金華彩
金華彩へ行くぞ。
突然の言葉に砡は、瞬きで返した。驚いたのである。どう返していいか相手の様子を伺うが、蒼龍は仏頂面で黙っているだけだ。困ってしまって、「あの」とだけ切り出すと口元を曲げて「嫌なのか」と聞かれた。
「いえ。でも、蒼龍様はお忙しいのでは」
「忙しいと言っても、流石に宮中やここに引き込もっているばかりではない。半日の休暇くらいとる。それで、どうなのだ?」
「……はい。それなら」
そして、砡は、蒼龍によって久々に市内へ降り立つことになった。
二日後、去坂の用意した淡い青磁色をした曲裾袍を身に纏った。銀糸の波紋が刺繍された袍は、派手さはないものの、繊細な美しさを宿していた。耳飾りや簪も身に付けていたが、あくまで控えめにされている。
去坂は、妻として蒼龍と出掛けるのだからと、凝った装飾のものも出してくれたが、砡は奴隷生活が長く落ち着かないと断った。外聞が気になったのもあるかもしれない。
馬車の前で蒼龍が待っていた。
いつもの朱色の武官服に、黒の披風を羽織り、威厳ある姿によく似合っていた。
(近寄りにくい……)
と砡が思ってしまう程に威圧感もある。
中々近付いて来ない砡を訝しんだのか、蒼龍の方が声をかけたので、観念して走り寄った。
「遅れて申し訳ありません」
「いや、今程着いた所だ。どうした?」
「いえ、緊張してしまって」
「?別におかしなところなどない。よく似合っている」
二人の話は、噛み合っていなかったが、思いもよらず聞けた褒め言葉に、砡は少し俯いて誤魔化した。
蒼龍はそんな砡の様子に、ほんのわずかに首を傾げたものの、それ以上は何も言わず馬車へと促した。
「行くぞ」
「はい」
砡は頷き、蒼龍に続いて馬車へ乗り込む。外から見れば普通の馬車だが、内部は簡素ながらも丁寧に仕立てられた内装が施されていた。軋むことなく進む車輪の音に、砡はほっと息をつく。
窓から差し込む光に揺れる景色を眺めていると、やがて蒼龍へ目を遣った。こちらへ視線を向けるわけでもなく、ただ静かに座っている。
砡は先ほどの言葉を思い返していた。
──よく似合っている。
それは、あまりにも唐突だった。
(あの方が、私を褒めるなど……)
蒼龍は厳格で、必要以上の言葉を口にしない。ましてや感情を表に出すことはほとんどない。それなのに、何のてらいもなく砡を褒めた。その事実がかえって胸をざわつかせる。しかし、いつまでも黙っているわけにもいかない。少しでも緊張をほぐそうと、砡は思い切って話しかけた。
「あの、金華彩というのは、どのような場所なのでしょうか」
「行けば分かる。騒がしいところだ」
「……そうですか」
蒼龍の言葉はいつも簡潔で無駄がない。その分、話を続けるのが難しい。 余計なことを言い、嫌われるのは避けたかった。だから、砡は、唾と共に続く言葉を呑み込み無理やり微笑んだ。
それを見ていた蒼龍は、取り繕うように言葉を足した。
「すまない、言葉が悪かったな。ただあの茶館は、聞くよりも見た方がわかりやすい。扱う物は良いものなんだが」
「!そうなのですね。お菓子がいいとは伺っていたのですが」
「去坂か?」
はい。と砡が答えると蒼龍は、ふと視線を伏せ、何か考えているようだった。けれど結局、再び口を閉ざしてしまう。
「甘い菓子や点心が揃っている。店主に言って一通り出させてやろう」
「えっ、そんなに食べれるでしょうか」
「食べきれなければ、持ち帰ればいい」
そんなに食べられるとは思えんが、少しくらいなら楽しめるだろう。?とからかわれ、砡はまた赤面することになった。歓談する二人を乗せた馬車は静かに揺れながら、市の喧騒へと向かっていく。
馬車は石畳をゆっくりと進み、やがて市の賑わいが聞こえてきた。遠くからでも分かる活気に満ちた声、行き交う人々のざわめき、香ばしい焼き物の香りが風に乗って漂ってくる。
金華彩は、市内でも特に栄えた一角にあった。周囲の店々は色とりどりの布を軒先に掲げ、黄金や翡翠の装飾が施された看板が立ち並んでいる。その名の通り、華やかさを誇る場所だった。 また、籠を抱えた商人や、綺麗に着飾った客たちが行き交っている。露店では甘い果実や焼き菓子が並べられ、子どもたちが笑い声をあげながら駆け回っていた。
一際目を引くのは、金華彩の正面にそびえる楼閣である。二階建ての造りは深紅の柱と黒漆の梁で構成され、屋根には金箔が散りばめられている。
入口には鮮やかな緋色の幕が掛かり、金糸で「金華彩」と見事に刺繍されている。左右には大きな朱の灯籠が据えられ、昼間でも煌びやかさを際立たせていた。
「……立派なところですね」
砡は思わず感嘆の声を漏らす。
「それなりに名のある店だからな」
蒼龍は淡々とした口調で答えたが、それは慣れているからだろうと砡は思った。店構えからして貴族や高官も足を運ぶような格式がある。
人の波は途切れることなく金華彩へ流れる。
しかし、そんな賑わいの中でも、蒼龍の存在は際立っていた。黒の披風を翻しながら馬車を降りると、自然と人々の視線が集まる。それに気づいていながらも、彼はまるで意に介さないように堂々とした足取りで歩み出した。
「砡、行くぞ」
その一言と共に差し出された手を慌てて取り、馬車を降りる。「あれが例の……」と聞こえるのは、客の中に貴婦人や官吏、武官が紛れているからか。蒼龍と共に注目を浴びる申し訳なさを感じながらも店の門を潜った。
店へ入ると、行き交う客の間を縫って、店員がすぐにやってきた。
「いらっしゃいませ。蒼龍様、砡様」
「!」
名乗りもしていないのに、砡の名前を呼ばれたことに目を見開く。しかし、蒼龍は、当たり前のように店員へ案内を頼んでいる。ここでは、普通のことらしい。
案内された二階。白檀の香がほのかに漂う静謐な空間が広がっている。豪奢な調度品が並ぶ一方で、表の華やかな賑わいとは対照的に、選ばれた者しか立ち入れない落ち着いた雰囲気が漂っていた。下には大勢いた客も、今は蒼龍と砡、それに僅かに他の気配があるだけだ。
「蒼龍様、ここは茶館ではないのですか?」
「茶館だ。表向きはな」
戸惑う砡の腰に蒼龍の腕が回る。触り方は柔いが護るようにしっかりと抱かれる。
「間違えて違う部屋へ入ると事に成る。俺達の部屋まで我慢しろ」
戸惑ったまま砡は、付いていくしかなかった。
いくつかの部屋の前を通った後、漸く立ち止まる。
「こちらでお寛ぎください」
二人が通されたのは、上質な絹張りの簾が垂れる個室だった。椅子はなく、座敷に黒檀の卓が置かれその縁には金の細工がされていた。窓際には外が一望出来るように造られた広縁があり。外下の賑やかな声がわずかに聞こえてくる。
存外風通しのよい場所に、砡は肩の力を抜けるのがわかった。
蒼龍は何の迷いもなく奥の席に腰を下ろし、腕に抱かれたままの砡もその隣に静かに座る。
「嫌いなものはあるか?」
「ありません」
「では……」
蒼龍が某か頼むと、店員は一つ頷き無言で下がった。隣り合う二人は暫し無言のまま過ごしたが、やはり砡が堪えきれず口を開いた。
「一階と二階では、随分違うのですね」
「ここは、高官達のための場だ。余計な耳目を避けるために造られている」
窓を指差し、「そこも閉じれば、声が通らん」
その言葉に砡は、悪寒を感じ眉頭を寄せる。前主人を思い出したのだ。気付いた蒼龍からすぐに謝られた。
「すまん。俺はどうも無神経なところがある」
「そんなっ、いつまでも引き摺る私が悪いのです。せっかくこちらへ連れてきてくださったのに」
微妙な雰囲気になり、更に居心地が悪くなった頃、幸い店員の声がかかった。頼んでいたものが来たらしい。蒼龍も息を吐き安堵したのが見える。
卓上に並べられていくのは、煌びやかな菓子たちだ。蜂蜜団子、蜜柑蜜羊羮、花蜜酥、百花蜜羹、蜂蜜花糕、蜂蜜千層酥……。
全て並べ置いた店員は、お茶を添えて下がったが、砡は感嘆すると同時に、ある偏りが気になっていた。
「ここは蜂蜜が専門なのですか?」
「?違うが。お前、蜂蜜が好きなのだろう」
「!」
砡は、それが蒼龍の不器用な心配りと知り、花開くように胸が綻ぶのを感じた。心がふわりと温かくなった。じんわりと広がるこの感情が、幸せというものなのだろうか。嬉しい、幸せ、そんな風に思ったのは、いつぶりだったろうか。
「はい……はい好きです……蒼龍様」
ありがとうございます。と、砡は涙が溢れそうになる目を細めた。
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