物語は続くよ、世界の果てまでも⑨
「油断し過ぎ」一瞬で肉薄する母親。「薙ぎ払え! 脚線ビーム!」
「……! は?」
僕の顔面スレスレを、母親のパンプスの裏が左から右へ通過していく。
脚線ビーム?
「怪我はもう治った? 少しやり過ぎたとは思うけど、私だって痛かったんだからね」
そういえばそうだった。胸の辺りを触れてみるがいつの間にか治っていた。
いよいよ脳の処理の限界が来た。頭痛がする。夢の中で感じた初めての痛みだ。
「はっはっは。だいぶ混乱しているみたいだな坊主」父親がまた肩をバンバン叩いてくる。そのうち本当に外れそうだ。「まぁ、これも深く考えるな、都合良く受け入れろ」
「気にいってるんですか、そのフレーズ?」
「深く考えないで、都合良く受け入れなさい」と母親が僕の肩に手を置く。「息苦しいわ。もうこれいらないから脱ぐわね」黒バッグから手を放して、両手で被り物を剥ぎ取ると、肩に触れるくらいの長さの黒髪が馭者の手綱みたいに波打つ。素顔は、まさに『大人になったタマ』だった。タレ目とか超そっくり。
庭での冷酷ぶりはどこにいったのか、今はノリの良いOLのように見える。
「わかりました……わかりました! 受け入れるので説明お願いします」
「どうしよっかなー」と父親。
「迷うわねー」と母親。
「お暇しますねー」と僕。
「「待て(待ちなさい)!」」後ろから二人に肩を掴まれる。
仲良しだな、この二人。離婚しても両親が仲良いと子供としてはありがたいかもね。
「まぁまぁ、慌てなさんな。目的の場所は階段の上なんだ。話は道中に」と穏やかな声色とは裏腹に『今すぐこっから出せやぁ!』って血走る囚人みたいに僕を揺さぶる父親。
「どうしてすぐ逃げようとするの⁉ アナタまだピチピチの十代でしょ! 若さ、若さって何なの? 振り向かないこと? じゃあ振り向かずに逃げなさい!」と大きな声で無茶苦茶なことを言いながら僕を揺さぶる母親。
本当、どうなってるんだ。
「勿体ぶったけど、大した秘密なんかありゃしない。ここは磐井 珠の夢の中さ」
僕の前を行くタマの父親が振り返って言う。
「夢ってのは当人の記憶と感情と願望が好き勝手合わさって生まれる落書きみたいなもんだ。形としても現実のタマの記憶としても残らないけどな」
僕達三人は、葉桜の木々に挟まれた石階段をえっちらおっちらエッチだパンチラ(このフレーズは気に入っている)上っている。最初の段に足を乗せてからだいぶ時間は経っているはずなのに、頂上は雲のせいで一向に見えてこない。
涼しいし、静かだ。身を炙るような暑さも蝉の大合唱も霧消し、時折笑い声を立てるように揺れる葉に心癒される。
「さっき『本物のタマのお父さんですか?』って聞こうとしてたな。その答えはノーだ。俺も、後ろのOLも、あの家も、アイツの頭の中の産物に過ぎない」
「私達はあくまで演者。どんなに支離滅裂でもあの子の夢を再現するのが使命」と母親。
「でも、現実のタマの記憶には残らないんですよね? だったらそんなに真面目にやらなくても意味はないんじゃ──」
「「そんなことはない!」」
上と下から同時に否定される。
「……すいません」気圧されて謝ってしまう。「だとしても、タマやおばあさんにあんなことしたのは納得できません。あれも全部、演技って言い切るつもりですか?」
「ええ、そうよ」あっさりと肯定する。「全部、台本通りよ」
足を止めて後ろを振り向き、タマとそっくりな瞳と相対する。
「また私のこと嫌いになった?」
「嫌うというか、怖くなりました。『そういう役だったから』ただそれだけの理由で、あんなことを……あんな言葉を吐けるなんて」
「でも、久子さんはこうなることはわかっていたし、タマに至っては目を覚ませば全部忘れてしまうのよ。たかが数分数十分の悪夢、取るに取らない些末なものとして消えていく」
「そういう問題じゃない」語気が荒くなる。「本意だったかそうじゃなかったとか関係ない。事実、アナタはタマ達を傷つけたんです。使命だか知らないけど許されるはずが──」
「許されるなんて、端から思っていないわ!」
杉の木が一斉に震えた。彼女の声と一緒に。
「私が演じるのを拒否してしまえばこの夢は破綻してしまう……。母親という悪役に虐げられているところを父親が、タマが一番好きな人が守ってくれるという夢が」
「……」気まずそうに頭を掻く父親。
「私達はタマの記憶から生まれた存在。だから、現実のあの子が見たもの、感じたものは全て知っているわ。好きなドーナツを食べた時の幸福感も、気になる子と目が合った時の胸の高鳴りも、虐げられた時の痛みも、失った時の喪失感も全部全部……!」
母親は一本の葉桜の枝に触れる。すると、小さな葉がいくつか落ちていった。
「本当なら、今すぐ抱きしめてあげたい。『アナタはとても素敵な子よ、世界一可愛いんだから』『何も悪くない、独りじゃないのよ』って言ってあげたい。なのに私にはそれが出来ない……。いくら自分を誤魔化そうと、罪悪感は消えないわ……」
ゆっくりと、ギリギリまで水を注いだコップをこぼさない様に杉を見上げる。
「こんなに愛しているのに愛せないのが、とても悔しい」
葉桜の枝が、慰めるように、抱きしめるようにしな垂れて、彼女の涙を拭う。
「溜まってたもんは出たか?」父親が階段を数段下りて、母親の肩を叩く。
「粗方、わね」母親は葉桜の枝から手を放して静かに笑う。
「そうか。じゃあ行くか」
「ええ。でも、その前に──」
ズドン! 母親の拳が父親の腹部に入る。
「いってぇ……。へへっ、相変わらずのバカ力だな」蹲りながらもどこか嬉しそうな父親。
「当然。羨ましさ妬ましさマシマシだもの」とスッキリした表情の母親。
その姿を見て、戦友としての絆、みたいなものを感じた。
僕もこんな風に誰かと笑い合いたいと思った。
「じゃあ次は、坊やの番ね」腰を低くし、体を捻って力を込める母親。
「えぇ⁉」
「お、いいな。その次は俺な」
「ど、どうしてそんな流れに⁉」
「ふっ、冗談よ。今はしないわ」
「『今は』って、どういうことですか⁉」
「ほれ。ちっちゃいこと気にしてないで、さっさと上に行くぞ。本題はこれからだ」
「ちっちゃいことって……」
そそくさ上っていく父親。そして、
「早く行きましょ? 私と違って若いし動きやすい恰好してるんだから余裕でしょ?」
と言って、僕の尻を突っつく母親。
「じゃあ交換でもしますか? ちょっとつんつるてんかもしれないですけど」
「ナイス提案ね」ベルトを緩め始める。
「冗談に決まってるじゃないですか! 本当に脱ぎます、普通⁉」
「騙したのね、酷い……。てっきり四十過ぎた女の脱ぎたてパンツが履きたいお年頃だと」
「……そんなわけないじゃないですか」
「若干間があったわね」
「もうこの話は終わりです! だいぶ離れちゃったから急ぎますよ」
「アナタが交換しようって言ってきたのに」
分が悪かったから無視して踵を返す。あ、その前に……。
「あと、すいませんでした。知らなかったとはいえ最低とか言っちゃって」
「いいのよ、次は私に言葉責めさせてくれれば。私に勝てない末成り坊やのくせに青い尻を視界でチラつかせてんじゃないわよ。そんなことしてもタマは振り向かないわよ」
謝って損した! てか、何の話⁉
淫靡な快感を僅かに覚えながら、数段飛ばしで父親を追った。
父親に追いつくと、社殿らしきものが見えてきた。
ふと、異変に気づく。
「モノクロ?」
「ああ、そうだ」と父親。「頂上やその付近はすっかり色を失っている。中は時間が止まっていて、涙が出るくらい殺風景だ」
「雲の中には何が?」
「それは頂上に着いてからのお楽しみ」父親は階段を上っていく。
遂に到着。中学校の時のハイキングなんて比にならないくらいの達成感と疲労感だ。
それも、目の前の景色を見た瞬間に溶けて、どこかへ流れていったが。
開けた地にあったのは社殿ではなく、大きな杉の木が一本と、切れたしめ縄、苔むした獅子と狛犬、遺影ぐらいのサイズの一枚の鏡だった。
左右から伸びた杉の根はそれぞれ階段を挟む杉林に向かって伸びている。
確かに、あれだけ苦労しておいて待ち受けているのがこれじゃ涙もちょちょぎれそうだ。
「ふー、やっと着いたわ」母親が階段に腰を下ろす。「すっかり荒れちゃったわね」
巨人の足みたいな杉の木を見上げる。葉は一枚もなく幹と枝は脊髄と神経みたいで、鈍重な靄を拡散するように時折身を震わせている。いや、靄の発生源はあの枝のようだ。
「この木は、言わば『磐井 珠の心が本来あるべき場所』だ」父親は根をさすりながら説明し始める。「俺が言ってる『心』ってのは、言い訳や強がり、建前、義務や責任という服を全部取っ払った裸の自分のことだ。感情は剥き出しで隠し事の一つも出来ないくらい正直で、身を守るものなんかないからちっとのことで傷を負う。つまり、最も弱い自分だ」
「毛玉のタマは、最弱の一歩手前の状態」母親は立ち上がって言う。「あの子が纏っているモフモフは、楽しい思い出とか未来への期待といった『最後の布』、肌着みたいなものよ」
肌着。だからモフモフに手を突っ込んだら直に肌に触れたのか。その下は何も纏っていない……。随分センシティブな夢だ。もしかして淫夢なのか。
「アイツがこの木の中に戻らないと、遠くない未来、現実のアイツは最悪の決断をしかねない。いや、ほぼ間違いなくする」父親はしめ縄の切れ口を撫でながら言う。
「最悪の行動?」
「逃避行だ。誰にも知られることなく、静かに何もせず死んでいくために」
……死?