上げ、それを抱えた下人がふらつきながらこちらへと近づいてくる。
「すみません、蒼龍様の奥様のお部屋はこちらでしょうか?」
顔も見えぬほどに書物を積んだ彼の姿に、砡は思わず肩をすくめた。まるで歩く本棚のようだ。
「……奥様?」
思わず復唱してしまう。まさか自分がそう呼ばれるとは思わなかった。
下男は必死にバランスを取ろうとしている。見かねて、砡は上に積まれた数冊を取ってやった。すると彼はほっとしたように息をつき、ようやく視界が開けたらしく、にこりと笑う。
「あ、見えた! ありがとう!」
自分と年の近そうな若い下男だ。
その素直な喜びように毒気が抜かれ、砡も思わず口角を上げた。
「奥様、は多分私のことです」
「えっ? あ、申し訳ありません!!」
「いえ、驚きますよね」
気まずそうにしながらも、謝る下男を見、砡は軽く息を吐いた。確かに蒼龍の側に仕える身ではあるが、そういう関係ではない。居候しているだけの妻、ただ、そんなことは下男に言うべきことでもなく。訂正するのもまた面倒だった。
その頃、蒼龍は去坂と共に廊下を歩いていた。
「客は誰だ?」
「玄鴉様がお目通りを、と」
その名を聞いた瞬間、蒼龍の眉尻がぴくりと動いた。
「……面倒な奴が来た」
低く呟くと、去坂が苦笑する。
「ええ、お気持ちは察します」
玄鴉——九帝の一角にして、影の支配者とも言われる男。彼が動くとき、それはすなわち何かの策略が始動する兆しだ。
蒼龍が静かに襖を開けると、そこには黒衣に身を包んだ男がいた。身体は全て何らかの布で覆われており、顔に至っても、極薄い黒の綿紗で隠され面立ちがよくわからない。それなのに【玄鴉】として通されるのは、腰にぶら下げた当主を示す佩章があるからだった。
「やあ、久しぶりだな、蒼龍」
細められた双眸が、愉快そうにこちらを見据えている。玄鴉が口元に微笑を浮かべながら、ゆったりとした動作で茶を傾けた。他人の部屋で随分落ち着いたものだ。
「こんな時間に何の用だ?」
「おや、つれないな。昼を過ぎた位じゃないか。少し旧友と語らう時間が欲しかっただけだよ」
「貴様と語らう趣味はない」
「冷たいなあ。まあいい。実は——」
玄鴉は軽く指を曲げる。すると、控えていた部下が一歩前に出る。
「ある噂を耳にしてね。蒼龍、お前のもとに“面白いもの”があると聞いたんだが」
蒼龍は表情を変えぬまま、玄鴉を見つめた。だが、彼の鋭い眼光をもってしても、この男の底は見えない。
「……お前が興味を持つほどの者はいない」
「ふうん? そうかな」
玄鴉は薄く笑うと、蒼龍の傍へと歩み寄った。
「俺は“面白いもの”が好きでね。特に、お前が隠しているものほど、興味をそそるんだ」
その言葉に、蒼龍の指がわずかに動く。
彼は、砡のことを嗅ぎつけたのか?昨日の今日だ。この男、つくづく油断も隙もない。
「——お前が何を言いたいのか知らんが、余計な詮索はするな。俺の領域に踏み込めば、お前といえど容赦はしない」
蒼龍の低い声に、玄鴉は楽しそうに肩をすくめた。
「怖い怖い。でもな、蒼龍」
玄鴉は蒼龍の背後をちらりと見やる。
「お前の“面白いもの”は、すでに俺の手の届くところにいるかもしれないよ?」
その瞬間、蒼龍の瞳が鋭く光る。
玄鴉の言葉の意味——それを、確かめなければならなかった。
◇◇◇◇◇◇
「それにしても……なかなかの量ですね」
砡は腕に抱えた書物を眺める。その中には見慣れたものもあったが、見たことのない古い巻物も混じっている。無造作に積まれた書物の中から、一冊の書を引き抜いた。
「これは……兵法書?」
思わず呟くと、下男は少し驚いたように目を瞬かせた。
「お詳しいんですね!」
「いえ、詳しくはないですが、昔少し読んだことがあって」
「へえ~では、これはどうです?」
下男はさっと別の書を取り上げる。そこには珍しい戦術が記された古文書が載っていた。砡は思わず目を見開く。
「『射策要略』?陽前に書かれた軍略本ですよ!こんなものまであるのですか」
「……ええ。九帝一族の所有する書物は、それは凄いですから」
軽く言う下男の様子に、砡は微かな違和感を覚えた。だが、それを言うことは、憚られた。せっかく和やかに話していた雰囲気を壊したくなかった。
(それにたかが本のやりとりで馬鹿馬鹿しい。)
だから、言葉を飲み込んだ。
下男が仕事へ戻ると出て行き。砡は、一人になった。奴隷になって以降、ああいう風に話せたのは久しぶりで少し嬉しかった。前の主人は、猜疑心の塊であったから、使用人も奴隷も皆相互に監視するようにされていて、息吐く暇もなかった。
(また、話せたらいいな。名前聞きそびれてしまった)
砡は腕に抱えた書物を眺めていると、ふと、背後に視線を感じた。
ゆっくりと振り返ると、そこには蒼龍が立っていた。険しい表情のまま、じっとこちらを見つめている。
「……どうかしましたか?」
声をかけると、蒼龍は無言のまま歩み寄り、砡が抱える書を取り上げた。
「これは——」
蒼龍の指が、砡の手にかすかに触れる。その瞬間、心臓がどくんと跳ねた。
「……誰と話していた」
静かながらも鋭い問い。砡は戸惑いながらも、「ただの下男ですよ」と答えた。
すると、蒼龍の顔がさらに険しくなり、砡の手首を強く引いた。
「俺以外の奴に気を許すな」
その囁きに、砡は息を呑んだ。
冷えた蒼龍の手が、妙に熱く感じられた——。