不思議な出会い
雨は、静かに降り続いていた。
軒先から落ちる雨粒が、土を濡らして細かな波紋を描く。庭の木々は重たげに枝を垂らし、苦しそうだ。
それは、まるで砡の心が形になったかのようだった。
砡は縁側に腰を下ろし、雨音に耳を澄ませながらぼんやりと外を眺めていた。
蒼龍の邸での暮らしは、少しずつ馴染み始めている。けれど、その平穏に浸るほどに、あの火事で失ったもの、己の存在の曖昧さが浮き彫りになるのだった。
──蒼龍の妻。
そんな言葉が、砡の耳に幾度となく囁かれている。ここへ来た当初は、蒼龍と去坂だけが砡の知る人物だった。しかし、あの火事で他の九帝に遭遇して以降、この屋敷内でも噂になったのだ。奴隷から引き揚げた妻。蒼龍様のご乱心。恥知らずの詐欺師。
(当たり前……か)
この館に仕える者達にとって、蒼龍は、頂に立つ高貴な存在だ。九帝の一人で、ましてや有力者である。そんな人物の横にある日突然【奴隷が妻となる】と知らされたら。
(誰だって猜疑心を懐く)
噂は、屋敷の下男や侍女たちの間に広がり、嫌がらせこそないものの、視線は厳しい。
「身分も知れぬ者が、いつまであの座にいられるか」
雨音の隙間から、そんな声が今も聞こえてくる気がした。
これは、偽装結婚だ。愛などではない――ないのだ。
考え始めると、胸の奥に重たいものが沈んでいく。ふと、砡はそっと己の手を見つめた。
薄く白い肌に雨の冷気が染み込むようだった。指先をわずかに握りしめると、蒼龍が庇ってくれたあの瞬間が浮かんだ。頬に熱が集まるのを自覚したくなくて、立てた膝に顔を埋めた。
「砡様。雨の日は心が沈むものですが、甘い菓子は気持ちを和らげてくれますよ」
かけられた声に、我に返り顔を上げる。
そこにいたのは、去坂であった。盆に菓子を乗せている。蜂蜜糕だ。
「蜂蜜糕は、蜂蜜をたっぷり使って蒸しあげております。美味しゅうございますよ」
「はちみつ……好きです。あ、お茶を入れましょう」
何にしようか悩み、菊花茶にした。
風通しのよい棚上に置いた竹籠を手に取る。蜂蜜糕が蜂蜜を使っているので、今回は蜜漬けでないものを選んだ。併せて茶器も運ぶ。
「去坂も一緒に飲もう」
「よろしいのでございますか」
「話し相手になってほしいんだ」
では、と下座に座る去坂に微笑して、茶器に湯を注いだ。温まる器からお湯を捨て、菊花と湯を淹れた。
「お上手になられましたね」
「去坂が丁寧に教えてくれたから身に付いたんだ」
ご謙遜をと、軽く首を振りながらも、この老父は、嬉しそうであった。
雨で冷えた体に茶器の温もりが心地いい。
取り留めもない話から始まり、砡は暫し、団欒を楽しんだ。
「蜂蜜糕は、去坂が作ったの?」
「ふふ、私も昔厨房を通ったことがありますが。今はめっきり。こちらは、市内の有名な茶館で仕入れたものでございます」
「そうなんだ。何ていうお店?」
「金華彩です。茶が有名ですが、点心を始め菓子が豊富なので宮中でも人気でして」
へぇ、と返しながら、蜂蜜糕をつつく。口の中に広がる甘味が何とも言えず、頬を弛める。それを去坂が見ていたので、口許を引き締めた。恥ずかしいものを見られた。
(男が菓子一つでニヤつくなんて)
誤魔化すように、苦味を求めて器に残った菊花茶を飲み干した。
数日後、朝の経書を勉め終えた砡の元へ、忙しいはずの蒼龍がやって来た。寝る間が短くとも武官姿は崩れることのない男であるが、顔を見れば流石に血色が悪い。
「どうなさいました?」
お体は、と続けようか迷い止める。自他共に厳しい蒼龍は、そんな尋ね方をすれば、否定して終わりなはずだ。
「少し寝たい。寝所に案内してくれ」
「えっ」
「なんだ、駄目なのか」
「いえ!そんな……ご、ご案内します」
蒼龍の発言に驚いて、否定したように声を出してしまったが、何とか寝台のある部屋へ案内する。
応接間からその後ろの部屋へ向かう。四季の描かれた屏風で仕切られたその部屋には、窓がある。
まだ昼前なため、窓から注ぐ光は優しく床に落ちていた。木の香りを残した寝台には、白絹の布団が端正に整えられ、枕元にはささやかな香炉が鎮座している。夜半焚く、白檀の香りも日中となればない。
「香を焚きましょうか」
「いや、今はない方がありがたい」
ふらり、と寝台に近付いた蒼龍は、そのまま倒れ寝入ってしまった。僅か呆気にとられたが、邪魔をしないよう掛け布をすると部屋から出る。
今、蒼龍といるとどうにも緊張してならない。
こういう時に限って誰も訪れない。いや、砡の部屋を訪ねる者など、蒼龍か去坂くらいだ。下男がたまに訪れるが、言付ける主は今は後ろで寝ている。
座敷に落ち着かなく腰掛けた砡の目は、寝室と出入口を何度も往復して、やがて諦めて瞼を閉じた。
「刺繍でもするかな……」
腰を上げ、棚に仕舞われた箱を取ってくる。
妃の役割を学ぶ中で、勉学だけでなく芸事も必要だった。女の仕事と普通の男なら落胆したかもしれないが、砡は奴隷時代何でもやらされたから然程苦ではない。
蓮の彫り物がされた針箱を開け、現状を忘れる為にとりかかるのであった。
がたり、と隣室からの物音で砡は、意識を刺繍から離した。どうやら没頭していたらしい。
再び屏風の向こうへ行くと、寝台で前頭を押さえる蒼龍がいた。
「どれくらい寝ていた?」
「正午の鐘は、鳴っておりませんから。半刻ほどかと」※半刻は、約一時間。
そうか。と蒼龍は呟き黙ってしまったので、砡は体調が悪いのかと近付く。すると、ぐっと腰を引かれ目の前に倒れ込んでしまった。
「あっ!」
「少し栄養をつけさせてやる」
蒼龍の腕が砡の腰にまわり、砡はその力強い筋肉に安心する。だが、そんな心を他所に彼はその肉付きを確認しただけのようだった。骨と皮まではいかなくとも、何とも頼りない様相に呆れたのだろうか。
「栄養ですか?」
「そうだ。金華彩へ行くぞ、砡」
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