石の意味
石の意味
砡は、目を瞬き蒼龍を見つめる。
この男は、何を言っているんだ?
「結婚…?」
「そうだ」
一対の美しい黄玉の瞳が真摯に応える。
「奴隷であるお前を守るためには、それが一番いい。主人を失った奴隷は、市場に出されるからな。」
「そうですが、でも、それは…」
龍山國の奴隷制度に、【主人の所有権喪失】がある。主人が死亡あるいは、奴隷を維持できる資産を失った場合、その所有権を喪失する。
権利の外に出された奴隷は、市場の競売にかけられ新たな引き取り先を待つ仕組みだ。
「お前の主人は、死んではいないが、商売を含め随分やり方が酷かったからな。俺と屋敷に来た連れ…が、締め上げている。だから事実上、お前は、主人を失ったことになる」
砡は、自分の足首に残る鎖の跡を見つめた。
主人を失った、というのは確かに事実だ。しかし、それは自由になったということではない。市場に出され、次の所有者に買われるだけ――それが奴隷の運命。
「……では、私は誰かに買われるしかない、ということですね」
ぼそりと呟いた言葉に、蒼龍は微かに眉を寄せた。
「そういうことになるな」
「でも、何故貴方が? 私を買う理由なんてないでしょう」
目の前の男は、武官だという。ならば、奴隷の一人を助ける義理などないはずだ。しかも「結婚」などという形で、わざわざ自分を引き取る理由が分からない。
「あるさ。お前が守ったものの価値を、俺は知っている」
蒼龍は、ゆっくりと手を差し出した。砡の肩に軽く触れ、意識をこちらへ向けさせる。
「お前が持ち帰った荷物――あの石が、ただの宝石だと思っているか?」
「……違うんですか?」
砡は驚きに目を瞬かせた。主人が宝石問屋を営んでいたのは事実だし、あの荷物には確かに貴重な宝石が詰まっていた。しかし、蒼龍の言葉は、それだけではない何かを示唆しているようだった。
「そうだな……お前には話しておくべきかもしれない」
蒼龍は少し間を置き、静かに続けた。
「あの石は、龍命石と言ってこの国の命運を左右するものだ。」
その言葉の意味を、砡はすぐには理解できなかった。ただ、ひとつだけ分かることがある。
――自分は、とんでもないものを運んでしまったのかもしれない。
蒼龍は砡の細い手首を軽く握り、落ち着かせるように指先で叩くとその手を離した。
「さあ、行こう。ここに長居は無用だ」
砡は迷いながらも、牢の外を見た。淡い光が天井からもれている。
「……私は、どうなってしまうんでしょうか」
「少なくとも、奴隷として競りにかけられることはない。俺の妻として、ここを出るんだからな」
「…………」
冗談のような、だが冗談ではない言葉に、砡は言葉を失った。
地下牢を出た砡を待っていたのは、喧騒と散らばった書類で埋め尽くされた屋敷だった。何人もの官吏が部屋〃を行き来しており、そのうちの一人、やや緑がかった黒髪の官吏がこちらへやって来た。
「八焰」
「蒼龍、どこへ行っていたんですか」
「迎えに行っていた」
蒼龍は、顎をくいと動かし、腕の中の砡を示す。胡乱気な目を向けた官吏だが余程忙しいのかすぐに蒼龍へ視線を戻して話し出した。
「なるほど、貴方の目的はそれだったわけですね。詳しくは後程、宮殿で聞きます。随行させた兵士を二人つけますから早く帰ってください。私はここの主人を探して隈無く書類に纏めなければ」
「わかった」
言うだけ言うと、踵を返してしまう。その背中に、蒼龍が投げ掛ける。「ああ、主人なら地下で伸びてるぞ」
八焰は、振り返らず中指を立てて返事をした。どうやらそういう間柄らしい。
砡は、腕の中からそっと顔を上げた。
「……あの方は?」
「八焰。俺の腹心の官吏だ」
「仲が……良いんですね」
蒼龍は一瞬だけきょとんとした顔をしたが、すぐにくっと喉を鳴らして笑った。
「良いように見えたか?」
「……いや、違う気がしてきました」
砡の正直な感想に、蒼龍は肩をすくめる。
「八焰は有能だが、まあ、口が悪くてな。それに、俺のやり方が気に入らんらしい」
「それなのに、貴方の腹心なんですか?」
「有能だからな。どれだけ文句を言われようと、必要な人間だ」それにああいうのは、嫌いじゃない。
その言葉の裏には、深い信頼があることが窺えた。
砡は、蒼龍が単なる力の持ち主ではなく、人を動かす能力に長けていると思った。
――だからこそ、こうして屋敷を掌握し、奴隷である自分にまで手を差し伸べてくるのだろう。
「さあ、行くぞ」
蒼龍が言うと、二人の兵士が歩み寄ってきた。鍛えられた体躯に、無駄のない動作。見るからに精鋭だ。
「今回の摘発は大きい。アイツが言った様に宮殿まで護衛がいた方が安心だろう」
「……?」
「わからんか。あり得ない話ではない、逆恨みや財宝の略取、火事場泥棒とかな」
砡は唇を引き結んだ。
「……はい」
砡に拒否する権利などない。妻と言われたが、それは彼の口約束に過ぎないし、奴隷にそもそもそういう権利はない。
だが、彼の中に芽生えた疑問は尽きなかった。
なぜ、蒼龍はここまでして自分を庇うのか?
なぜ、あの石が「国の命運を左右する」とまで言われるのか?
――そして、なぜ、自分はこの流れに巻き込まれてしまったのか。
砡が言葉を飲み込む間に、蒼龍はもう歩き出していた。
「宮殿までは、少し距離がある。見られるのも嫌だろうし、馬車を使おう」
「……はい」
砡は小さく息を吐き、長い奴隷生活で負った傷だらけの両手を握り締めた。
屋敷を出た先に待つ運命が、どのようなものなのかは、まだ分からないまま。自分の心を守るように。