目立つ男
目立つ男
金華彩の賑わいは日が傾きつつあっても衰えることはなかった。
手水へ立った砡は、一階の菓子棚や茶棚を少し覗き好奇心を満たした後、蒼龍のもとへ戻る。階段を上がり二つ部屋を過ぎた時、耳に気になる言葉が入ってきた。
「聞きましたか?先日の朝議の話」
「軍部の昇進の?それなら王が不在の中、九帝の当主達で決定されたとか」
「ええ。北部遠征に軍部が出たのは、随分前ですが、王位争いのせいで褒賞が遅れていたそうです。それが今回九帝によって与えられたと」
「北部遠征ならば、蒼龍殿か」
「そうです。将軍位へ昇進。これで、空席だった四大将軍の席は、蒼龍殿で埋まるでしょう」
「いよいよ軍部の力関係も変わってくるでしょうね。煌烈将軍や炎煌公も面白くは思っていないはず」
「なにせ蒼龍殿は若くして、しかも後ろ盾が薄いと見られていた。それが功績一つでここまでとは……それだけ遠征時、兵士の犠牲が少なかったことが評価されたか」
「蒼龍殿は、義理堅い御方ですからな。煌烈将軍は、静観するかもしれませんが、炎煌派は、この人事に動くでしょう」
不穏な言葉だ。
砡はひとつ息を吐き、蒼龍のもとへ戻ろうとしたが、廊下の角を曲がった先で、別の人物と鉢合わせた。
「これは、また」
立ちはだかる男は、見紛うことなき美丈夫。艶やかな黒髪。涼やかな双眸、遊びのような笑み、けれど全身から漂う悪辣の気配。
「蒼龍殿の“花嫁”とお目にかかれるとは」
炎煌――九帝の一人。九帝一族の中でも筆頭とされる炎家の当主にして、政財両面の権威を振るう男。その余裕を纏った視線は、先日のように砡を値踏みするように上から下まで滑った。
砡は一礼し、穏やかな声で言葉を紡ぐ。
「 炎煌公、お目にかかれ光栄です」
砡は姿勢を正し、目線を逸らさずに応じた。
負けたくない――。
けれどその喉はわずかに鳴り、額には汗がにじむ。炎煌の持つ色気は、ただの甘さではなく、まるで毒を含む華のようだった。
「先日見た時も思ったが、美しいな。君は」
指先が、砡の肩に触れた。そっと滑るように、肩衣の端をつまむ。だが、砡は一歩も引かずに唇を引き結んだ。
「これは誰が仕立てた? この地の生地ではあるまい。……わざわざ取り寄せたのか、君のために。まったく、つまらぬ武人だと思っていたが……意外と好みは悪くない」
ぞくり、と砡の背筋を冷たい何かが撫でる。けれどその時。
「その手、下ろしていただけますか」
低く、鋭い声が割って入った。
蒼龍だった。後ろから静かに近づいていた彼は、怒気を孕んだ眼差しをそのまま炎煌へと向けた。
「貴方に、彼へ触れる権利はない」
「ほう……嫉妬か?」
炎煌の笑みは深まるばかり。挑発するように砡の耳に「まるで妻を寝取られたみたいだな」と囁いた。砡の二の腕に鳥肌がたつ。
蒼龍は一歩、砡の肩を守るように出ると、ぐっと睨み据えた。
「砡は、我が妻です。いかなる理由であれ、貴方に冒瀆されるいわれはない」
その言葉に、炎煌の目がすっと細められた。
「……ほう。“妻”と呼ぶには、扱いが杜撰に思えるが。ま、よい。隙があればこちらもそれだけ手を出しやすい。……蒼龍殿。貴殿だけが彼に目を付けたわけではないこと努々忘れぬようにな」
またな。砡殿。
意味深な言葉を残し、炎煌はひらりと袖を翻して去っていく。
残された砡と蒼龍。
「……すみません。私の、不注意で」
砡が目を伏せた。炎煌が去ったあとの廊下に、微かな沈黙が満ちた。先ほどまでの会話の熱が、まだ肌の奥に残っている。毒のような気配だった。艶やかで、けれど触れてはならぬもの。けれど蒼龍は、ふっと吐息をつき、砡へと手を伸ばす。
「いや。俺こそ、離れてしまった。すまない」
そのまま、蒼龍の手が顎をすくい、顔を上げさせられる。
「あの男は“強欲”だ。人を喰うことに、何のためらいもない。あの言葉も本心だろう」
「……何故、私が」
「わからん。俺が妻を迎えたこと自体へのからかい……とする程、あの男は軽薄ではない。何か炎煌が掴んだものがあるやもしれん。心当たりはあるか?」
「……わかりません」
「いずれにしろ。ここで話す内容ではないな。部屋へ戻ろう」
簾を下ろし、広縁の戸を閉める。薄暗くなった部屋に蝋燭を灯すと、蒼龍は無言で立ち尽くした。考えているようにも見えたが、寧ろ苛立ちが強いように思えた。先程といい不安なる展開に砡も言葉を探すように黙っていたが、やがてその沈黙が堪えきれず、口を開く。
「……怒っておられるのですか?」
「怒っている」
即答だった。けれどその声には苛立ちよりも、濃く染み込んだ焦燥が混じっている。
「だが……俺はあの男に怒っているより、お前に――」
「え?」
「はぁ、どうして俺は、こんなにも怒ってるんだ自分でもわからん」
蒼龍は言いかけて唇を噛んだ。そして次の瞬間、砡の手首を取って引き寄せた。
「……お前が触れられていたのを見て、心が焼けた」
「蒼龍様……」
「いや、もう呼ぶな。今は、そばにいればいい」
吐き捨てるような声だったが、その手は震えていた。砡が見上げると、蒼龍の双眸が揺れている。怒りでも、激情でもなく――切実な不安のような色。
(怖がっているのですか。貴方がそんな顔をするなんて)
砡は、戸惑い困惑した。どうすれば、蒼龍の不安を取り除けるかと考えて、そして。
「……ならば、私は、あなたのものになります」
砡の手が、蒼龍の頬に添えられる。指先が、そっと耳に触れ、顎をなぞる。
「あなたが望むなら……私は、あなたにすべてを捧げます」
以前の自棄から出た言葉とは、違う。心から彼を案じてのことだった。
「砡……」
蒼龍の言葉が途切れる。砡がその胸に身を寄せると、彼の腕が迷いながらも背に回された。唇が触れるのに、時間はかからなかった。
それは、最初は優しい口づけだった。だが次第に、熱が混じり、息が乱れ、言葉よりも深く互いを求め始める。
着物の合わせが乱れ、砡の白い肌が露わになっていく。蒼龍の手は、ためらいながらも滑りこみ、背を撫で、肩を抱く。砡は何も言わず、それを許した。
その時――砡の胸の奥が、なにか奇妙に軋んだ。
熱とは別の、感覚。
奥底に眠っていた何かが、微かに目を覚ましたような――
そして、蒼龍の手が砡の心臓の上に添えられたとき、一瞬だけ、砡の身体が微かに光を放った。淡い金の輝き。それはすぐに消えたが、蒼龍はそれを、見逃さなかった。
「……いま、光った……?」
砡が蒼龍の声に自らの胸に手を当てた時。
金華彩の奥が突然甲高い音を立てて、爆ぜた。砡は蒼龍に覆い被さられる。建物が揺れ、塵が舞う。途端、店内にざわめきが走った。火の手はあがっていないが、階下から悲鳴と剣撃音が届いた。
「非常事態です!お逃げください!」
二階にいる客へ向けてだとわかる店員らしき者の叫び。この店には、何人もの要人がいるのだろう。各部屋から慌ただしい気配があった。
二人の熱は現実の急報で冷めていた。砡は反射的に身体を起こし、蒼龍と目を合わせる。
危機が迫っていた。




